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日语小论文范文(精选多篇)

发布时间:2022-07-21 12:05:51 来源:其他范文 收藏本文 下载本文 手机版

推荐第1篇:商务日语小论文素材

西川さんはおられますか? 001「おられる」

○ 慣用として認めてよい表現だと思います。

「おられる」は尊敬の気持ちをこめた表現として、広く使われている表現です。「おる」はもともと「居る」で、じっと座っているという意味です。こちらが卑下するという意味をもつので謙譲語として用いて、相手の動作には使わないのが原則でした。その謙譲語「おる」に「られる」という尊敬語をつけた「おられる」は、

1.「おる」の部分が謙譲語なので相手の動作に使えない

2.「おら?れる」は、謙譲語と尊敬語を重ねて使っている

という2点で誤用だとする専門書が多く存在しています。ところが、関西地方では昔から「西川さんがいる」を「西川さんがおる」と丁寧な表現として使っているので、目上の人に「おられる」という表現を使っても違和感がなく、公的に使える尊敬表現として広く使われてきました。謙譲語ではない「おる」に「られる」という尊敬語をつけると考えるのならば、文法上の問題はなくなります。

「いる」の尊敬語は「いらっしゃる」「おいでになる」なので、標準的な尊敬表現は「西川さんはいらっしゃいますか?」「西川さんはおいでですか?」となります。 「いらっしゃる」「おいでになる」がちょっと丁寧すぎる、と感じるときには「西川さんはおられますか?」と使ってもよいと思います。 「打ち消しのほうが丁寧になる原則」を使って「西川さんはおられませんか?」とすると、さらに丁寧になります。

(私の)息子の雅彦はおりますか? 002「おる」

◎ 正しい。自分の身内に謙譲語「おる」をつかっています。

自分の身内のことをたずねている例です。相手よりも自分に近い存在である「息子」に対して謙譲語「おる」を使っているので、正しい表現です。「息子」「愚息」「せがれ」「長男」「子ども」は、自分側の身内を呼ぶ言葉です。相手の子どもは「お子様」とよぶのが一般的です。

うちには犬が3匹おります。 003「おる」

◎ 正しい。自分に謙譲語「おる」をつかっています。

この文の基本形は「うちには→おります」です。「うち」というのは本来は「家?宅」のことですが、家に住んでいる家族や自分のことを広く指すこともあるので、この場合は自分に謙譲語「おる」を使っていることになります。「うちには犬が3匹います。」と表現してもよいと思いますが、「おります」の方がやわらかい表現なので、相手は丁寧さをより強く感じると思います。「うち」のことを謙遜する表現として「拙宅」「小宅」「当家」等の表現があります。

中川さんのお宅に、犬はおりますか? 004「おる」

△ 主語が「犬」になっています。犬に敬語=謙譲語を使うかどうか?

日本語の場合、「主語に“は”をつける」ことが基本です。この文例では、「犬は??」つまり犬が主語となっています。つまり、「犬」に謙譲語を使って下げることで、「中川さん」に敬意を表している形になりますね。形の上では間違いとは言えませんが、ひとつ問題になることがあります。それは「敬語は古くから人間や神格化されたものだけに使い、事物や動物には使わない」という原則があることです。犬に敬語を使っていることが問題になってしまいます。

今までは、動物や赤ちゃんに敬語を使うのは間違いであると言われてきました。確かに、犬の行動に「~なさる」などの尊敬語を使うのは行き過ぎでしょうが、「ペットを家族同様にとても大切に思っている気持ち」からでてくる丁寧語や謙譲語であれば、よいのではないかという気もします。実際に、上の文例を「失礼だ」と感じる人はほとんどいないと思います。「うちのワンちゃんってと~っても利口でございますのよ!」??のように何かしらの嫌みが感じられる表現はよくないと思いますが、それは言葉の使い方というよりも、話している人の人格の問題だと思います。

中川さんのお宅に、犬はいらっしゃいますか? 010「いらっしゃる」

▲ 主語が「犬」になっています。犬に尊敬語は使えません。

話している人はきっと「中川さん」に尊敬語を使っているつもりです。これは、No004と同様に「助詞“は”を使うことで犬が主語になってしまう」ので、犬に尊敬語を使う形になっているのがおかしいのです。正確には「中川さんは、犬を飼っていらっしゃいますか?」です。これで、主語が中川さんになります。相手との間柄が堅苦しい関係でなければ「お宅には犬が何匹いるのですか?」というあっさりした表現でも失礼にはあたらないでしょう。

余談になりますが、ペットに愛情を注いでいる方にとっては「犬」という表現はきついと感じることもあるようです。「ワンちゃんの方が丁寧ですよ」とペットショップの方より助言をいただきました。

<来客に> 米田課長はまだいらっしゃってないんですが。 011「いらっしゃる」× 客の前で身内に尊敬語「課長」「いらっしゃる」を使っています。

姓の下に課長などをつけると敬称になりますので、社外の人に「米田課長」というのは身内に対する敬語になり、失礼にあたるとされています。「いらっしゃる」も同様で、身内に対する敬語となります。相手に対しても「~ですが」という丁寧表現だけで敬語が使えていないことになります。 さらに、この投げかけだと、「待つか?出直すか?どうしたらいいのか判断できない」という状況になり、相手は困ってしまいます。

「(課長の)米田は遅れております。大変申し訳ありません。○○頃来ると聞いておりますので、もうしばらくお待ちいただけますでしょうか。」という丁寧な対応が求められます。丁寧な対応ができたら、物事がプラスに転じることもあります。後から「きちんとした印象のいい社員さんですね」とお客さまにほめられると、課長も「遅れて良かったよ!」なんてことに???なるかも知れません(笑)。

お住まいは京都でいらっしゃいますか。 012「いらっしゃる」

× 住まい=人ではない物に尊敬語「いらっしゃる」を使っています。

日本語は、「~は」が主語=話の主題になりますので、この場合は「お住まい」に「いらっしゃる」という「尊敬語」を使っているという構造になり、不適切な表現だといえるでしょう。原則としては「お住まいは京都ですか。」という表現で失礼にはあたらないということです。丁寧に表現したいなら「お住まいは京都でございますか。」となるでしょう。「住まい」についている「お」は、「あなたの~」という意味ですので敬語の使い方として問題ありません。

この場合「住まい」を主語に立てているので本来なら尊敬表現が使えません

ビジネスと言うことは正式的な社会行為だから、参加する人に対して、身だしや交際の能力などが色々なマナーがある。もし このマナーを身に付けたら、ビジネスに溶け込むこと、もっとやすくなる。しかし 今 そのルール全部解かる人が少ないと思う。特に身だしの事だ。それで 僕はこのレポートを作成する。

今 身だしのは 社会人に対して 一番 大切なことだと思う。何というと、初めて会うとき、自分の身だしは 相手に対して巨大的な影響を与えて、この時身だしは自分だけの代表じゃなくて、会社の代表だ。何でも言わなくても、直接に身だしから 本人の能力、会社の実力を判断する人がいっぱいいるんだ。これは 第一印象ということだ。だから 社会人 特にサラリーマンの身だしの重要性は当たり前だ。どうすれば 完璧な身だしになれるの。

基本は以下の3つと心得だ。

1.清潔感があること

2.相手に不快感を与えないこと

3.仕事がしやすいこと動きやすいこと

ひとくちに制服と言っても、クリエイティブな仕事、営業的な仕事、事務的な仕事、人と接する仕事など、仕事の内容によってさまざまだから、場合によって、制服も違う。 取り敢えず サラリーマンについて 説明する。

ワンポイントビジネスマナー……職場、オフィスと言う所でデスクワークをしているときに来客があったら、必ず上着を着て面 談するのがマナーだ。ワイシャツ姿でデスクワークをしている光景は良く見かけるけど、来客の知らせを聞いたら上着を着てから接客する。相手を迎えるときには、上着のボタンを必ず一つ以上とめておきる。

社外の人と接する機会が多い場合には、あなたの印象が会社の印象を決めるから。スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、革靴を基本にする。上着やズボンのしわをチェックし、きちんとアイロンまたはプレスをするだけで自分の印象がかなり変わって来るようにする。同じスーツを連続着用するとスーツの形がくずれやすいので、一日着用したらきちんと肩に丸みのあるハンガーにかけておく。ズボンのすそ丈は、靴の甲にのり、少したるみが残るくらいの長さに調節する。ショップで相談にのってもらうときには、普段履く靴のかかとの高さに合わせる。ワイシャツの方は 襟や袖口は清潔なものを。また、きちんとクリーニングしたものを着用する。サイズをきちんと計り、身体に合ったものを身につける。正式なお洒落の場合のワイシャツの色は白方か良いと思う。ブルーは男らしさや精力的なイメージ、ピンクはお洒落なイメージだ。

その他にもグレーをはじめ各種のカラーがある。ネクタイとコーディネイトする。

ストライプのシャツは若々しさと知的なイメージがるけど、派手で目立つストライプのシャツの着用は人によってはイメージを損なうおそれがあるもんで、注意が必要だとおもう。。水玉 模様を着用する場合についても、派手なものは避けて、地味なものを着る。ネクタイの中のカラーを1つ選び、シャツと合わせるとコーディネイトが簡単にできる。ビジネスシーンにお薦めなのは、ストライプ、ドットなどだ。チェックや、全体に柄が規則的に配置されたものなども良いできる。特に新入社員の場合の目上の人との面 談や、営業の業務の方などの場合、あまり変わったデザインのネクタイは止めて、もっと 正式の奴にして。

ネクタイの形状にも流行がある。太さ、剣先の角度、大きさ、厚さなどが少しずつ異なる。結び目の大きさが異なってるもんで、店頭や雑誌などでチェックしても良いだ。結ぶときのコツは、ベルトのバックルがネクタイの先で隠れるくらいの長さをめやすにして結んで、

ここまで 服の方は 大体完成する。あとは小さい物をつけて、ポケットチーフやハンカチどか、好きの方にしても良いと思う。最後は靴だ。これは 絶対に大事なものだ。靴の入り方違ったら、前の仕事、全部無駄になる。ビジネスシーンでは、黒または茶色の靴を履きます。靴下は必ず靴の色と合わせる。白いソックスは駄目だ。ホテルなど、接客業の人は、お客様の靴をみてその人の格を判断する、と良く言われる。きちんと磨いて手入れをしておくこと、同じ靴を連続してはかないこと、だらしない靴を履かないこと、この3つを守るだけで、ずいぶんあなたの印象が異なってきる。

以上は一つのサラリーマンの基本の身だしルール。

他の仕事は最初の三つのルールをちゃんと守れば 十分だと思う。

例えば 介護の仕事、子どもと接する仕事などの場合、動きやすい、明るい色づかい、汚れても良い洗濯しやすい素材、などがふさわしくなるだろう。

また、制服がある職場や業務の場合は、通 勤時と勤務時とで服装を着替えるため、通 勤時の服装に関しては比較的自由がきくと考えられる。

以上の話にとって 職場の身だしのルールはたくさんがあるし、難しいだし、でも 良く知ってたら、皆は余裕があると思う。

ここまで 職場の身だしの対して 僕の心得なんだけど、皆にすごしの役立つがあると思う。

商业是一种正式的社会行为,所以对于参加者的仪表和交际能力有着各种各样的要求。如果掌握了这些要求,就更易于溶入社交活动中。但是 我认为现在对这些要求完全了解的人比较少,特别是着装仪表方面,因此我写了这篇论文。

当今对于步入社会的人来说仪表是相当重要的。为什么这么说,在第一次和别人见面的时候,个人的仪表会给接触对象很大的影响,这个时候你的仪表就不单单代表自己了,他同时代表着你的公司。即便什么都还没说,直接通过仪表来判断一个人的能力,所在公司的实力的人,大有人在。这就是人们通常说的第一印象。所以 已经工作的人,特别是白领阶层的仪表的重要性,是不可忽视的。那么如何才能让自己拥有一套完美的仪表呢。

最基本的有以下三个心得。

1。首先要保持服装的整洁。

2。第二 不要给他人不愉快的感觉。

3。最后 尽量选择便于工作和活动的服装。

即便是一概的说是制服,从事设计的工作,做营业项目的工作,做事物的工作,负责公关的工作,根据工作的内容不同,场合的不同,所需要的服装也不同。

首先让我们针对白领的着装加以说明。

职场,就是在办公室做一些事物性工作的时候,如果有客户来访,必须要穿戴整齐的与人面谈。虽然身穿白色衬衫在办公室经常可见,但是如果听到有客户到来,一定要穿上西装。在欢迎客户的时候,西装至少要扣一个以上的纽扣。如果经常需要接待其他公司的客户,你就是代表自己公司的形象了。套装,白衬衫,领带,皮鞋,这些都是必备的物品。上衣和裤子上的褶皱要好好检查,好好用熨斗熨平,以保证自己的形象,同样裤子也是一样。去商店咨询哪种高度的鞋适合自己。白衬衫的领口和袖口一定要保持清洁,一定要穿清洁过的衬衫。一定要穿合身的衬衫。正式的场合最好穿白色的,兰色的给人一种精力旺盛的感觉,粉色给人一种洒脱的感觉。还有其他的很多颜色比如灰色等。配以合适的领带。条纹的衬衫,给人一种不稳重的感觉,所以正式场合穿会有损自己的形。在穿着水珠花纹的衬衫的时候,一定要避免和很华丽的领带搭配。一定要挑选相对朴素的。在商务活动中个人比较推荐条纹一类的

推荐第2篇:日语论文

长春工业大学学士学位论文

从《一个人的好天气》来看主人公的性格特征

计:学位论文表

——一部“飞特族”女孩儿的成长笔记

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《一个人的好天气》(2007)是日本当代女作家青山七惠(1983-

)创作的第二部作品。该部作品于2007年获得了日本最高文学奖项--芥川奖。小说紧紧扣住了时代的脉搏,从主人公知寿身上,可以看到日本现代年轻人的普遍特征。因此,这部作品也成为了“飞特族”的代表作品。

本论文通过对知寿的性格特点、心理活动以及成长历程的深入探讨,总结出当代日本青年的心理和价值观。便于更好地了解日本年轻人的文化氛围。

关键词:自我封闭、受伤一族、飞特族、青春成长史

要 旨

『一人日和』(2007)は日本現代女性作家青山七恵(1983- )によって作られた二番目の作品である。この作品は2007年に日本最高文学賞の芥川賞に受賞され、社会で大騒ぎをした。小説は時代に合わせて、新世代の人生を反映したリアリティーを持っている。主人公知寿の身の上から、現代日本の若者が共有する特徴が見られる。そのゆえ、この作品はフリーター族の代表的なものとして受け入れられたのである。

本論は知寿の性格特徴、心理活動および成長する過程にもとづき、現代日本の若者の深層にあるものを検討けんとうしようと思っている。さらに日本の若者のカルチャーにたいして、より深ふかく理解するようになる。

キーワード:自己的閉鎖 傷をつける一族 飛特族 青春的成長する歴史。

前言

1.知寿的性格.......................................................1 1.1“受伤一族”性格的形成...........................................1 1.2知寿与母亲 ......................................................1 1.3知寿与吟子 ......................................................2 1.4知寿与三个恋人 ..................................................2 1.5“彻罗基们”与知寿的交友观.......................................3 2.知寿的成长过程...................................................3 2.1封在自我中的满足 ................................................3 2.2第一次失恋前后的季节 ............................................3 2.3来自吟子的暗示 ..................................................3 2.4 自我觉醒........................................................4 2.5性格的缺陷 ......................................................4 2.6第二次失恋后的物是人非 ..........................................5 2.7正视离别,走出自我 ..............................................5 2.8对幸福生活的勇敢追求 ............................................5 3.“飞特族”的文化圈................................................5 注 释…………………………………………………………………………..……7参考文献………………………………………………………………..…………..…8 谢

辞………………………………………………………..…………………..… 9

从《一个人的好天气》来看主人公的性格特征

——一部飞特族女孩儿的成长笔记

1.知寿的性格

本文通过对《一个人的好天气》进行分析。总结主人公知寿的性格特点和其成长经历。并联系现今日本社会上的年轻中特有的“飞特族”盛行的现象,分析当代日本青年的心理和价值观,从而对知寿的性格进行总结。

1.1“受伤一族”性格的形成

本文的主人公知寿是一个典型的“受伤一族”,她受过伤害,也害怕受伤,在这种潜意识的影响下,她的个性变得自我封闭。她不善与人交往,也不愿与人交往。长此以往,只生活在一种寂寞、空虚的状态中。知寿是敏感、脆弱的。她常常无视于别人的好意与关怀。可在潜意识里,她又是依赖这种关怀和温暖的。在这部小说中,知寿的性格被展现得淋漓尽致。她对生活的态度,在一定程度上是漠然而倦怠的,带着一种消极与自我否定来看待自己以及周围的事物。那种对于未来的迷惘与无助被他转化成一种自我反叛与自我批判。甚至觉得“生活是残酷的,一不小心就会堕落。”是她在生活中带有一种麻木与随波逐流。她向往着幸福,但不敢面对生活带来的挫折与打击,让她觉得自己的人生是“无意义”的。稍受挫折就“不想活了”。

知寿作为一名刚刚毕业的高中女生,没有去找成为正式社员或上大学。而是选择成为一名“飞特族”。寄宿在远亲吟子家中。这种无压力、无责任的生活,正是知寿生活理念的写照。对于刚刚步入社会的知寿来说,未来是充满未知的。在寄宿打工期间,知寿经历了两次失败的恋爱。也正是这两次恋爱,使知寿从迷惘无助的生活中解脱,走出了自我封闭的圈子,重新找到了生活的意义。并且在痛过之后。真正的走向独立。找了一份正式工作,搬离了吟子家,住到了职工宿舍,但找了一个“有妇之夫”。虽然这段新的恋情是十分极端的。但对知寿来讲,已经是她能所踏出的最大的一步。所以说,知寿的性格,是在受伤后,自我治愈、自我反省的一种成熟。

1.2知寿与母亲

知寿的父母在知寿5岁时离异,之后的知寿与母亲过着单亲生活。知寿在这件事上是受

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伤的。她想将这种无法言语的伤痛归咎于父母,却又因为难以启口而作罢。这是知寿自我封闭的开始。她对于父亲可有可无的对待也可以看出,知寿心里的“家庭”已经完全被“母亲”所替代。而面对母亲,知寿也是疏远的。特别是在母亲远行中国之后,知寿觉得在她心里,已经无法把母亲看作是最亲近的人。而是一位干涉她生活方式,对她的想法不屑一顾,甚至拿女儿去履行“约定”的人。知寿的母亲是一位很普通的日本中年女性,她年轻时离异,独自抚养自己的女儿,有自己的教职。她对知寿,有着作为母亲的关怀,也有着作为一个中年人,对知寿这样的年轻人未来的打算与指导。

知寿了解母亲的关怀,却无法消除母女之间的隔阂。她明白母亲从小到大抚育她的辛苦。却将这种辛苦转化成钱财的回报,甚至在与母亲相处时,因为无法还清而觉得生分、不自然。得知了母亲的新恋情,正是知寿第二次失恋后,看着母亲幸福的样子。知寿的心情是复杂的,为母亲不必孤单而高兴,却又觉得母亲要离开自己了,再也感受不到母亲无微不至的照顾而心情微微发酸。

而知寿所感觉到的母亲“好像生日宴会上的主角”一样的快乐时,让她更看到了自己失恋后的孤独、寂寞。这种无法对母亲言说得清的痛苦,使她开始思考一个以前从未想过的问题。她开始思考自己的人生意义,并且将她的想法说给吟子听,并最终让她明白了自己的缺陷,使她真正成长起来。

1.3知寿与吟子

作为寄宿家庭的主人,吟子与知寿,是人生中的两个极端。一个是风华正茂一个则已垂暮年。而知寿在吟子同住的这段时间里,既没有年轻人浮躁的习性,也没有感受吟子有老年人特有的不好相处之处。平淡而真实的生活,就这样一点点铺陈开来。而吟子在知寿的成长中,也起到了不可或缺的作用。

知寿在东京的打工,就是从吟子的家开始的。刚开始对于吟子“热情的接待,殷勤的招呼”有点不太适应的知寿,后来渐渐地感受到老人不修边幅、大而化之,却又在生活中透露出老人家的智慧积极的处事哲学。知寿在一开始对这种智慧是不屑一顾的。在知寿眼里,吟子有些事情做的是毫无意义的。就像她看见吟子化妆时一样。觉得“都没人会看,化来干什么呢”但在相处中,知寿渐渐感到吟子的“独到之处”。

在知寿所经历的两次失败的恋爱中,吟子一直都陪伴在知寿身边,在知寿觉得孤独、迷惘时,她在知寿的成长中是不可或缺的,是她在知寿的人生道路上推了一把,而她与芳介的黄昏恋,一直或多或少的影响着知寿。在内心深处,知寿是羡慕着吟子的爱情的。他一直将吟子积极乐观的生活态度看在眼里。甚至问出“一个人真的可以一下子用完他一生所有的恨吗”这样的问题。可见,知寿是希望了解进入吟子的精神世界的,特别是在她失恋时,她在吟子那里找到许多的安慰与陪伴。

与知寿的母亲相比,吟子在知寿的成长中,成为知寿的领路人。相较于母亲的幸福,吟子的恋爱更让知寿有所触动。知寿在这两种不同的幸福的感召下,开始正视这种从前从未考虑过的生活方式。也是吟子在与知寿的闲聊中,通过一种极温柔的方式,让知寿了解到“大家都会走的。”“没有人会一直陪在你身边”这样一种道理。而正是这种体悟,让知寿真正尝试着走出自我封闭的圈子,走出失恋的悲伤。也是吟子,在知寿搬到宿舍住的前一天,告诉知寿“趁年轻的时候多吃些苦头。”这是吟子最为语重心长的一句叮咛了。而这也是知寿性格的致命缺陷。吟子用她老人独特的“慧眼”找到了知寿的症结所在。寥寥几句话,却比知寿母亲长篇大论的更加贴近知寿的所求。所以说,说吟子至于知寿,是人生导师一点也不为过。

1.4知寿与三个恋人

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知寿的两次恋爱,均被贴上“失败”的标签。由它们所组成的荆棘痛苦的成长之路的开端,知寿与阳平相恋。这也是知寿成长的开端。知寿是喜欢阳平的,可这段恋爱却是没有结果的。知寿将他们恋爱失败的原因归咎于两人之间已经可有可无的需要感。他认为在这种情况下,分手是必然的。只是“不知道为什么分手,该怎么分手”而只好“顺其自然”了。但这种“顺其自然”,是知寿消极、敏感的体现。她无法正视与阳平之间逐渐转淡的感情,没有最初那种愉悦之后,在知寿眼里,就只剩下分手一途。她在潜意识里已经决定了要分手,而这种消极和敏感,也在她的第二次恋爱中得到体现。在他与藤田的恋爱逐渐失去新鲜感时,这种“预感”又出现在知寿的头脑里。而这些完全推动了她对藤田的有意无意的疏离。阿丝的到来则是给了知寿放弃的一个好的借口。最后,藤田与知寿的恋爱走到了尽头。但是在知寿心里。她还是爱着藤田的,她心中对藤田的不舍让她做出了最后的挽留。可藤田与阳平如出一辙的冷漠使知寿无法再靠近,却也无法摆脱藤田走后无法排遣的寂寞与痛苦。这次失恋带给知寿一个很大的伤口。她辞掉了工作、买醉、落泪,甚至发出了“我的人生没有意义,即使我死了也不会有人为我流泪”的悲叹。也觉得“再也不会有这样全心全意、不顾一切的恋爱了”。

这段恋情发掘出知寿不为人知的世界,却也动摇了这个世界。她无法再在自己惯有的圈子里去寻找自己想要的幸福。所以说,这两次痛苦的恋爱,是知寿成长的主要原因。即使后来的知寿,十分极端的找了一位有妇之夫。知寿对于爱情和生活,则真正有了认知和体会,就像她“列车载着我,飞速朝有个人等着我的车站驶去”。可见,知寿对于生活,还是有她的期待和希望。唯一与从前不同的是,她可以正视生活的失败和伤痛、相逢与离别。

1.5 “彻罗基们”与知寿的交友观

知寿房间里的“彻罗基”们,不单单是一群已死的猫咪。它们不论在吟子心中,还是素未谋面的知寿心中,都有着很深的魔力。吟子的心中,它们每一只都与她度过了一段美好的岁月,而这岁月也继续传承着。而知寿心中的“彻罗基”,则是她所能看见和怀念的一种代表。这代表知寿对于从前的无法割舍。她觉得回忆是承载在物品中的,所以她将自己的“顺东西”,看作是一种对于失去的人的怀念。并以此来排遣寂寞。而在吟子眼里,照片只是一种纪念,而真正作为回忆保留的,其实就是回忆而已。这是一位年逾百岁的老人的人生体悟。她甚至不在意自己走后是否有人记得她。对于知寿把她挂在墙上的建议也不甚在意。知寿理解中的回忆,是需要媒介的。这也是知寿孤独敏感的体现。恐怕对于知寿,她生命中的“彻罗基”,不单单只是她鞋盒子里的那些而已,那些她未曾在意的人,也就是那样悄悄离去。再无踪迹可寻。

2.知寿的成长过程

这部小说以心理描写见长。在短短的一百多页,四十个小节的故事中,心理描写占了大部分。而在这些心理描写中。知寿的变化清晰可见。

2.1封在自我中的满足

知寿来到东京,正好是一个冬末春初的开始,也是她高中毕业,走向社会的开始,更是她母亲远行中国、寄宿在银子家中,与阳平的恋情明朗化的开始。这些开始,在文中,通过短短三四个小节就叙述的很好。可见,知寿的生活圈子是极其狭小、自我的。

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2.2第一次失恋前后的季节

知寿搬到东京之后第一次与阳平的会面。是挫败的。“走在通往车站的樱花行道树下,白色的花瓣飘落在身上,我不禁烦躁起来。”这样的知寿是敏感的,“我一听人家说是樱花怎么怎么美,款冬花茎、菜花、新鲜的洋葱头怎么怎么好吃,我就来气,”“真想给他们一句‘有什么可显摆的。’我才不会为这些个东西瞎激动呢”而这种焦躁,在知寿看来。是周围环境的不是,她希望夏天赶快到来,让她可以沐浴在阳光下。而不是现在这种瑟瑟的寒风之中。而在她与阳平分手的那天,风和日丽又成了一种错误。她觉得自己“宁愿将全身暴露在仿佛要毫不留情夺走皮肤脂肪的严冬的寒风中,也不要这样的风和日丽。”对于自己的悲伤,外界一无所知,这样的体认给了知寿一种孤独的焦躁。并使她憎恨起天气来。

2.3来自吟子的暗示

知寿在于吟子的谈心中,看到了吟子作为一个老人的生活经历。并意识到“可能的话,我还是愿意永远这么年轻,不经受实施磨难,静静的生活下去。”虽然她也知道“这当然是不可能的”。却也将知寿害怕受伤的心理描写出来。而紧接着,知寿“对于将来和梦想,以及刻骨铭心的恋爱等等,即使描绘不出来,我也朦朦胧胧怀有这样的期待。”“希望做一个像样的人,度过一个像样的人生;想尽量锻炼自己的肌肤,成为一个能够经受任何磨难的人”这样对自己的鼓励和期冀。也直白的“说”了出来。将一个平凡但认真的知寿刻画的生动传神。

看到吟子与芳介恋恋不舍的告别,她是羡慕的,却无法坦率的说粗自己的羡慕,只好说“没完没了的挥手,让人担忧是不是得了老年痴呆。”这之后的很多次会面,知寿都会在心里对这对黄昏恋人产生一些“恶毒”的想法。无法坦率说出自己羡慕的知寿,也是别扭可爱的。

“和吟子面对面吃饭的时候,我总觉得自己的岁数倒比她大得多。”“活到了这个岁数的人面前。恍惚觉得对方不会再继续老化,只有自己朝着前方的苍老飞速的坠落下去。”面对淡然却滋润的吟子,知寿有这样的焦躁无可厚非。在知寿的心中,吟子的生活其实是她一直想要的生活。她向往着这种平静,也看到了她与吟子之间的差别。吟子已经走过了她生命中的大部分,时间的沉淀给了知寿一种美的感悟。而知寿本身的生活是流动而活跃的,在这种焦躁中,知寿不止一次想要“成为”吟子一样的老人。在情人节那天,知寿一边咬着巧克力,一边想:“真想穿上她的裙子照张相,五十年以后在拿出来看。”吟子的魅力在知寿的眼中,是一种不可或缺的苍老。

2.4自我觉醒

“我感觉那里面的东西在逐年退色,气味也在消失。难道是我变了吗?”这是知寿在与藤田恋爱后的整理自己的鞋盒子是发出的疑问。是知寿变了吗?我觉得的是的。知寿与藤田的恋爱和与阳平的恋爱不同,已不再是学生时代的恋爱了。知寿更多的关注着外界。这使作为知寿回忆媒介的旧物渐渐无法排遣知寿的寂寞了。作为回忆的东西,渐渐的失去了从前的熟悉感,知寿正在逐渐的将自己剥离封闭和回忆。

“今天这里可能是最后一次了,他这么想,也就不回头看我了。我懒得去收拾他作个的坐垫和嘴巴碰过的马克杯,就当这一切都没发生过吧。作为交往过的男孩子之一,应该几十年后与藤田有关的所有一切都埋到记忆深处去,像门楣上那些消除了个性的死去的彻罗基们一样。”知寿在与藤田分别后的第一个念头,就是她房间里门楣上的彻罗基,她希望自己在分手后可以平静的接受这个事实。就像那些已经失去的曾经。她可以像看到彻罗基们那样回

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忆自己的过去。不为这次失恋而伤心。但事实是相反的,知寿的这次失恋时伤痛的,她觉得自己“无可救药了”。

2.5第二次失恋后的物是人非

而吟子,则用开玩笑似的方式说出“人早晚都得走的,”这样的话来,这句话不仅点出知寿害怕孤独寂寞的内心,也使知寿在内心真正了解到“没有人会一直陪伴着你”的道理。让知寿下定决心“该离开这个家了”。

“我好想做不到将他人和自己紧紧地联系到一起。我也想尝试一个人生活。 我希望能有一次,不是别人离开我,而是我离开别人。”这样的知寿终于了解到,自己的人生是孤独而封闭的。在她的生活中,一直重复着与人相遇,却又与人别离,在原地的只有自己。别动的看着别人来来去去,这种深入骨血的孤独,让她明白,如果自己不摆脱自我封闭的境况。那么她的人生将是一个怪圈。不论走到哪里,都会重复着一直看着别人来来去去。直到生命结束的悲惨境地。让她恍然发觉,自己是依赖着吟子的温暖和关怀的。可是如果一直依赖,不去为自己一人打算的话。她的人生将是一塌糊涂。

“早晚有一天,吟子也会成为彻罗基的一员吧,想象着她的相片挂在墙上,早晚有一天吟子也会像那些彻罗基们失去个性吧,不会再有人谈论起她,吃过什么穿过什么,这些日常琐事就像原本不存在似的,会消失的无影无踪。”

知寿想象着吟子离开后的场景,这样的场景让她难受。她发现,一直在自己身边陪伴自己、照顾自己的吟子,也会在不久的将来离她而去。她终于下决心离开自己眷恋的地方,去自己生活,她所追求的幸福不是看着别人离开。而是真正能在分别时,独自品尝留下的美好回忆。使她不必再为孤独恐惧。

“我以后也能像她这样吗?到了七十岁还爱打扮,住在自己的小房子里,情人节去买巧克力。我能过上这样的生活吗?”知寿终于看到了吟子所阐释的幸福。她不禁想到,自己是否也可以这样生活,一辈子努力生活,经历过爱恨,经历过波折,到老了还能遇到爱情,情人节去买巧克力。这些最最真实,最最令人感动的人生体验。是知寿向往的,却一直求之不得的快乐。她要的不是身心的苍老。即使苍老是必经之路。她要的是心灵的归属。

2.6正视离别,走出自我

“电车经过车站时,我忙低下头。说一千道一万,我还是没有勇气毫无顾忌地环视车站。我不想看见藤田和阿丝。有多长时间没见了,他们还记得我吗?” 分手后第一次路过拥有回忆的车站,知寿是无法面对的。她无法面对的是曾经的爱恋和伤痛。她不想去直面自己的失败和受伤。她将自己缩回了壳里。而等到她再一次路过这里,是她作为正式员工搬离了吟子家之后。这一次的知寿,看到了熟悉的景象一一流过“小卖店依然在,站在那里的协管员我都不认识。藤田、阿丝、一条也没看到。”物是人非,知寿终于将这段伤痛作为一种回忆保留在心底,她真正从伤痛中走了出来,也真正从自我中走了出来。

2.7对幸福生活的勇敢追求

“即使我走到站台上大喊一声‘喂’,这声音要传到那个院子里,也仿佛要好几年。”对于一切物是人非,知寿的感觉都不尽相同,但在路过吟子家时,对于曾经在这里所经历的一年,还是充满着怀念和伤感的。再放开自我以后,知寿对于自己曾经的孤独和敏感,还有自我封闭的岁月,有着淡淡怀念和忘却的疏离。知寿真的成熟了。就像他最后所说“电车载着我,飞速朝着有个人等着我的车站驶去。”

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3.“飞特族”的文化圈

本文的作者青山七惠,是一位“80”后作家。她笔下的知寿,也是日本目前许多年轻人的生活的真实写照。这部小说自然平淡,却又在无声细微之处发人深省,令人回味。特别是因子与知寿的几番对话。更体现出一个老人一生的生活经历和态度。发人深省。她笔下的知寿、知寿的母亲与吟子,是在一个时代中,不同年龄阶段的代表。他们对于人生不同的对待和理解。代表了日本不同年龄段的日本女性所经历的人生际会以及不同的人生体会。吟子是传统女性的代表,知寿的母亲则是一个典型的职业女性。而知寿,则代表了当代最为流行的“飞特一族”。

飞特族的定义是,在18岁到34岁之间,没有固定工作,靠打零工来维持生活的年轻人。而本文的另一大特点,则是知寿作为体现当前社会上典型的“飞特族”中的一员。 “飞特族”的出现,是日本年轻人特有的自我封闭与自我否定的体现。随着离婚率的升高,晚婚晚育、少子无子化的影响,新一代的日本青年的孤独感和无助感增强,而他们对于家庭、事业、人生、的思考与价值观发生了巨大的变化。害怕失败而不敢尝试,害怕受伤而不敢碰触。已经成为年轻人性格的一种特征。

文中的知寿正是这类年轻人的典型代表,她作为“飞特一族”,从她对工作、人生的态度就可以看出。知寿的性格是自我的,这种自我成为年轻人新的象征。知寿的母亲与知寿之间淡淡的隔阂,就是中年人对青年人的这种自我的不了解与不尊重。也正是这种不了解和不尊重,使这些青年对社会产生了一种不被接纳的感觉。这也是“飞特族”出现的另一大原因。而知寿最终走向成熟,脱离了“飞特族”,成为一名正式的社员,却还是没有放弃自我的理念和生活的信条,就是为了自己而生活,为了幸福而生活。这样的知寿,是成熟了的,但并不是失去个性的。尽管她在最后找了一个有妇之夫,但是她对于幸福的憧憬和追求却没有改变。

所以说,这部小说可以说是知寿,作为一个“飞特族”女孩的成长自白。

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1飞特族:所谓“飞特族”,实际上是Freeter的音译,是英文“自由”(free)○与德文“劳工”(arbeiter)的组合字。Freeter代表的是一种自由的工作方式

2彻罗基:文中吟子所养的第一只猫,剩下的猫咪死去后都叫“彻罗基”○。

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1.《日本文学》 肖霞 山东大学出版社 2.《日本文学》(修订版)刘利国 北京大学出版社 3.《日本文学教程》吴鲁鄂、王净华 武汉大学出版社

4.《日本文学研究:历史足迹与文学现状》 谭晶华 译林出版社 5.《20世纪日本文学史:以小说为中心》 谢志宁

浙江大学出版社 6.《日本现代文学选读》(下卷)(增补版) 于胜荣 北京大学出版社 7.《日本近代文学名著欣赏》 谭晶华 译林出版社 8.《日本现代文学选读》(上卷)(修订版) 于胜荣 北京大学出版社 9.《鲜活与枯寂——日本近现代文学新论》 刘振生 吉林大学出版社 10.《全球化语境中的日本女性文学》 肖霞山东大学出版社 11.《日本文学名著日韩对照系列丛书》 吉林大学出版社 12.《日本文学于文学批评研究》 刘利国 外文出版社 13.《日本当代小说导读》 刘家鑫 南开大学出版社 14.《日本文学选集》 赵晓柏 凤凰出版社

15.《日本文学翻译读本》 阎萍 外语教学与研究出版社 16.Modern Japanese Literature 商务印书馆

17.《日本文学名作选》谭晶华 上海外语教育出版社 18.《日本近代文学》 王之英 重庆出版社

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向教导我论文的林老师表达最深切的谢意,她牺牲自己的休息时间在百忙之中帮助我改写论文,分析文章。给我提供了很多意见和便利。十分感谢林老师。

老师们总是悉心的教导我,经常抽出课余时间给我补课。在准备论文的过程中,各位老师的宽广的胸怀、严谨的学术作风让我深深的感动。在此,向各位老师以及教导我的老师们表达我真诚的感谢和无限的敬意。

推荐第3篇:日语论文

学习《初级日本语》课程的体会

数学与信息技术系黄鸿华 200511120

3现在大学校园里出现了学习小语种的热潮,大部分的同学都想利用大学时期多掌握一门语言以便为以后开拓一条更宽更广的就业道路打下坚实的基础。其中有很多同学对日语表现出浓厚的兴趣,有同学学日语是因为对日剧和漫画感兴趣,有同学是因为想了解一下这个邻居,有同学是想参加国际日语能力考试以增加竞争力等等。刚开始我自己对日本的时尚科技和日剧比较感兴趣,所以在这个学期的选修中选了日语,随着学习的不断深入,也打算在以后学到一定阶段去参加能力等级考试了。在学习了一个学期的初级日语后,对学习这门语言初级阶段的总结。

日语学习的第一个门槛是五十音,这一关可以顺利地通过的话,日语入门就不会有太多问题了。日语中使用的文字有平假名、片假名、汉字三种。

在选修课开始正式上课之前,我自己通过一些课文教程学习了五十音,根据教程和自己学习的体验,我觉得在学五十音图时一定要平假名和片假名相对应着记忆,很多同学虽然学习了很久,但还是不能识记清楚片假名,这就是因为刚刚开始学习假名时的方法不正确,没有遵循一一对应的思路造成的。刚开始我每天只学习两到四行,第一天学习あ行五个和か行五个,反复书写、反复诵读,熟能生巧,就这样一个星期后五十音图已经能够相当熟悉了。在学习到了一定的行数之后,还可以找课文里的单词,自己组成词写,比如わたし,あなた,这样边练习假名的书写记忆,边熟悉一些日后要学习的单词。而到了正式上五十音的时候,老师教的比较快,由于自己有先学过并不感到困难,倒是其他同学两节课是短时间记住了,但是课后没有多放时间巩固,导致没几天就忘光了。

总之,五十音是学习日语基础中的基础,在初步学习日语阶段应该还要注意以下一些知识点:日语的发音:包括元音(单元音、元音的连续、元音的清化),辅音(清音、浊音),拗音,拔音、促音和长音,外来词专用音节;日语的文字和书写方法:日语的文字,假名(平假名、片假名、假名的由来),日语汉字,长音的书写方法,日语的标点符号;日语发音须注意的问题:声调、语调和一些重要的区别。

学习完五十音,就可以拼一些简单的单词和句子了。日语中使用的文字有平假名、片假名、汉字三种。平假名可以书写所有日语发音,主要用于表现具有语法功能的词;汉字用于表示实物的名称或动作;片假名用于书写外来词、拟声词、拟态词和一部分动物与植物的名称;罗马字一般多用于招牌、广告,文章中很少使用。但是因为以前学过英语,认为语法才是比较基础的,于是在课外时间自己开始学习基本的语法,刚开始比较简单,只是一般的判断句,而日语与汉语最明显的一点就是日语的谓语动词往往放在句末,这是最特别的一点。比如说“我去学校”,在日语里面说成わたしは学校へ行きます,把“去”这个动词放在最后。其次,日语是以其格助词为关键的,如“に”、“を”等,每一个就有很多种用法。比如“を”,它就有表示对象的用法,如本をよむ;还有表示起点的,如家を出る;还有表示在某一范围内移动的,如海を泳ぐ。而汉语里则简单得多,没有这么多的格助词。另外,日语里有许多时态,而这些时态是通过词形变化表现出来的,如て形,た形等等。但汉语里则没有这么多词形变化,只是通过加上一些如“了”、“曾”、“过”等副词来表示。同时日语中的这些形相当难记,而

且很容易忘。但是如果掌握了规律,就很容易记了,而且可以举一反三。

至于选修课上老师讲的语法比较简单,都是课本上有说明的,而且毕竟只是选修,一整个学期也就十几次课,也就没有讲得那么详细了。

在学习了一段时间日语之后,有些电视或者歌曲的意思听得懂了,当然歌词要是都有标假名的话唱也是没有多大问题的,只是把时间放在语法上,很多汉字都不知其假名拼法,但意思可以从汉字中估计出来。当然有些汉字的意思与中文却完全不一样,印象最深刻的是“勉强”,在日语中是学习的意思。

而在一次偶然的机会,朋友要我帮他写一份自我介绍,借助工具书帮他写了一篇,虽然字数不多,对于刚学日语不久的我已经很不容易了。内容如下: 呉先生:

こんにちわ。私は林楽松です。ずっとあなたの配慮を受けています。ありがとうございます。

私は物理学部の学生で、私の専攻はネットの工事です。私の趣味はコンピュータ、デジタルとネットで、これらも私の技能です。私は新しい技術を勉強したいと思います。日本の科学技術はとても進歩していると思いますから、わたしは日本語を勉強します。 日本語の勉強は難しいです、おもしろいです。わたしはしっかり勉強します。

结果那天他就说错了三处,但总体还算不错的,修改之后如下:

>呉先生:

>こんにちわ。私は林楽松です。

>世話を受けています。ありがとうございます。

>私は物理学部の学生で、私の専攻はネットの工事?です。

>私の趣味はコンピュータ、デジタルとネットで、これらも私がもっている今後私は新しい技術を勉強したいと思います。日本の科学技術はとても進歩していると思いますから、わたしは日本語を勉強します。

>日本語の勉強は難しいです、おもしろいです。わたしはしっかり勉強します。经过这次之后也给自己一些信心,毕竟这是自己写的第一份比较完整的文章。

转眼一个学期即将结束,其实能在选修课学到的东西并不多,很多同学都是刚开始有兴趣就去上课,但是渐渐的人去得也少了。我认为这门选修最好是能够连续上两个学期或者是更长的时间,可以让学过一学期的同学能够继续深入学习,不过很多人都并不重视这门课,也就致使在上过几节课之后不感兴趣了。假如只有一个学期的课,倒不如介绍一些日本文化习俗,因为要靠十几次课来学日语基本学不到什么东西,只能讲一些发音之类的知识。总的来说,这门课还是很不错的。对于要真正学好日语还是要靠自己努力,和学习英语时一样,适当的背诵课文也是非常必要的,牢记初学日语所背诵的句子,它们将成为未来口语脱口而出的重要来源。只有靠自己坚持不懈地努力,才能真正学好一门语言。

推荐第4篇:日语论文

我眼中的日语与日本文化

姓名:钟艳

学号:20086284 学院:土木工程学院

日语

日语一共有五十个音图,其中44个主要音节。日语中使用的文字有“平假名”“片假名”“汉字”三种。平假名可以书写所有的日语发音,主要用于表现具有语法功能的词,汉字用于表现实物的名称或动作。片假名用于书写外来词,拟声词,拟态词和一部分动,植物的名称。此外,还使用罗马字,但多用于招牌或广告,一般文章中较少使用。

日本文化

说起日本的文化,就不由让人首先想起有名的银座,银座(日语:银座;平假名:ぎんざ;罗马拼音:Ginza;英语:Ginza)是日本东京中央区的一个主要商业区,以高级购物商店闻名,是东京其中一个代表性地区,同时也是日本有代表性的最大最繁华的街。 象征日本自然,历史,现代的三大景点(富士山,京都,银座)之一的银座,与巴黎的香谢丽大街,纽约的第五街齐名,是世界三大繁华中心之一。银座是通过不断填海造地才逐步形成今日之构架。

其次是日本良好的环保习惯,日本人民养成将垃圾分类并且装好只在特定的日期与时间将其带出放在特定的地方,而且会把自己在外制造的垃圾带回家,这是值得每个国家的人民学习的好习惯。

再次是日本的完善的养老机构,他们为老人的生活提供了便利与保障,使老人能够好好享受晚年;接着是日本的寒暄礼仪,日本人相互见面多以鞠躬为礼。比较熟悉的人见面互相鞠躬以二三秒钟为宜;如果遇见好友,腰弯的时间要稍长些;在遇见社会地位比较高的人和长辈的时候,要等对方抬头以后把头抬起来,有时候甚至要鞠躬几次。他们在社交场合上也施握手礼。

通过这门选修课的学习,更增加了自己学习日语的兴趣。 呵呵。。。ありがとう。

推荐第5篇:日语论文

元旦日本元旦的由来

日本人把12月31日称之为“大晦日”,也就是除夕日。除夕晚上,日本人称之为“除夜”,除夜时他们祈求神灵托福,送走烦恼的旧年,迎来美好的新年,称之为“初诣”。除夕午夜,各处城乡庙宇分别敲钟108下,以此驱除邪恶,元旦的由来日本人则静坐聆听“除夜之钟”,钟声停歇就意味新年的来到。人们便离座上床睡觉,希望得一好梦。元旦早上,家人围坐在一起,互相讲述除夕做的梦,以测吉凶。日本人称元旦初一为“正日”。1—3日为“三贺日”。在正日,小辈须先去父母那里拜年,向父母问安,然后到亲友家拜年。新年还是个“吃”的节日,各国人民都以食用自己民族的食物来祈求好运。元旦的由来日本人在“正日”这一天,早餐是很丰盛的,吃砂糖竽艿、荞麦面等,喝屠苏酒。此后一连三天,则吃素的,以示虔诚,祈求来年大吉大利。现代日本多数城里人已放弃新年吃素匀惯,改在“除夜”吃一餐空心面条,以祝在新的一年里,健康长寿。

有的还摆上一些松竹,叫做“门松”。许多公司大厦门口和街头巷口都用松竹梅搭起设计新颖、别具一格的牌楼,以示庆贺。元旦的由来人们还将鹤、龟等象征长寿的动物剪纸贴在住宅内外,祈祷平安。同时还根据十二生肖,刻个年肖,相互赠送。邮政省还大量发行绘有年肖的“贺年邮票”。无论是个人,还是团体之间,互赠贺年片成了最热门的祝贺方式,日本人称它为“飘舞的风筝”,遥致深情。在新年里收到谁收到的贺年片多,谁就会感到新的一年前途美好,财运亨通,格外喜悦。元旦的由来新年里,街坊四邻、亲戚朋友、孩子之间拜年的习惯仍然盛行。见面时的第一句话就是“恭贺新年”。

习俗【日本】 日本人特别重视新年,每年的12月29日—1月3日为全国休假日。日本人把12月31日称之为“大晦日”,也就是除夕日。除夕晚上,日本人称之为“除夜”,除夜时他们祈求神灵托福,送走烦恼的旧年,迎来美好的新年,称之为“初诣”。除夕午夜,各处城乡庙宇分别敲钟108下,以此驱除

邪恶,日本人则静坐聆听“除夜之钟”,钟声停歇就意味新年的来到。人们便离座上床睡觉,希望得一好梦。元旦早上,家人围坐在一起,互相讲述除夕做的梦,以测吉凶。日本人称元旦初一为“正日”。1—3日为“三贺日”。在正日,小辈须先去父母那里拜年,向父母问安,然后到亲友家拜年。新年还是个“吃”的节日,各国人民都以食用自己民族的食物来祈求好运。日本人在“正日”这一天,早餐是很丰盛的,吃砂糖竽艿、荞麦面等,喝屠苏酒。此后一连三天,则吃素的,以示虔诚,祈求来年大吉大利。现日本多数城里人已放弃新年吃素匀惯,改在“除夜”吃一餐空心面条,以祝在新的一年里,健康长寿。

新年里,日本各户门口上方往往都拉起一条草绳或用草绳编的圆圈,称为“注连绳”或“注连饰”。有的还摆上一些松竹,叫做“门松”。许多公司大厦门口和街头巷口都用松竹梅搭起设计新颖、别具一格的牌楼,以示庆贺。人们还将鹤、龟等象征长寿的动物剪纸贴在住宅内外,祈祷平安。同时还根据十二生肖,刻个年肖,相互赠送。邮政省还大量发行绘有年肖的“贺年邮票”。无论是个人,还是团体之间,互赠贺年片成了最热门的祝贺方式,日本人称它为“飘舞的风筝”,遥致深情。在新年里收到谁收到的贺年片多,谁就会感到新的一年前途美好,财运亨通,格外喜悦。新年里,街坊四邻、亲戚朋友、孩子之间拜年的习惯仍然盛行。见面时的第一句话就是“恭贺新年”。

元旦的由来:

大约在公元前五万年左右,古埃及人已由游牧改为农耕,定居在尼罗河两岸,他们的农业收成与尼罗河是否发生洪水有很大关系。古埃及人从长期的观察中发现,尼罗河泛滥的时间是有规律的,他们就把这个时间每次都记录在竹竿上,从中得知两次泛滥时间之间大约相隔365天;同时还发现,当尼罗河初涨的潮头来到今天开罗城附近的时候,也正好是太阳与天狼星同时从地平线上升起的时候。于是,古埃及人便把这一天定为一年的开始。这是元旦最早的由来。

元旦在我国汉语中是一个合成词,元是开始或第一的意思。旦是一个象形字,表示太阳从地平线上升起。我国殷商时代的青铜器上有旦的象形字了

在历法上,人们习惯称地球绕太阳转1周为1年。但是由于地球绕太阳运转没有固定的起点和终点,所以一年的起点和终点都是人为规定的,这就造成了各种历法的不一致。相传“元旦”一词来自我国最早的皇帝之一——颛顼,他规定以农历正月为“元”,初一为“旦”。后来有的朝代对元旦的日期有所变更,但原则上还是以每年的第一天为元旦,如夏代以正月初一为元旦,但商代以12月初一为元旦,而周代又以11月初一为元旦,秦代以10月初一为元旦。直到西汉武帝时,大历史学家司马迁等人重新制定历法,并规定每年正月初一为元旦,从此历代不改。

1911年辛亥革命成功后,决定采用国际通行的公历,于是将农历元旦改为“春节”,而把公历的1月1日称为元旦。新中国成立之时,开始正式使用“公元纪年法”,把每年公历的1月1日定为元旦。

现在,世界上大多数国家把每年1月1日作为元旦,因为他们多采用了国际通行的公历。但也有一些国家和民族由于本地的历法传统及宗教信仰、风俗习惯、季节气候的不同,因而他们的元旦日期也不一样,这也使得这个世界多姿多彩,更显民族的特色了。

元旦是全世界人民传统的新年。元旦,就是一年的头一天。元旦是合成词,拆开来讲,元是第一或开始的意思,旦字的原意是一轮红日从地面升起。

在中国,元旦这一名称,都说起自传说中三皇五帝之一的颛顼,他以农历正月为元,初一为旦。据《史记》载:夏代以正月初一为元旦;周代以十一月初一为元旦;秦以十月初一为元旦。辛亥革命后,我国把正月初一称作春节,公历1月1日叫新年,不称元旦。直到1949年9月27日,中国人民政治协商会议第一届全体会议通过使用公元纪年法,才又将公历1月1日正式定为元旦,农历正月初一定为春节。

阴历的祖先埃及历,把天狼星和太阳一同升起的那天作为元旦;阿富汗把春分作为元旦;犹太人把秋分作为元旦;而寒带的爱斯基摩人的元旦是不固定的,他们把第一次下雨作为元旦。公元前46年,罗马皇帝儒略·凯撒制定儒略历,开始时他把冬至作为元旦。但是,人们坚持要把朔日作为元旦,因此就把元旦延到冬至后10天。 秘密日本新年都要用松树作为装饰,有了装饰才有新年的气象,因为有了门松才会有年神降落,门松也是门神降落地点的标志.但是很多日本都不知道,门松的装饰只能在12月13-28日装饰,30日是正式装饰,但是29日与31日都不允许装饰,因为29日在日本神道上是苦日子,31日是一夜装饰,非常的不吉利,所以这两个日子都一般不装饰门松.但是现在日本的建筑外观,居住形态都发生了很大的变化,门松的装饰已经没有以前那样的复杂简单了很多,甚至有的家庭还把圣诞节的装饰作为门松,这些都被日本人接受了.神社门口的门松

日本新年装饰除了在门外的门松,其实还有在室内的装饰.从古代开始上至天皇下至一般的大户(大名)开始,都会在新年向日本的神奉献日本年糕(镜饼),这个由来就是日本天皇的三种神器:神镜,玉,剑.日本天皇没有所谓的玉玺,而只有从古代传下来的三种神器,天皇家族在一段时代内内部争斗很激烈,由各自武士集团支持下争夺皇位,当一方失败后交出的权利象征就是三种神器:神镜,玉,剑.三种神器只有天皇家才有,一般家庭怎么办?日本古人就想出来用其他东西代替,神镜是年糕(镜饼),玉是桔子,剑是晒干的柿干.而主要的就是镜 .镜饼意味着可以给家庭带来好运,这样两块镜饼叠在一起是两重的意思,还有阴阳相辅好上加好的意思.镜饼的周围装饰还有很多好运的解释有以下几点:

一.镜饼的白色是长寿与夫妻圆满 二.镜饼上的海带是喜悦的意思 三.镜饼边上的桔子是代代繁荣 四.镜饼边上的串柿是获取好运

五.镜饼上的树叶是家族一直持续下去 „„„„

中国新年的日期,在各朝代并不相同。夏朝定在一月初一,商朝定在十二月初一,周朝定在十一月初一,秦朝定在十月初一。到西汉太初元年(公元前104年),汉武帝接受司马迁等人的建议使用《太初历》,恢复了夏历即农历,以正月为岁首,把二十四节气订入历法。后来历朝历代虽对历法有过修改,但基本上仍然以《太初历》为蓝本,以夏历的孟春正月为岁首,正月初一为元旦、元日,即新年的第一天。

1911年辛亥革命以后,清朝统治被推翻,孙中山在南京建立中华民国政府。各省都督府代表在南京召开会议,讨论历法问题。会上达成了“行夏历,所以顺农时;从西历,所以便统计”的共识,决定使用公历,把公历1月1日定做“新年”,把农历正月初一称做“春节”,但并未正式命名和推广。1949年9月27日,中国人民政治协商会议第一届全体会议通过使用“公历纪年法”,将公历1月1日定为“元旦”,把农历正月初一定名为“春节”,并规定春节放假三天,让人们热烈地庆祝农历新年。

在两千多年的历史进程中,我国的新年礼俗经历了萌芽、定型、裂变、转型的发展过程。 先秦时期,新年习俗处于萌芽阶段。此时的庆祝活动主要是在一年农事完毕之际,为报答神的恩赐而举行的“腊祭”。《诗经?七月》中记载了西周时期旧岁新年交替时的节庆风俗。诗中所谓“朋酒斯享,日杀羔羊,跻彼公堂,称彼觥,万寿无疆”,是说人们将美酒和羔羊奉献给诸神,以酬谢一年来神的保佑和赐福。这时的欢庆活动因各诸侯国采用的历法不一样而没有统一的日子,大致在冬天农闲之际,它是后来新年习俗的雏形。

新年习俗定型于汉代。经过战国和秦朝末年的社会大动荡后,西汉初期推行“休养生息”政策,社会生产得到了恢复和发展,社会秩序比较稳定,人们的生活情趣高涨,一系列节日习俗形成了。《太初历》推行后,历法长期稳定,正月初一作为新年的日期也因此得到确立。这样一来,原来各地区分别在冬末春初不同日子举行的酬神、祭祀和庆祝活动便逐渐统一在农历正月初一这一天进行。随着社会的发展,从汉朝到南北朝,正月初一过新年的习俗愈演愈烈,燃爆竹,换桃符,饮屠苏酒,守岁卜岁,游乐赏灯等活动都已出现,新年成为我国第一大节日。

新年习俗在唐代发生裂变。唐朝是思想文化昌明的时代,同时也是内外文化交流频繁的时代,新年习俗渐渐从祈祷、迷信、攘除的神秘气氛中解放出来,转变成娱乐型、礼仪型节日。元旦的爆竹不再是驱鬼辟邪的手段,而成了欢乐、喜庆的方式;庆祝新年的重点由祭神转向了娱人,转向了人们自己的娱乐游艺,享受生活。所以,可以说,也只有在唐代以后,新年才真正成为普天同庆,亿民欢度的“佳节良辰”

新年习俗到明清时期转型。这种转型主要表现在两个方面:一是礼仪性、应酬性加强。人们在新年相互拜谒,达官贵人互送名帖,或者登门叩拜;平民百姓也讲究“礼尚往来”,馈赠礼品,互相拜年。二是游艺性进一步加强。新年期间,玩狮子,舞龙,演戏,说书,高跷,旱船等各种娱乐活动五彩缤纷,绚丽夺目。北京人逛厂甸,广州人游花市,苏州人听寒山寺钟声,上海人游城隍庙……各地游艺活动自具特色,各种娱乐活动层出不穷,令人眼花缭乱。这时的新年习俗将中国传统文化完美地融合起来,成为集中展示我国几千年风俗文化的民俗博览会。

两千多年的历史,中国的新年风俗盛行赤县神州,渗透到了每个人的生活之中,也铸造了每个炎黄子孙的灵魂。过大年,每到阴历年底赶回家与亲人团聚,祭祖宗,吃饺子,拜年,赏灯,这些已成为炎黄子孙共同的习惯。到了现代,元旦的庆祝习俗就更简单了,人们更倾向于将元旦假期作为休息娱乐放松的好时间,看电视、看电影、短线旅游。下面就简单看一下目前通用的元旦习俗之三大庆祝方式:

元旦习俗之庆祝方式一:全中国甚至是全世界都知道的,很多国家都把元旦顶为法顶节日,在元旦这天放假。新中国成立后,也规定元旦为法定节日放假一天。

元旦习俗之庆祝方式二:现在比较普遍的就是由团体组织的活动,如元旦联欢会、挂庆祝元旦的标语、或举行集体活动等,以前就有组织敲锣打鼓、集体跳民族舞的,现在在电视记录片上还能看到,到科技发展的今天,就演变为联欢晚会什么的了。近年更是有旅游、聚会等节目,反正元旦这天并没有太多的传统,在这一天假期了就任人发挥了。甚至,元旦这天对年轻一代来说只意味着三天的假期,而元旦前夜收看央视和省级卫视主办的跨年晚会逐渐成为这两年的娱乐趋势。

元旦习俗之庆祝方式三:保留着中国传统的庆祝方式就是在以民间了,尤其是在农村。每到元旦,家家户户都会燃放炮竹,杀鸡宰鹅的,拜祭过各方神灵后就是一家人团聚一餐。至于更为浓重的庆祝方式暂时还没见过。

一、拜神与祭祖

古代而来的

过年风俗源于远古农耕民族的“腊祭”。“腊祭”是古人“神先享用”意识的体现,人们习惯“索鬼神而祭祀”、“合聚万物而索享之”,形成“岁终出祭”古俗。由于宗教、风俗本身的保守性及历代统治者的倡导,这种原始时代的“敬神”礼俗代代相袭,并逐渐演化为祭灶神。民谚曰:“三祭灶,四扫屋……”即指每年的腊月二十三(或二十四)祭祀灶神。灶神,俗称灶君、灶爷、灶王爷,自灶神产生开始,老百姓就顶礼相拜。人们想祈福禳灾,便对灶王爷恭恭敬敬。

“二十三,糖瓜粘”,说的便是腊月二十三或二十四,灶王爷升天禀报一年情况时,人们要祭灶,麦芽糖和酒必不可少,酒是为让灶王爷喝得晕头转向,麦芽糖甜而粘,灶神嘴吃甜后只能说好话。民间百姓把“拿人手短,吃人嘴软”用在对灶神的供奉上。宋代范成大《祭灶诗》即云:“古传腊月二十四,灶君朝天欲言事……送君醉饱登天门,杓长杓短勿复云,乞取利市归来分。”祭灶风俗伴随社会的进步而渐渐淡化,取而代之的则是祭祖。过年祭祖,既是对祖先一个悼怀,也祈望祖先保佑来年的平安。祭祖一般在年三十,一般百姓人家在扫房子、净庭院、易门神、换桃符、贴春联之后,或举家去给祖先上坟祭拜,或把先祖的遗像挂在中堂正壁墙上,摆上祭品,点上香烛,让后辈祭拜。晚上那顿准备多日的团年饭,大都也是先请祖先“前来”享用后方可开席。各地祭祖形式虽不尽相同,但“祭祖祈福”的含义大致一样。

二、团年饭守岁

据民间相传:“年”原是太古时代的一种怪兽,每届寒冬将尽新春来临之际,便四出噬人。古人为防御“年”的掠食,便聚集在一起,燃起篝火,投入竹子使其爆裂出巨响,把“年”吓跑。既然“年”怕火光、爆响,人们每逢除夕便贴红对联、燃放爆竹,在烛火通明中聚集守更待岁。于是,便形成吃团年饭与除夕守岁的风俗。

“团年饭”又称“年夜饭”、“分岁饭”。根据《荆楚岁时记》记载,至迟在南北朝时已有吃团年饭的习俗。除夕守岁也是从吃团年饭开始,这顿饭常常得准备好几天,是农家一年中最丰盛的阖家团聚之宴,一般从掌灯时分入席,有的一直吃到深夜。可见这顿“团年饭”是何等重要。“团年饭”南北风俗各异,但大都有所寓意。北方人喜欢包饺子,意即“更岁交子”;南方人喜欢打年糕,楚地人喜欢做鱼肉糕,“糕”与“高”谐音;红烧全鱼则是祈祷“年年有余”。

除夕守岁俗名“熬年”,南北朝时期就有文字记载。“帘开风入帐,烛尽炭成灰。勿疑鬓钗重,为待晓不催。”在这“一夜连双岁,五更分二年”的除夕之夜,家人团圆,欢聚一堂,共叙亲情中辞旧迎新,寄托了人们对来年年景的美好期望。

三、恭贺拜大年

《北平年谣》有“三十日,黑夜坐一宿;大年初一,出来扭一扭。”新年正月初一,人们早起后穿上崭新的衣服,放过“开门炮”便走亲访友,相互拜年,恭祝来年大吉大利。古代通常的“拜年”顺序是:先拜天地,次拜祖宗,再拜高堂,然后出门拜亲朋友好,亦有初一拜本家、初二拜岳家、初三拜亲戚等不同的讲究,一直拜到正月十五,这年才算拜完了。古时有拜年和贺年之分:拜年是向长辈叩岁,贺年则是平辈间相互道贺。在宋代,亲朋好友之间会相互送帖恭拜新年,这大概是早期的贺年片。至明代,贺年片设计更加精致,帖上不仅印有送者的姓名、地址,还写有“新年快乐”、“吉祥如意”之类的祝辞。

四、压岁钱祈福

过年时晚辈给长辈拜年,长辈要将事先备好的“压岁钱”赐予晚辈,寓意“压岁祈福”。相传“压岁钱”能压住邪祟,因为“岁”与“祟”谐音,故又称“压祟钱”。晚辈得到“压岁钱”即可平安度过新岁。压岁钱可在晚辈拜年后当众赏给,亦可在除夕夜孩子睡着时,由家长愉偷地放在孩子的枕头底下。清人吴曼云《压岁钱》诗中云:“百十钱穿彩线长,分来再枕自收藏。”民间百姓将“压岁钱”放置孩子枕头下,正是为了“压祟”,期望在恶鬼妖魔或传说中的“年”去伤害孩子时,孩子可以用这些钱贿赂它们而化凶为吉。当然,这也是长辈们希望孩子们在来年平安健康的美好祝愿。

1月1日元旦在日本有着特殊的意义,虽然过去在元旦举行的大多数宗教活动现在已消声匿迹、但其风俗习惯却还深留民心。明治维新前,日本人也过旧年,后改为过新年。特别引人注目的是装饰品,把象征天神降临的来年丰收和家庭幸福的松树,装饰在门前,这个叫做“门松”或称“松饰”。这是在800年前平安朝末期,从中国传来的一种风俗习惯。 装饰镜糕的风俗也是代代相传,日本的年糕是指用糯米蒸的糕。年糕中有水稻的神灵,很久以前人们就相信吃了年糕,就会获得一种神奇的力量,因此作为一种特别的食品或者供品,在祭祀和节日庆典时必不可少。一般的镜糕为圆形、上下底部平整的形状,从江户时代起,一般把2个圆年糕重叠起来使用,现在仍然沿用当时的习惯。

当然也不能忘记屠苏酒、年夜饭、杂煮。屠苏酒是由山椒、肉桂等中草药调制好后,将其提炼成酒,1月1日—3日3天内喝。屠苏酒要用上等的瓷器等特别的容器盛装,杂煮,简单说来就是年糕汤。元旦吃杂煮的习惯始于中世纪初,有清汤式、酱汤式、还有加入甜甜的赤豆的。根据各地不同的风俗习惯,放在杂煮内的年糕有方形、圆形之分。

新年菜肴一般盛在漂亮的套盒内,如果是5层的套盒,第一层放黑豆沙丁鱼干、晒干的青鱼子等庆祝节日的菜肴;第二层放鱼糕、鸡蛋、鱼肉蛋卷、甜食(山药或白薯泥加栗子的一种甜食)等小拼盘;第三层放蘸糖色烤的师鱼、加盐烤虾、松叶烤乌贼等烘烤食品;第四层放白萝卜、红萝卜、牛蒡、藕、慈菇等需要慢慢炖煮才会入味的食品;第五层放由红、白萝卜点缀的大马哈鱼,以及醋拌凉菜,例如醋拌藕。最近,多数家庭都使用3层套盒,一般第一层放祝贺节日的饭菜,第二层放烧烤食物,第三层放炖煮食品。选用的材料各自都有其特殊含义,例如青鱼子象征人丁兴旺,海带卷象征生活美满,黑豆则是双关语,代表勤勤恳恳工作。

贺年卡与压岁钱也是新年的一大特色。用贺年卡向平时难以见面的朋友寄上一份自己的新年问候与祝福。不过日本的贺卡与中国不同的是,大家用的都是邮局发行的50日元的有奖贺卡,不用特殊的东西,故此日本也没有人专门去印制高价的贺卡。邮局一般要大家12月25日前寄出,到1日早上统一送到各家。到5号前,你还可以根据收到的贺卡,看把那个朋友忘了,再补发一次。孩子们则可以从长辈那里拿到压岁钱。据说以前是给小孩年糕,现在基本上都是把现金装在“红包”内送给小孩。99年平均每个孩子收到26790日元的压岁钱,由于经济不景气,与往年相比有所下降。大多数孩子们在圣诞节时已经收到最想要的东西,所以据说一般都把压岁钱存起来。

提到新年,除了以上几点之外,还有放风筝、拍羽毛毽子、玩纸牌、跳加官,拍羽毛毽子时,输了要用墨汁在脸上画道道,所以只有在过年时能看到这种一脸黑的怪相。过去还可以看到舞狮子,现在基本上已经没有了。而且,过去直到1月7日搬走门松,这七天内一直都是新年的节日气氛,现在最多3天,马上又回到正常生活。但是,在新年时,确实有很多人感到神清气爽,这种感觉在其他时候是没有的。

日本的元旦日期随着时代的变迁而改;明治时期以前,日本人把农历12月 30日 称 为 大 晦 日(Omisoka),也就是除夕日;但明治以后,大和民族就把年转移到阳历12月31日。从此日本人把每年的12月29日至1月3日为全国休假日。

日本人把12月31日称之为“大晦日”。除夕晚上,日本人祈求神灵托福,送走烦恼的旧年,迎来美好的新年,称之为“初诣”(Hatsumode)。除夕午夜,各处城乡庙宇分别敲钟108下,以此驱除邪恶,日本人则静坐聆听“除夜之钟”,钟声停歇就意味新年的来到。人们便离座上床睡觉,希望得一好梦。

元旦早上,家人围坐在一起,互相讲述除夕做的梦,以测吉凶。日本人称元旦初一为“正日”,在正日,小辈须先去父母那里拜年,向父母问安,然后到亲友家拜年,新年还是个“吃”的节日,各国人民都以食用自己民族的食物来祈求好运。

日本人在“正日”这一天,早餐是很丰盛的,吃砂糖竽艿、荞麦面等,喝屠苏酒。此后一连三天,则吃素的,以示虔诚,祈求来年大吉大利。现日本多数城里人已放弃新年吃素习惯,改在“除夕夜”吃一餐空心面条,以祝在新的一年里,健康长寿。

元旦的庆祝方式一:

全中国甚至是全世界都知道的,很多国家都把元旦顶为法顶节日,在元旦这天放假。新中国成立后,也规定元旦为法定节日放假一天。

元旦的庆祝方式二:

现在比较普遍的就是由团体组织的活动,如元旦联欢会、挂庆祝元旦的标语、或举行集体活动等,以前就有组织敲锣打鼓、集体跳民族舞的,现在在电视记录片上还能看到,到科技发展的今天,就演变为联欢晚会什么的了。近年更是有旅游、聚会等节目,反正元旦这天并没有太多的传统,在这一天假期了就任人发挥了。甚至,元旦这天对年轻一代来说只意味着一天的假期。

元旦的庆祝方式三:

留着中国传统的庆祝方式就是在以民间了,尤其是在农村。每到元旦,家家户户都会燃放炮竹,杀鸡宰鹅的,拜祭过各方神灵后就是一家人团聚一餐。至于更为浓重的庆祝方式暂时还没见过。

要旨

中国と日本は古くから習俗の文化の上で密接な関係と交流を維持してきている。しかし、時が経つにつれて、両国は祝日の習俗の上でもいくつか変化が発生して、そこでたくさんの共通点と相違点が現れた。その中、中国の春節と日本の元旦の習俗の上からの比較を明らかにすることによって、いっそう明確に両国間の文化の吸収と融合、融合と発展の特徴を究明することができる。

キーワード:起源 習俗 言語

数字 伝統文化

初めに 昔から、中国と日本は習俗の上ですべて深い関係を持ち、中国の春節と日本の元旦における習俗の上でたくさんの共通点と相違点が存在している。何故このような情況が生じたか。私は中国の春節と日本の元旦の起源、習俗、言語、数字、伝統文化などの比較を通して、明確に両国間の文化の吸収と融合、融合と発展の独特な特徴を理解することが出来ると思う。

1、新年の起源

夏朝以前に“年”の概念があった。その時の農業は多毛作ではなく、1年にただ1季の作物だけを植えた。だから、穀類が一回1年で熟して、人人が農作物を再び収穫するように、いずれも祝い活動を行って、大衆は神の恩に応えて、同時に来年天候が順調なことをも望んで、災害を避けて魔をよけるのが春節の起源だ。日本の元旦は中国の春節に相当するが、それは新年の形式が中国古代から形成され広く伝わっていたので、その祝日の意義は中国の春節と同じでは、すべて来年の好運を切に願うためで、良い新しい意味がある。

2、中国の春節と日本の元旦の習俗の上の違同点

2.1中国の春節と日本の元旦における習俗の上の共通点

2.1.1 中国の春節は日本の元旦と同じく全て楽しく祝って、昨年に別れを告げ新年を迎える祝日の雰囲気に満ちている

例えば、大掃除をしたり、家を飾ったりすゐ;ある地方は提灯をつるし色絹を飾って、都市と農村の各地はすべて飾られて新しくなゐ。商業区は華やかで、色とりどりで美しい;機関、学校、病院、会社、大通りなどには、全部国旗、彩色旗が掛かって、祝日のスローガンを貼って、大部分の表門は生花あるいは盤桔を飾り付ける。要するに、何所でもお祝いの雰囲気に満ちあふれる。

2.1.2 中国の春節は日本の元旦も全国的な祝日である

中国の春節の休日は普通は旧暦の1日から7日まで、全部で7日の祝日がある。日本は全国の休暇日は毎年12月29日から1月3日にかけて、全部で5日である。

2.1.3 中国の春節にと日本の元旦には除夜があり、夜を徹し新年を迎えるもちを食べ、一家団欒の食事、お年玉をもらうなどの習俗がある。例えば、祝日の時に、全家族が集まって、除夜の一家団欒の食事を食べて、酒を飲む;親友は新年の挨拶をする方式を通して互いにお歳暮を送って、友情と感情を深める;目下の人は年長者に向ってお辞儀をし、年長者は目下の人にお年玉などにあげる。

2.1.4 中国の春節と日本の元旦には人人が未来への願望と目的を切に願うという点では同じだ

例えば、中国では祝日に門の上に門を守る神の画像、軒の下に灯籠が掛けるのに对して、日本では入り口の扉に門松をかけて、門の上に藁縄などに掛けることはすべて災害を避けるための魔よけで、来年の四季の平安、幸運の願望と目的を享受出来ように切に願う。

だから、中国の春節と日本の元旦は習俗の上の共通面から中国と日本は両国習俗の文化の上で吸収と融合の関係が存在していることを知ることができる。

2.2中国の春節と日本の元旦における習俗の上で違う方面

2.2.1 中国の春節と日本の元旦の娯楽と食事

中国では新年が到来すると、どの家でもドアを開け,まず、爆竹に火をつけて放ち、パンパンという爆竹の音で古いものを除いて新年を歓迎する。日本は元旦の期間爆竹をならさないで、どの家もひっそりと静かに新年を祝うのだ。中国の春節は普通は除夜の晩に全家族はギョーザを食べる。いくつかのギョーザの中に小銭などがあって、それを食べたら幸運があるという。除夜の晩に全家族が囲んでいっしょに長い麺を食べて長寿を祝り日本の元旦は新年を祝る。

2.2.2 中国の春節と日本の元旦の期日

中国の春節には旧暦の正月1日で、日本の元旦には西暦の1月1日である。

2.2.3 中国の春節と日本の元旦の期間の家屋の装飾

中国は春節の時に赤色の春聯を貼って、来年の祝福を表現する;年画を貼って、旧年に別れを告げ新年を迎えることを示す;“福”の字を貼って、“福が着く”を示して、人々が来年幸せな生活の良好な願望を求めることを体現している。日本の元旦は藁縄を掛けて、扉に門松をかけて祝賀するので、元旦の期間、日本人はよく門の上に1本の藁縄を掛けて、門前に門松を插して、それから縄の円環の上にダイダイ、ミカン、コンブ、ロブスターなどを掛ける。門松の飾物は普通の竹の葉、松の枝、ミカン、藁縄、ロブスターなどで、來年幸福と家族が長生きすることができることを示し、百歳まで長生きして魔をよけることを切に願う。

2.2.4 中国の春節と日本の元旦の習俗の上の守岁中国の春節には全家族が夜を徹して眠らないで、談笑したり楽しんだりして、中央テレビ放送による春節聯歓晚会を見て、夜を楽しく過ごす。日本の元旦は新年を迎える時は全家族がストーブの側を囲んで座って、静かに寺院の108の鐘の音を鳴るのを待って、日本の男女のグループに分かれて紅白の歌合戦を行うテレビで過ごす。

2.2.5 以上の中国の春節と日本の元旦の習俗の上で違いからは中国の春節と日本の元旦が節日習俗の文化の上で独特な特徴を持ち、親しくても離れて、融合と発展の特徴を持っていることがわかる。

3、言語の比較から見る 3.1 文字言語の使用

3.1.1 共通の祝い言語

文字言語の共通の使用の上で、中国の春節と日本の元旦は共同の言語が“新年おめでとう、よいお年を、明けましておめでとう、裕福になれますように、財產がたまるように喜びましょう、萬事如意、五福臨門、新春大吉、五穀豐收、財源廣進、財運亨通、金玉滿堂、千金白順、財を成し豐かになることから家族の幸せと、願い事がか

なうように、自分が思った通りの一年を、自分が思う事が實現出来るように”などがある。

3.1.2 忌讳の祝い言語

両者は生、死、病、残、破、苦、空、割、砕、終、絶、亡、失など緣起のわゐい言葉は口にしてはいけない。例えば中国の春節で“不運で、運が悪くて、破れる”などの語句の使用を避けて、日本の元旦の期間は“落ちる、離れる、失う”などのフレーズを使うことを避ける。

3.1.3 私達は文字言語の使用を通して、中国の春節と日本の元旦には人人は言語の上で縁起が良い語句を使うことを好み、縁起の良くない言語を使うことを避けることを知ることができる。

3.2数字の比較から見る

3.2.1 数字“4” の比較

中国の春節と日本の元旦の習俗の相違は数字の上でも体現している。中国で、“4”は“事”と発音が近く、“44”は“万事”のことを連想し、“万事が思うままだ”という意味を表す。しかし、日本語の “4”の発音は“死ぬ”と同じだ, “14”の発音は“重く死ぬ”と同じだ,“42”の発音は“死ぬに”(死に行く)と同じだ。日本人はこれらが“4”あるいは“4”の数字を含むことからは同音の語句を連想するので、とても縁起が良くないことと感じる。そのため、“4” を避けゐのだ。

3.2.2 数字“9” の比較

中国で、“9”と“久”との発音は近くて、幸福の祈祷に用いて長くて好運が切れないことを表すことができる。だから、春節の時に“9”の数字を持っている言語を使うことを好む。しかし、日本語の中のでは“9”の発音が“苦しみ”と同じなため、日本人は“4989”(“四苦八苦)と“3396”(散散苦労する)の組合せの数字をタブーとする。だから、祝日の時にはほとんど“

4、9”の言語をくわえた言葉を使用しない。

だから、中国の春節と日本の元旦は“4”と“9”の数字比較の禁忌を通じて、中国と日本は祝日の習俗における数字言語の発展に各各の独特な特徴が存在していることを見抜ける。

4、伝統文化の比較から見る

4.1 中国の伝統文化が東アジアの文化の中心

中国の春節と日本の元旦は祝日の習俗の上でどうして多くの相違点が現れたのか。湯重南先生は《日本文化現代化》という本の中で中日の伝統文化に主な特徴があることを言及する。東アジアの文化は中国で源を発して、中国は東アジア文化センターで、中国の古代文化は5千年の歴史を持っていて、その周囲の地区と民族の古代の文化に対して巨大な影響を及ぼした。

4.2 日本が中国の伝統文化を吸収した

日本は地理上大陸と断絶した西太平洋の島国で古代の文化は立ち後れて、西暦紀元のくらいから、大量に中国の古代の先進的な伝統文化を吸収し、模倣主義をとり、中国の伝統の文化を取り入れ、当民族の伝統文化として広く信じられている。それで、日本がこれらの思想を受け入れたため、旧正月前後に行った活動は中国の伝統の文化の大部分そのまま取り入れたものである。

4.3日本が中国の伝統文化を革変する

いかなる文化の融合にもすべて次のような1種の現象を持つ:自己の文化を変えないで別の文化を少しずつ受け入れて、受ける側の主体性は種々の条件から選択し、変形しながら、次第に受け入れる。だから、日本の伝統文化にとっては、日本人は積極的に中国の伝統文化を吸収すると同時に、中国の伝統の文化を革新改造して、中国の伝統文化の母体の上で、新しい文化子体を育成した。この種類の新しい文化子体は更に新しい生命力を持つ。総じて言えば、中日両国の伝統の文化は同根だが、異なっている果実を結んだ。

4.4 中国の春節と日本の元旦は中日の伝統文化の範疇の力強い現れだ

私達はその上から中国の春節と日本の元旦は発展の過程で吸収と融合、融合と発展の特徴を持っていることがわかる。

おわりに

要するに、中国の春節と日本の元旦間の起源、習俗、言語、数字、伝統の文化の上の比較から見ると,中国の春節と日本の元旦は習俗の上でなぜたくさんの共通点と相違点が現れるのかというと、主に中日両国の人民はずっと友好的な交流と接触を続けていて、祝日の習俗文化の上で、吸収と融合、融合と発展の特徴を持たということだ。そして、私達言語の学習者にとって中国の春節と日本の元旦における習俗比較を通して、もっと良く中日の間の伝統の文化を理解することができ、日本言語を学ぶのにたいへん役に立つ。それによって中国と日本の伝統文化の上で、中華民族の優秀な文化の伝統を発揚するように、日本の民族文化の長所をくみ取り、内容と形式上で積極的に革新することによって、中国と日本の伝統文化とが互いに交流したり、融合したりすることを促進することができる。

推荐第6篇:日语论文

摘要

从敬语的文化背景开始阐述,探讨敬语使用的原因,详细介绍了日语敬语的分类以及使用原则,最后列举了几个关于日语敬语的误用例子。

关键词:敬语分类原则误用

敬语的使用在日语中占有不可磨灭的地位,已然融入日本人生活的点点滴滴。老人小孩、男性女性、各行各业,从日常的基本对话到电话用语、庄严的场合用语基本上都涉及到敬语的使用。因此,学好敬语十分重要。

日本人为什么要使用敬语呢?就好像在中国有尊老爱幼的美好传统道德一样,敬语的使用显示了一个人高尚的品行、社交的能力,以及一定程度地反应了这个人的知识水平。另外,敬语的使用也给日本带来一个和平的时代,和谐的社会环境。

日本人的敬语使用可以追溯到古代前期,经历从奈良时代到古代后期平安时代,中世前期镰仓时代,中世后期室町时代,近世江户时代,近代明治大正昭和二十年以前,现代昭和二十年以后这七个时期。主要因为日本是一个等级森严的社会,从古至今流传着一种从上到下的等级观念,为了维护这种等级,为了突出对听者或者对话题中的对象的尊敬,通常都会使用敬语。但在二战后因为日本社会民主化,日本敬语开始根据说话者间的亲密程度划分。日趋完整的日语敬语体系十分复杂,对于不同的场合,不同的对象,敬语的使用不尽相同。 要正确使用敬语,首先要清楚日语敬语的分类。传统中的敬语根据语法理论分为尊敬语、自谦语和郑重语。后来日本政府推出新分类法,把日语敬语分为尊敬语、谦让语I、谦让语II、丁宁语和美化语五大类,以方便学生正确掌握敬语的用法。

一、尊敬语是对对方或者第三者方面的行为、事物、状态等的叙述。包括以下五种形式:

1、敬语助动词----れる、られる

动词未然形(五段动词)+れる

动词未然形(其他动词)+られる

另外要注意サ变动词的敬语态是:サ变动词词干+される

2、敬语句形,敬语句形是用固定的句形表示的敬他语。

① お+五段动词或一段动词连用形+になる

ご(御)+さ变动词词干+になる

②お+五段动词或一段动词连用形+です

ご(御)+さ变动词词干+です

③お+五段动词或一段动词连用形+くださる

ご(御)+さ变动词词干+くださる

④お+五段动词或一段动词连用形+ください

ご(御)+さ变动词词干+ください

3、用补助动词なさる构成敬他语。

(お)+五段动词或一段动词连用形+なさる

(ご)+さ变动词词干+なさる

而其否定形是なさいません

4、敬语动词,除了上述的一般动词经过变化表示敬语外,有一些动词有专门的敬语动词。如いらっしゃる、召し上がる、おっしゃる等。

5、表示尊敬的接头词和结尾词

a 用接头词お和ご(御)接在与对方有关的名词前面,以此表示尊敬。

b 用结尾词さま、さん、どの,接在与对方有关的名词后面,以此表示尊敬。

二、谦让语I是从自己方面向关于对方方面或者第三者方面的行为事物等的人物叙述。如:伺う、申し上げる、お目にかかる、差し上げる、お届けする、ご案内する。

三、谦让语II也可说成郑重语,是对话或文章中的对方,郑重的叙述自己方面的行为、事物等。如:参る、申す、いたす、おる。

四、郑重语是对讲话中或文章中的对方谨慎认真地叙述。

1,郑重语助动词です、ます、であります、でございます。

2,郑重语动词ございます、おります。

3,郑重语补助动词~てまいります、~ております。

4,接头词お、ご。

5,其他表示郑重的词语。如よろしい、本年。

五、美化语是美化事物的叙述。如:お酒、お料理。

敬语的使用有一定的原则。总的来说,作为个人,遇到比自己年长的人、比自己职位高的人要使用敬语,这是日语中的上下关系;对生人、外人使用敬语,对亲近的人、自己人不使用敬语,这时日语中的亲属关系;还有一种内外关系,如作为公司内部的人,在公司里也一样要对职位较自己高的人,或者理应尊敬的人使用敬语。但对于公司外的人称呼公司内部成员时不适用敬语。家庭同理。

1、基于权势关系的敬语

比如对皇太子的称呼要用さま,而被称为“先生”的只有政治家、律师、医生和教师,这和这些职业拥有的较高社会地位是分不开的。也就是说,根据自己所属集团中的地位和相互间的上下关系,来决定使用怎么样的敬语。

2、内外,亲疏关系

敬语其实从本源来讲是属于一种敬畏的表现,所以对于不熟悉的人也要使用敬语

3、基于利益关系的敬语

在有求于对方或者期待对方给予某种恩惠或关照时,心理上会处于劣势,反映到语言行为中就变成了敬语的使用。反之,如果人处于被求者或者施受者的立场是,他使用敬语的医师就会比前者大为减少。

4、基于公私场面的敬语

在许多场合,是否使用敬语已经不仅仅是处于尊卑意识或者单纯的尊敬他人,二十由于公共场面的礼节、礼貌或者表现自己的教养与修养,就和在家穿便服,出席郑重场合会穿西装甚至礼服是一样的道理。

另外,敬语使用很多时候还会受到心理因素等的影响而产生差异。

在了解敬语使用的场合以及用法之后,还要特别注意容易误用的几类典型例子。

1、敬语过剩。敬语滥用,双重或多重敬语的重复使用,这不仅导致句子累赘,语气啰嗦,而且这种用法是不成立的。也有对物品过分使用敬语的现象,不是所有的物品都要用お、ご作接头词表示尊敬的。

2、尊敬语与谦让语混淆使用。在使用尊敬语和谦让语时特别要注意说话者和对方的身份,自谦语可以用于说话人自己的动作,但不能用于听话人的动作。特别是在服务行业,这类错误经常发生。

3、使用敬语的不平衡。使用敬语的时候要注意句子先后平衡,不能在句子开头使用了,后句却没有加上敬语成分。

关于敬语使用的高频错误大致是以上几点,在使用日语敬语时,不妨特别留意。

结束语:日语敬语的学习是学习日语,学习日语语言学的一门重要学科。学好日语敬语的使用对我们日后的工作、留学以及日常生活都有很大好处。 因此虽然其体系庞大,用法错综复杂,但只要有系统地学习,也是可以正确地把握的。

参考文献:

从敬语使用看日本人的语言行为特点普书贞

日语郑重语的使用方法总结

浅谈日语敬语的分类与使用

日语语法之何时该用敬语

日语中常见的敬语误用分析

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推荐第7篇:【经验分享】日语小论文写作技巧指导

【经验分享】日语小论文写作技巧指导

所谓小论文,就是要针对某个论点明确地回答赞成或反对。按照四段式写出来的小论文结构最紧密,逻辑最严谨。第一段:提出现象并带出问题,但注意最好不要在这一段就表现出自己是同意还是反对,最好用であろうか或だろうか结尾,这样可以引起阅卷人的兴趣。例:「毎年、違法駐車による経済的損失は計り知れないものであるが、果たして、違法駐車に対する取締りは妥当であろうか。」「現代社会では、携帯電話が広く普及されたいるとはいえ、それは我々の生活にとって良いことだろうか。」需要注意的是,不要出现类似于「私たちは高齢化が進む社会をどう対応していけばよいのか。」这样的语句,因为这并没有提出某个可正可反的问题而是抛出了一个可以多角度论述的问题,这在下面的逻辑论述中是很难控制住思维发散的,再加上小论文有字数限制,很容易就出现超出字数了却还没有给出自己论点的情况。第二段:这一段的关键是要两三句带过与自己论点相反的意见,最好用「確かに」+「かもしれない」的组合,文章会显得很漂亮,確かに的后面跟的是反对意见。比如你是支持减少家庭作业的,那在这里就要写「確かに、先生は毎日学生たちの勉強成果を試すために宿題は最も効率が良いかもしれない」。这表示你已经站在对立面考虑过了,先写一下家庭作业的优点可以让阅卷人看出你想得很全面,逻辑没有漏洞。之后最好用「しかし」或者「だが」之类的转折词接上自己全文想要表达的论点。「しかし、学生たちは宿題をやるために読書や音楽などの趣味ができなくなるから、宿題を減らすべきである。」这一段要注意一点,就是不要把反对意见写得过于天衣无缝。如果你把与自己相悖的意见写得过于严密合理,相对的就会给人一种你自己的意见十分薄弱的感觉,所以確かに的后面只需要蜻蜓点水即可。当然还有一种方法,就是如果你发现相反意见写起来很顺手,可以马上调转枪头把这个作为你的论点,而把你原来的论点作为反对意见来写。第三段:这段是给你用来详细罗列自己论据的,是全文最关键的部分。接续词可以用「なぜなら」「なぜかというと」等等。具体的例子就不赘述了。第四段:这是下结论的一段,可以用「よって」或者「したがって」接上你的论点作为全文的收尾。例:「よって私は外来語が乱用されるのを反対する。」「したがって、日本の医療はもっと命に対して尊敬を払うべきだと思う」但是有些论述题是不会直接在题干中给出论点的,也许只有一段叙述性的材料,这个时候就需要你自己提炼论点,带出一个可正可反的议题来,这个需要练习。小论文是有定式的,按照定式去写起码结构上会很缜密,其余的就是需要你自己补充各方面的知识加入到结构里去了,只有框架没有骨和肉的文章同样是失败的。

推荐第8篇:日语小作文

第一个:暑假我要做什么

私の夏休み

私は夏休みに留学や旅行をしたいんですが、まだ具体的な计画は立てていません。たぶん行けないと思います。夏休みにはまず部屋の扫除をしたいいんです。それから、本をたくさん読みたいです。日本语の本も、英语の本も、小说も読みたいです。それから、友达と病院でボランティアをやります。最後に、学校の新入生のキャンプに出るつもりです。新入生のキャンプに参加するのは初めてですから、とても期待しています。夏休みはとても长いですから、ずっと家にいて、テレビやコンピュータを使って、时间を无駄にするのはいけないと思います。

第二个:将来我要做什么

将来の梦

小学校の先生に、「あなたは将来何になりたいですか?」と言われて、とても困ったことがあります。というのも私にはこれといった「梦」がなかったからです。

それで、私は「先生になりたい」と答たのですが、それは保育园の时の先生がやさしくて、大好きだったからです。だれだってそうかもしれませんが、私も子どものころは身近にいて、大好きな人に憧れていました。

今、私は大学生になりました。确かに、子どものころの梦を追い続け、宇宙に行ったり、オリンピックで金メダルを取ったりする人もいます。しかし、たいていは、自分にはそんな才能もないし、失败したら取り返しがつかないと思って、谛めてしまうのではないでしょうか。

今の私は、平凡でもいいから、生活を楽しみながら、自分らしく生きて生きたいと思っています。それが私にとって、一番幸せに近い道だと思うのです。

推荐第9篇:日语小作文

watasi no yume わたしのゆめ 我的梦想 watasi no yume wa syourai kyousi ninaru koto desu.nazenara tiisaikoro ka わたしのゆめはしょうらいきょうしになることです。なぜなら、ちいさいころか 我的梦想是将来成为一名老师。因为小时候 ra kyousi he akogare takara.ituka jibun mo kyousi ninatte minnani tisi らきょうしへあこがれたから。いつかじぶんもきょうしになって、みんなにちし 就非常向往老师。想着什么时候也是一名老师,不但 ki o osie hitonari no koto mo jisin no koudo de mitibiru to omotte imasu きをおしえ、ひとなりのこともじしんのこうどうでみちびるとおもっています。 教大家知识,也以自身的行动来告诉大家做人的道理。 imaha doryoku si mazu jibujisi no nouryoku o agede yumeni ippo zutu ti いまはどりょくし、まずじぶじしんののうりょくをあげで、ゆめにいっぽずつち 现在,我要努力学习,提高自己的能力,一步一步接近katuite to negatte imasu tamarazu ni ganbatteireba ituka kitto tadori かついてとねがっています。たまらずにがんばっていれば、いつかきっとたどり 自己的梦想。只要我不懈地努力,相信终有一天我能实现自己的梦想。 tuku desyou つくでしょう。

私(わたし)の一日(いちにち)私(わたし)は毎日(まいにち)7时(じ)に起床(きしょう)します。歯磨(はみが)きをし、朝(あさ)ごはんを食(た)べた后(あと)に学校(がっこう)へ行(い)きます。8时(じ)から授业(じゅぎょう)が始(はじ)まり。12时(じ)に终(お)わります。昼(ひる)ごはんは家(い

え)で食(た)べます。ついでにパソコンで游(あそ)んだり、アニメを见(み)たりします。午后(ごご)2时(じ)から5时(じ)まで授业(じゅぎょう)し、友达(ともだち)と食堂(しょくどう)へ食事(しょくじ)をしに行(い)きます。夜(よる)は自习(じしゅう)があり、夜(よる)の9时(じ)20分(ぷん)まであります。家(いえ)に帰(かえ)った后(あと)、少(すこ)し勉强(べんきょう)して、11时(じ)に眠(ねむ)ります。これが私(わたし)の1日(にち)です。少(すこ)し疲(つか)れますが、楽(たの)しいです。

私の名前は于振洲だったが、今年は22歳です。故郷は河北省の唐山を、今は青岛へ通い、は三年生の学生で、私の専攻は日本语を学んで、しかし私は、あまり私の専攻にずっと好きではありません、私はがんばってみ日本语が好きだったが、失败しても、私の性格欢对方なので、にはたくさん友达、わたしは怠け者だが、男子は皆そうだな、私は好きはインターネットを利用してたことは多いが、梦中になっているのではなく、ゲームがすきが好き、ゲームの中で油で、自由、悩み烦っていないで、今にも卒业して、知らないのは自分がどこで何をしてて,自分が自分が好きな仕事作业を行っている。

推荐第10篇:日语小短文

私の将来の夢

人々は自分の将来に夢を持って生きていくことがありますが、私も将来の夢を持っています。私のこの夢はあまりそれ程偉く、大きなものではありませんが、ただし、私にとっては大切なものです。何かといいますと、漫画家になるということです。子供時代の私は科学家になりたいし、超人になりたいし、将来にいろいろな可笑しい夢を追ったことがあります。残念ですが、今ではそれらの大部分をもう捨て、漫画だけはずっと大好きで、漫画家になる夢はずっと持ちつつけています。漫画家は決められた固定的な労働時間と場所がない自由な職業です。漫画を通していろんな幻想力みんなの目の前に展開できます。その中で人それぞれに楽しみを得ることができるじゃありませんか。なぜこんなに好きだと言いますと、その理由は幾つか考えられますが、主に次の二つの要因が考えられます。その一つは漫画は別のジャンルよりずっと面白いです。子供でも、大人でもストレスがだんだん多くなって夢のない日常生活には、空想の世界に浸らせてくれるもっとも手軽な手段は漫画を見ることかもしれませんね。漫画家は人々に楽しみを伝える職業と思います。そして、もう一つの理由は面白い職業ばかりでなく、漫画からたくさんの感動と感想がもらえると思うからです。八歳ごろ一冊の漫画を読みました。名前も忘れてしまいましたが、影響力はまだ残っています。それは勇気についての物語です。主人公は能力が足りないものの、一生懸命頑張っていたので、ついに成功しました。それ以来、そういう信念を持っています。まだできないのは大丈夫だが、この堅持の勇気を持たなければならないと思います。私は漫画家になって、その勇気をみんなに話してあげて、次々に湧き起こってくる感動と感想をみんなと共に享受したのです。今その夢のために準備しています。頑張って絵を描く練習をすると同時に、漫画の資料を集めています。漫画家になる道は多分厳しく、疲れが多く、収入も少ないかもしれませんが、もう自分の理想を目指して、私の将来の夢は未来のある日にきっと実現できると固く信じております。

私の梦

梦は人间が谁でも持っているものでしょ。梦人が生きている力と希望といわれています。

皆さんはどんな梦を持っていますか?私はいろいろな梦がありますが、将来、何になりたいかはまだ考えていないです。この间、友人と梦についての话を浴したので、私は自分の梦をはっきりして、真剣に考えるようになりました

わたしはたくさんのことを兴味に持っているから、多くのことをやってみたいです。たとえば、司会をしたいことや、ロックスダーになりたいことや、作家になりたいことなど世界でいろいろ好きなことを全部やってみたいです。兴味があるから、困难があってもきっとあきらめないと重って、自身をもってやり続けています。どんなことをしても兴味は一番大切なものだと私が思います。皆さんはどう考えいますか?兴味がなければ、やる気もなかなか出られません。すると、仕事をやり続けることも无理でしょ。

私は今日本语科の学生です。三年前、日本のロックバンドL`Arc~en~ciel(ラルク~アン~シエル)が好きになって、日本语を自分で勉强し始めました。そして、日本の映画やドラマをよく见るにつれて、日本の文学や伝统行事や日本人らしい発想を知りたくなったのです。去年、私は上海へいって、ラルク~アン~シエルのライブを见ました。初めて大好きなロックバンドのライブを见て、とても感动しました。大きいな喜びと幸せを感じられたと同时に、日本语にもっと兴味がわいてきました。これから、もっと顽张って、日本语をしっかり勉强しようと决心しました。日本语は勉强すればするほど难しくなるそうですが、兴味がもっているし、それにもっとロックのライブを见たい目标があるから、困ってもつらくてもきっとあきらめない、一生悬命顽张って勉强し続けて行こうと思います。

私はやりたいことがいろいろありますが、将来、どんな仕事をするかを决めるのは今私にとって难しいです。ぞれに、将来、社会人になると、思っても思えない困难がたくさん出てくるかもしれません。しかし、自分が好きな仕事ができて、毎日、楽しく过せるのをいつも望んでいます。ぞれは私の梦です。皆さんもそれぞれの梦があるでしょう。梦があるからこそ、日々の苦しみに耐え、明日もまた生きてゆこうという意欲が生まれます。昔からに成功者、伟人といわれる人々は、いずれも大きな梦を持ち、梦を育って、そして梦の実现のために努力した人たちです。そうといっても、努力することが嫌い、梦だけを大きく膨らませていたのは、いわゆる幻想で、やがてそれは、はかなく消えることになるでしょう。それで、皆さんは自分の梦を持っていて、梦に向かって、いっしょに顽张りましょう!

私の友達

私の友達はいつも励ましてくれる先輩です。彼は高校三年生になった時、私はちょうど中学三年生になったばかりでした。

成熟した彼は大学入学試験の準備に入ってから、どんなに忙しくても、私のことを一位として、いつものように助けてくれました。その時成績がなかなか上がらないことに悩んでいました。彼は毎日暇があったら、休まずに私を散歩に誘っていたのです。

でも、受験勉強のせいで、仏頂面をするようになってしまいました。「ああ、なんでそんなそっけない顔をしてるの?ぼく、悲しいわ...」とわざと柔らかい声で話しかけてくれました。不思議なことに、たとえ不愉快でも、彼の声を聞くと、なんだか微笑みが浮かんできたのです。二人でいる時間が本当に早いものですが、そばにいてくれるというだけで、満ち足りるのです。

入学試験が終わった後、旅行しに行くことを約束しました。初めて外国に着く私たちはきれいな環境と空気に驚き、うれしさははじけるほどでした。でも、しばらくすると、臆病で、学校で勉強した外国語がうまく生かせなかったのです。気が短い性格なので、何か困難にあった時、「英語なんて、何にも役立たない。」と怒ってしまいました。「外国語を必修科目に見なしたら、ちゃんと身につけるわけがない。外国語はコミュニケーションの橋ですよ、大変役立つではないか。自信さえあれば、なんでもうまくできるでしょう。」それを聞いて、失った自信がだんだん戻ってきました。その一週間の間に実は私は変わっていったのです。

今、先輩は卒業し、有名な大学に進学しました。少しさびしく思われていますが、彼の励ましで私も外国語大学に目指して、頑張っています。

お母さんのに手纸をあげます

亲爱なるお母さん:

こんにちは!

あなたが私をこの世界に来させることに感谢して、数年来私の父母の恩に対してあなたに感谢します。あなたはどれだけの心血を费やしますかが分からないで私になります。あなた学习の上で、生活の上で私は行き届いていて配虑と配虑ですに対して、あなたは私のために楽しい学习环境を创造しました。今日、娘は特に引き裂いてあなたの--私の常に付き合ったお母さんに手纸を书いて、私を表しますあなたの感谢の思いに対して。

学习の上で、普通の家长达poはただ子供の知识だけを重视して、あなたは私ぐいっと学ぶ键に。あなたが私に学んで--心まで(へ)4するべきなように教えます、目、口、手が着きます。心が着くのは考えが一心で、あれこれためらうことができません;目は问题をまで(へ)はっきり见ます;口は読むべきですのまで(へ)真剣に読んで、発言するべきなのは、耻ずかしがらないでください;手はまで(へ)いつも笔记に抵抗して、“良い记忆力がぼろぼろになるペン先に及ばないためですと大胆に言います。” あなたのこれらの方法は私に大いに利益を受けさせて、一生役に立ちます。

お母さん、私の成长の过程の中で、私のいかなる成绩、すべてあなたの心血があって、あなたが私にどのように学ぶことをどのように身を処しますわかるように教えたのです。あなたは安心して、今后私はいっそう努力して学ぶことができ(ありえ)て、自分に全面的に発展して、自分を役に立つ人にならせます。

祈ります:体の健康!

祈ります:体の健康!

仕事は顺调です!

あなたの娘

「アルバイト」 「アルバイト」はもともとドイツ語で「仕事」という意味であるが、日本では40年ほど前から、学生の副業の意味として使われるようになった。

現在、日本の大学生の90%以上がアルバイトを経験しているという。そしてアルバイトのために学校を休む学生も多いそうである。

授業はやぼってもアルバイトにはいく。そういう大学生たちは何のために働いているのだろうか。あるアンケート調査によると、大学生のアルバイトは、サービス、販売など第3次産業の仕事が多い。そして、「どうしてアルバイトをするのか」という質問に対しては「海外旅行をしたいから」「車を買うため」などの回答が多かった。ほかにも、「貯金をして、留学の費用にするつもり」「学費は自分でかせぎたいから」「会社勉強になにから」という回答も見られたが、ごく少数てあった。この調査結果からわかるように、アルバイトの目的は遊ぶためのお金をためることが中心となっている。

たとえ遊びが.主な目的でも、アルバイトをすることで、労働の尊さやお金を得ることの大変さを体験できるのだから、大きな意味がある。しかし、アルバイトのためなら授業をさぼってもいいとのは問題である。

环境(かんきょう)は、広义においては人、生物を取り巻く家庭?社会?自然などの外的な事の総体であり、狭义においてはその中で人や生物に何らかの影响を与えるものだけを指す场合もある。特に限定しない场合、人间を中心とする生物に関するおおざっぱな环境のことである场合が多い。

环境は我々を取り巻き、我々に対して存在するだけでなく、我々やその生活と系わって、安息や仕事の条件となり、また狭义の环境については、我々が汚染し、破壊するという関系性の中で大きな问题になってきた。

人类は古くから文明を発展させてくる过程で、自然环境を资本として利用してきた。天然资源を原材料に物を作ったり、燃料を使ったりすることで、原始的な狩猟采集生活に比较してはるかに高い生产力を実现したのである。そのため、原材料やエネルギーの使用量も次第に増え、21世纪を迎えた现在の先进国のエネルギー使用量は狩猟采集生活のころに比べて50倍以上[1]となっている。人口も急激に増えていることを考えれば、过去数十万年で原材料やエネルギーの使用量は爆発的に増えたと考えられている。

しかし、自然环境を利用することで、否応无しに自然环境に负担をかけることになる。少しでも自然に手を加えれば负担が発生するが、自然は自己修复性を持っており、ある程度の负担までは短期间で回复可能である。具体的に自己修复性とは、植物が伐采されたあと再び芽生えて元のように成长したり、物を燃やした际に出る灰や烟が拡散?沈殿などを経て分解されたり生物圏から隔离されたりすることであり、生物学や物理化学によって说明される。

自然が持つ自己修复性を超えて负担をかけたり、自己修复性が损なわれたりすると、回复が遅れ、结果的に人类をはじめとした生物に悪影响を及ぼすことになる。上に挙げた例で言えば、植物が过剰に伐采されたことで雨で土が侵食されて贫弱な土壌となり植物が育ちにくくなり、その植物を粮にして生活している人间やそこに栖む动物が被害を受けたり、大量に物を燃やすことで灰や烟が地上にも広がって、それを人间や动物が吸い込んで健康被害を受けたりする。

日本の印象

今日は私が日本に対する印象について、话したいと思います。

日本に来て、最初の印象は先ず、交通のルールを皆さんがよく守っていて、车多い割りに交通事故は少なく、スムーズに流れていると思います。

そして、电车の凄さです。朝の通勤ラッシュ时间帯において电车本数の多さと利用客の多さに惊きました。このような电鉄システムがあるので、大都会东京、大阪のような卫星都市型に成り立っているからです。

ただ、一つ残念なことに日本の漫画や雑志について、単纯に売り上げや、视聴率を追求して、その内容を问わず、やがて、青少年に悪い影响を及ぼすことに违いません。それと同様に携帯电话の普及に伴い、小中高生の持ち率も年々上がり、出会いサイトやネット上の中伤など、青少年の犯罪や、自杀等年々増え、社会问题にもなっています。

社会が进化に连れ、いいことが多いですが、必ず副作用のようなものも付いてきます。それに対する対策をも当然改善していますが、青少年には有効な制限或いは措置を望みます。

以上私の日本に対する印象と感想です。

ご清聴ありがとうございます。

我的兴趣是旅游

私はいろいろな趣味があります。その中で、大好きなのは旅行です。小さい子供のときから、両亲に従って旅行に行きました。いままで、广西,苏州,无锡,扬州,北京など、多くの所に行ったことがありました。

しかし、そのとき私には自然の美しさをたのしむのがわからない。游びしかわららない。だんだん成长してはじめて旅行は自然に楽しませるだけでなく机嫌によくさせることができると思われるようになりました。

それぞれの所に着いたら、その所の美味しい料理を食べるのが好きです。湖南料理はちょっと辛いで、食欲があります。北京ダックも美味しいです。江南の食べ物はちょっと甘いです。广西の果物は多くて、美味しいです

今、一番行きたい所はチベットです。そこの空気を呼吸したいです。当地の文化を感じたいです。また、日本の北海道に行きたいです。映画の中でそこの风景を见って、美しくて静かです。

圧力があって、気持ちが悪いときまたはいい天気につけて、私はりょこうしたいです。でも、今まだ学生だからお金がないで、将来は旅行のチャンスがあると期待しています。

教师のための文字

火教师、こんにちは:

火の先生、私は、ろうそくの场合は、希望を伝えるため、私の人生の道を照らすために自分自身の书き込みのようになる;场合は、私を支援する必要がある困难に辞书のように、同じ时间、あなたのように亲密な姉、私たちは话を、私たちの悩みを闻く。

火の教师は、覚えてる?中间付近の长期的な试験の日で、私は、王晶赵、突然、学生の私に语った、とあなたのオフィスに行く王晶赵を果たしている。私は思っている:私は、なぜ私に行こう间违ってコミットしない?だから、私はオフィスおよび小规模オフィス向け王晶赵不安。ドアで\"Ping\"を闭じ、お客様の机に来た。あなたが私たち汗を暖かく歓迎されている参照してください:\"あなたはホットホットは?场合、热コートを先送りにする。\"

\"いいえ热!\"私は、王晶赵声をそろえている。実际、私は本当に、人の汗が冷たい汗を怖がっている温泉はありません。

现在、我々のような、のような木立ち、にっこりして言いました:\"私は、なぜあなたが今でもまっすぐ立って批判することは?\"を参照して

赵晶相のニュースを私に応じて、笑い、私は\"嫌なことがありますの良いと思う。\"

案の定、瞬间をお求め方法を最新の状态のサンプルは、言う:\"大丈夫。\"

いくつかの方法での検査のため、\"いいですか?试験の准备?\"

私は、と思っていた:\"10バー内へ!\"その后、王晶赵氏、と私は同じ考えです。

\"まあ、\"あなたは、\"ぼくも、军の顺序を设定した\"と言う。

今后数日间、私は彼らと眠れぬ夜を最后に20数トップ10に记载されてから飞跃に学んだことを确认します。

火教师は、これを平凡と私は话を、私は飞跃的に自分のパフォーマンスにする动机を与えたです。

火教师の场合は、コンパスのような砂漠のように、私は生活の中で正しい方向への视覚障害者を见つけることができますしている;场合は、ビーコン信号の海のように、右侧のトラックに沿って彼の希望に向かって私には、桟桥!

よろしくお愿いいたします。

サルート

生徒:***

2009年9月7日

我的故乡的四季

私は故郷から离れてもう45年になっていましたが、そこの山水や田园や道路や民屋など私の幼い顷、见惯れてきた物が悉く懐かし深いものです。特に银髪になった母はいつも私の心に挂けられているのです。この世には一番美しいところと言えば自分の故郷だと思い、一番亲しい人と言えば自分を生まれ育ている亲だと思っているのでしょう。

冬の故郷は相当寒いです。骨を刺す北风が砂粒を巻き上げて强く吹き打たれると、母の缝いで呉れた绵入れの冬着が无ければ、活きられないようにその寒さに耐えないもんです。しかし、幸い、石炭のところなので、学校から家にかえると、ひらひら炎が燃えているストープを囲んで、亲の四方山话を闻いていたのが火から亲から世间の温暖さを満杯感知させられていました。

春の故郷は山と野原に绿が広がって野花の香りが漂っています。家の轩下に挂けられている燕の巣にはお久しぶりの天使の姿が再び见えて来たんです。その时になると、母は朝寝坊をしていた私を起こしてそう伝えてくれました。「燕が飞んできたよ、暇だから、じゃあ、一绪に庭の扫除をしておきましょうか。しないと、燕に笑われるかな。」自分の住家を大切にする母の心使いが深く印象付けられて私の一生のつきものになったわけです。

夏の故郷はみずみずしい多种多様な野菜ガで上回ってきますが、母は畑で作られた野菜より野生の方が旨いと言って、近所の婆ちゃんたちを诱って远いところへそれを采りに行きました。夕方、笼にぎつしり积んだ野生の野菜を背负って帰ってきた母は休まずに、すぐその手入れをし始めました.其れを食材にして作られた料理が本当に旨いと思って今でもその母の味を懐かしんで堪りません。

秋の故郷は大地が金色になっています。恐らく五谷豊穣を祝うため専らにセテイーングされた祭りでしょうか。私は中秋节という祭りが大好きです。母の话で月饼とは一家の団栾と时运の円満を象徴するもんで、どこへ行っても自分の家を忘れないようにしてくださいねと言ってくれました。

故郷の四季はいつも忘れられないことです。そこは 懐かしい母また幼时の思い出があるところで、私の最爱なところです。 我最重要的好友

私の一番大切な友達は、今上海に住んでいます。私たちは毎日メールで連絡します。彼女は私の親友です。私の考え事を彼女はよく知っています。ですから、彼女の前に、本当の自分の気持ちを伝えています。仲良し友達ですね。とても幸せです。

3年前に、高校の食堂で彼女と会いました。彼女の肌は雪のように白いです。高校で1番美人ですね。最初の頃は、彼女が大切でした。そして、彼女に自分の好きな気持ちを告白しました。でも、彼女は私のことが好きじゃありませんでした。あの時、私の気持ちがとてもつらかったです。かなしくて、涙が出ました。あと、私は彼女に手紙を書きました。彼女に明るい未来を祝福しました。

でもそのあと、まったく思いもかけないことがおこりました。彼女からの電話を受け取りました。彼女は「私たちは、将来いい友達になるかもしれません。」と言いました。あの時、私はとてもうれしかったです。

3年前のあの日から、私たちはずっと連絡しています。私は彼女のことを知ります。友達どうし、尊重しあいます。互いに助け合います。

実は、今彼女のことがやはり好きです。でも彼女はそのことを知りません。しかし、これでもいい。私にとって、そんなすばらしい親友を持って。もう足るをしります。もしかしたら、ずっと友達になるしかない。

中国で一つの言葉があります。「世の中に知己があれば、遠く離れていても隣人のようなもの」と言います。いつまでも友達になります。彼女はずっといい気持ちを持つことは、私にとって幸せのことです。ですから、真心がこもっている神様に祈ります。彼女はずっと楽しげなほほえみをもっています。これは私の願望です。

我关心的事

こちらのアークアカデミーで日本語の勉強を始めてから六ヶ月目、その二番目のクラスでの三番目の作文宿題。その主題はまさに“私の関心のある事”だ。

今まで特別にそれについて考えてみた事がなかったが、今度の宿題がきっかけでじっくり考えてみた。三十三年を生きてきて、何に一番集中をしながら暮らし、またこれから何をするために暮らすのかに関して悩んでみた。

それで出た結論は今まで誰か私に人生観が何なのかと聞いた時、いつも同じ答えをして来た。 \"カルフェディエム - 一回だけである人生!”

私はこの言葉をこんなふうに解釈する。“今日を最善をつくして熱心に暮らせばその一日一日が楽しくて、そんな楽しい一日などが集まって幸せな人生になる”と。

ここで私の基本的な生活の関心ある事が決まったようだ。 “正しく楽しい今日のための方法”だ。

何をどのようにすれば今日が楽しくて活気に満ちる事ができるか、そしてやりがいのある事ができるかというのだ。

ここで楽しさと幸せのための何種類かの条件が必要だった。例えばお金や健康、好感できる容貌や雰囲気、そして人々とよく交わる事ができるさまざまな技術がそれだと思う。

こんな事をわざわざ考えて見た事がなかったが、無意識の中で私の関心事を決めたようだ。事業的な活動や、ひまを見て運動をする時、または自分自身を演出するアクセサリーなどを買う事などに関心が行くように。

誰もが自分が待つ事ができないものを待ちたがって、できなかった事をしたがる。今、私は不可能だった日本人との会話をしたくて日本語の勉強に関心が行っていて、私がこれからしたい事などをしっかりやりこなして毎日のストレスを飛ばしてしまうために運動に関心が行っている。

しかし何と言っても一番関心の行く部分は元気な男であるゆえに元気で明るい、そして美しい女性であるしかない事は否認する事ができないようだ。

中国的教育问题

今、中国にはいろいろな教育の問題があります。教育に関してはどんな国でも問題があると思います。

今の日本ではいじめや学生の自殺が教育の問題を越えて、社会の問題になっていますが、中国ではこんな問題はあまりありません。今、論点になっているのは大学に入(はい)るための試験の問題が大きいです。

今年の四月から今まで日本に住んでみて、日本の高校生は大学の入学試験であまりストレスが溜まらないように見えました。これは中国とずいぶん違います。中国は大学に入るために一生懸命勉強しています。本人は大学に入りたくないと思っているのに両親が圧力をかけます。そして、まだ中国では大学を卒業していなければ、社会で認められません。給料も大学卒業者と高校の卒業者とはずいぶん違います。一般的に企業はまだ大学の卒業者を欲しがっています。これが中国の教育の問題だと思います。

そして、私が考えているもう一つの問題は教育制度がたびたび変わることです。中国には「教育は一国の百年大事だ」という言葉があります。でも、最近の中国の教育政策は一年や二年に一回、はやいときは一年に何回も変わっています。よく変わる制度に学生たちが適応できなくて右往左往しています。いつも被害をこうむるのは学生たちです。そして、まだ人間関係について習うこともたくさんある、そんな学生が仲良くできる友だちを作るのではなく、互いに敵を作ってしまいます。どうして、みんな一緒に学校生活を楽しく過ごすのではなくて、敵にならないとだめですか。

こんな大きな問題を解決するためには国会議員が自分たちのためにではなくて、学生たちのことを考えて政策を作らなければならないと思います。もっと安定した教育のために。

「病気」

日本に来て1か月ぐらいたったとき、病気になりました。そのときは、胃が痛くて何も食べたくありませんでした。どうして病気になったのかよくわかりません。はじめがまんして学校に行っていましたが、だんだんひどくなりました。それで、近くの病院に行きました。

お医者さんは「かぜが原因で胃炎になったのです。あまり心配しないで、ゆっくり休んだほうがいいですよ」と言いました。そして注射をして薬をくれました。私は勉強が遅れるから学校を休みたくないと思いました。しかし、お医者さんの言う通りにしたほうがいいと思って、家でずっと寝っていました。

二.三日したらだいぶよくなりましたが、あまり無理をしないように気をつけました。四日目に友達がお見舞いに来てくれました。病気をしないように、いつもきんと食事をして、よく休養することが大切だと思いました。

第11篇:日语小短文

月の女神と母親 あるとき、月の女神が母親にたのんで、からだにぴったりあう着ものをつくってほしいといいました。

すると母親はいいました。

「どうしてぴったりする着ものなんかつくれると思うの。おまえは、今はまん丸だと思っても、こんどは半分になるし、その次にはまた三日月になるもの」

このように、気まぐれな人には、その人にあうものがありません。

どんなにすばらしいものをあたえても、すぐに気に入らなくなってしまうからです。

一天,月之女神拜托母亲,请求她给给自己做一件非常合适的衣服。 于是母亲对她说:“为什么想要一件非常合适的衣服呢?你虽然现在样子圆溜溜的,但是下次就变成半圆形了,再往后就成月牙形了。”

那些反复无常的人就和这个女神一样。

无论给她多么好的东西,用不了多久就会生厌了。

第12篇:日语小演讲

私の日本語の勉強

今は日本語の勉強の第二学期です。しかし、やっぱり日本語は難しいと思います。まず、日本語にも漢字があってでも、時々意味が違います。それに、敬語の使い方も大変難しいです。それでも、私は、もっと日本語らしい日本語を覚えたいのです。そのために、私は一生懸命に日本語を勉強します。毎日単語を覚えるだけではありません。私は自主学習が大切だと思ってたくさん聞く、たくさん話す、たくさん読む、たくさん書く、たくさん訳すことが勉強します。読書のほかに、私はアニメやテレビやドラマなどを活用して、日本語ドラマを見ながら日本語を勉強します。私は日本ドラマ特に東京ラブストーリーが大好きです。東京ラブストーリーに非常に感動されます。同時に、日本文化などの理解に対して以前よりもっと多くなりました。努力しさえすれば、私はきっと日本語がマスターできます。

第13篇:日语小作文

インターネットについて

21世紀の人々にとって、インターネットはすでに不可欠な存在になっている。学校や、オフィスや家には、インターネットにアクセスしている人間を至る所見かける。

そういえば、インターネットは確かに便利なものだ。インターネットなしには、仕事ができない場合も少なくない。仕事だけではなく、日常生活においても大きな役割を果たしている。21世紀の人々は、情報収集と言えば、すぐインターネットに接続するようにしている。インターネットで調べると、世界中何か起こったかすぐ分かるし、図書館に行かなくても必要な資料を容易く手に入れるし、家に出かけなくとも買い物もできる。そして、つまらないと思う時や気分転換をしようとするときに、インターネットで音楽を聴いたり、ゲームをしたりすることもできる。インターネットより便利な物はないと言えるだろう。

しかし、インターネットによる問題も少なくない。まず、インターネットにはいい情報だけではなく、よくないものもたくさんある。特に自分で物事を判断する力が足りない青少年が悪い影響を受ける場合が多い。そして、インタネットに時間をたくさん費やすことも深刻な問題になっている。情報を調べようというつもりでインターネットにアクセスするが、結局必要以上に時間をかけてしまうのだ。

とはいえ、インターネットはただひとつの道具に過ぎないので、別にいいか悪いかとは言えない。その道具をどのように利用すればいいか、それは人々次第だ。

環境保全と経済発展

一時期、人間は経済発展のために、自然資源をむやみに開発し、環境を破壊しつつある。地球の環境問題に関する国際会議があちらこちらで開かれているが、効果はなく、自然破壊は進んでいる一方である。

例えば、森林を破壊するということによって、少し雨が降ると、土が流されて、川底にたまり、川を浅くする。その結果、毎年洪水が起こっているのである。また、人々の生活から出される二酸化炭素やフロンガスは気温を上げる。車や工場から出される排気ガスは空気を汚し、その汚れた空気も自薦破壊につながっている。恐ろしい酸性雨が生み出され、木々や農作物は枯れ、土地そのものも破壊されてしまうのである。酸性雨に汚された川や湖では魚が生きられない。魚も植物も生きられない地球では、人間も生きられないはずである。人間は自分たちの都合ばかりを考えて、地球を自分たちさえも住めない場所に変えてしまっているのだ。

経済発展はいいことに違いないが、自然環境も無視してはいけない。いくら生活が豊かにしても、よい環境がなければ、幸せを手に入れることができないだろう。ということで、よりよい生活を営むために、経済の発展とともに、環境も保護しなければならない。

英語と日本語と国際社会

現代社会において、ほかの言語と比べて英語を第二言語として勉強している人が一番多いのだ。欧米国は別に、今英語をひとつの必修科目として教育の

日程に加えている国がほとんどである。。なぜかというと、世界中の先進国がほとんど英語をしゃべっているのだ。その先進国の技術や文化を導入するために、彼らの母語を勉強しなければならない。

近年、日本語を学ぶ人も増える一方である。特に若者の日本語学習者数の伸びが目覚しく、日本へ行く留学生もずいぶん増えている。国際交流における日本語の重要さもこれから見直されるべきだ。

強いものは王になる。国際社会においても、同じものが通じるだろう。先進国はいつも時代の先に立って、自分の文化や経済形式を他国に広げていく。言語はただひとつの表現に過ぎない。今の日本も国際社会では大いに物をいうからこそ、日本語を学ぶ人が増えつつある。日本にしてから見れば、自分の言語を押し広めることによって、経済貿易を促進させるだけではなく、自分の文化をアピールすることもできる。彼らにとって、いいことずくめだ。

第14篇:日语小文章

夢の夕食(1)

友達と映画を見るために、日比谷シャンテの前で待ち合わせをした。彼女は私の顔を見るなり言った。

「お腹が減って死にそ。後でおいしいお寿司屋さんに案内するから、とりあえずハンバーガー店に買って行こうよ」

私と彼女は近くのハンバーガー店に入った。カウンターにはお客が行列を作っている。最後尾に並びながらふと店内を見ると、近くの席で銀髪のアメリカ人夫婦が向かいあってハンバーかーを食べていた。ブラスチックのトレイの上にはハンバーガーとコーラとフライドポテトがのっている。年の頃、六十代の半ばだろうか。二人は何を話すということもなく、ただ黙ってフライドポテトを食べ、コーラを飲んでいる。すると、妻のほうがバッグを開け、ティッシュペーパーを出して。その時、バッグの中にパスポートがチラッと見えた。

私は何だが胸が痛くなった。都内のハンバーガーやフライドチキンの店では、よく外国人老夫婦の旅行者を見る。見るたびには私は「ごめんなさい」と言いたくなる。

彼らだってきっと懐石や美しい日本料理を食べたいに違いない。しかし、この国の物価は半端ではないのである。まして、日本の趣味の料理屋で懐石ともなれば、外国人には気絶しそうな値段であろう。老夫婦は子育てを終え、仕事の第一線から退いた今、蓄えた金で夢を見て日本に旅してきて、そこで食べるものはがハンバーガーとコーラとは夢にも思っていなかっただろう。もとよりアメリカから来た手軽な食べ物である。それが夕食ではどんなにかみしめだろうと思う。

しばらくすると、ジーンズとTシャツの若いアメリカ人の男が二人入ってきた。一見して旅行者とわかるが、若いのでこちらも「はんばーがーで当然」という感じで気楽で1

ある。すると、若い二人と老夫婦の目が合った。そして一瞬のうちにお互いに目をそらした。見てはいけないものを見た気がして、私も目をそらした。今夜は「おいしいお寿司」は食べたくなかった。

プレゼント(2)

女友達が浮かぬ顔をしている。どうしたのかと聞いたら、彼女はため息まじりに話し始めた。

「彼が私の誕生日を忘れていたのよ。別にプレゼントを催促する気じゃなかったの。ただ、覚えていてくれたら嬉しいなァって思ってたけど、遠回しに匂わせるみたら「アツ」って思い出してくれて「何かプレゼントするよ」って言うの」

「なら問題ないじゃない」

「大ありよ。その後なんて言ったと思う?」

「さあ??」

「何でも好きな物買っとけよ、後で金渡すからだって」

私はしばらく息ができないほど笑い、涙でアイラインがとけてタヌキになっていた。いかにも男の人が言いそうなセリフである。これは女の脚本家が机でひねり出そうとしても書けるセリフではない。

女はプレゼントも欲しいけれど、やっぱり彼の心が欲しいのである。誕生日や結婚記念日を覚えていてくれて、忙しい合間に彼が自分で選んだ何かがほしいのである。それは多少センスが合わなくても、高価なものでなくてもいい。女が自分一人で好きな物を買い、後で、

「消費税込みで二万三千五百六十円だったわ」

とレシートを渡し、彼が二万四千円出して、

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「ホラ、釣りはいらないよ」

では多くの女は悲しくなるはずである。

逆にプレゼントに頬をゆるめていた女友達もいる、彼女はきれいな小さなイヤリングを見せてくれた。

「出張の帰りにね、飛行機に乗る寸前に空港の売店で買ったんだって。やっと東京に戻れると思ったとたんに私のこと思い出したんだって」

心が緩むと同時に彼女を思い出した、という言葉に加えて、空港の売店に駆け込んだ彼の姿がダブルからそのイヤリングは三倍輝く。

プレゼントにはやっぱり「甘さ」が欲しい。

十円玉騒ぐ(3)

スーパーマーケットのレジに並んでいたら、すぐ近くで何やら騒いでいる。店の人が走ってくるし、お客さんまでが地べたに這い蹲ったりしている。

何ごとかと思って見ていたら、小さな女の子がお金を落としたらしい。そばで父親と思われる人が一緒になってさがしている。

女の子は店内に備えつけてあるゲーム機で遊ぶため、十円玉を入れようとした時に、そのうちの一枚を落してしまっのである。十円玉はクロクロと転がり、見えなくなってしまったのだろう。若いの父親は言った。

「お金を粗末にしちゃいけない。ちゃんとさがして」

一見、軽そうに見えるタイプだが、言うことはしっかりしていると、私は感心していた。ところが店の人や客までが一緒になってさがしても、十円玉は出てこない。父親は結構な根性の持ち主で、店の人にタバコケースを移動させ、コピー機を移動させ、女の子3

にさがさせる。

「自分で責任を取りなさい。ちゃんとさがしなさい」

とうとう、店の人が自分のポケットから十円玉を取り出し、女の子に渡そううとした。

「なくしたお金は後でおじちゃんがもらっておくから、今はこれを使いなさいね」

女の子が出した小さな手を、父親は静かに引っ張った。そして店の人に言った。

「たかが十円、お金が問題じゃないんです。お金の大切さと、自分で責任を取ることを教えたいんです」

そして、女の子に言った。

「お金がなくしたのは自分だから、今日はゲームはできないよ。わかってるね」

やがて父親は女の子の手を引くと、店の人たちに礼も言わずに出て行った。移動させたタバコケースもコピー機も一切も通りにはしないで。まったく「責任」はどこへいくのだ!口先だけで偉そうなことを言うほど簡単なことはない。

空港のコアラ(4)

仕事で博多に出かけていた。日曜日の最終便で東京に戻るため、私は空港で搭乗手続きをとっていた。

その時である。空港ロビーを揺るがすような、子供の泣き声が聞こえてきた。搭乗手続きの乗客はもとより、係員まだが思わず手を止めてその子供を見たほどである。子供は四歳くらいの男の子で、両親は困り切っている。立って泣いていたその子は、突然床に大の字になり、大声で泣き叫びながら手足をバタバタさせ始めた。父親が懸命に何か言いきかせているのだが、いっこうに泣き止まず、声は大きくなるばかりである。

こうなると、私も含めて周囲の人たちは眉をひそめだした。そのうちに、子供は父

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親の首にかじりつき、両脚をその背に回し、まるでコアラが木にしがみつくようにして泣きわめく。若い母親はじっとうつむき、何もしない。

「あのお母さん、なってないわねッ」

私の前に並んでいた老夫婦がつぶやいた時、子供の言葉がロビーに響き渡った。

「お父さんも帰ろー!お父さんもいっしょー」

私はハッとした。改めて見ると父親はジャンパーにサンダルばきである。明らかに妻子を空港に送りに来ている姿であった。

「帰ろー!お父さんもー! ヤダー!僕ヤダー!」

子供はコアラになったまま、大粒の涙をポロポロとこぼし、泣き疲れてかすれた声で叫び続ける。ロビーにいた人たちがシーンとなった。誰の目にも、父親は博多に単身赴任しているのだとわかった。なってないと思われた若い母親は、自分もおっとと別れが切なくて、うつむいて涙ぐんでいたのかもしれない。 搭乗の最終案内がアナワンスされるや、父親は力ずくでコアラを引き剥がし、後も振り返らずに駆け出して行った。

子供を育てた経験がある限り、男たちは本気で不倫などできるはずがないと思うほうがいい。

あの父親はこのクリスマスには帰れるのだろうか。

隠れタバコ(5)

ある夜遅く、NHKからタクシーに乗った。放送センターの構内から出るや、運転手さんが言った。

「タバコ、吸っていいですよ」

「え?」

「会議が何かだったんでしょ。ご遠慮なく」

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ルームミラーに映る運転手さんの目は優しく笑っている。私は不思議な気がして聞いた。

「女の人たち、タクシーでタバコ吸うことが多いんですか?」

「多いですよォ。車に乗ってすぐに『運転手さん、タバコ吸っていい?』って言うのは八割がた女です。男は車に乗ってすぐ吸うって人はまずないね」

「へえ。それって意外だなァ」

「でしょう。やっぱり女はあまり人前で吸うわけにはいかないんじゃないですか。夜遅く会社から乗る女の人ってのは、ほとんどが会議や何かでしょう。疲れて一服したくてもしにくいし、それでタクシーが乗るとすぐなんじゃないかねぇ。お客さんもてっきりそのクチかと思ったんで、どうぞって言ったんだけどね」

運転手さんの分析はかなりいいとことを突いていると私は思う。人前でタバコを吸うことをためらう女は、この時代にあってもかなり多い気がする。それは禁煙、嫌煙が進んでいる今、他人に迷惑をかけたくないという思いもあろう。が、私個人の意見だが、やっぱり「男にとっていい子」でいたい女は、人前では吸えないのだと思う。「タバコを吸う女」というだけで、少なからず見る目を変えてしまう男というのは確かにいるだから。

「タバコを隠れて吸うなんて情けないわよ。悪いことしてるわけじゃないんだし」という声は正論だが、私はトイレやタクシーの中で、隠れて吸う女の気持ちのほうがよくわかる。男に愛されたい以上、マイナス要素を隠れたいのは当然のこと。しかし、確かにみじめてあり、切なくもある。一番いいのはタバコをやめることだろうか。

悲惨な食事(6)

知り合いの下宿している大学生に、どういうものを食べているのかを尋ねてみると、

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その食生活の貧しさに驚くことがある。

「そんなものばかり食べて、よく今まで生きてこられたね」

といいたくなってしまうような内容なのである。朝はコンビニエンス?ストアで買ったパンと牛乳。昼はラーメン。夜は友達とおつまみもろくに食べないで酒を飲む。そして酔いがさめてお腹がすいたら、スナック菓子をひと袋食べてすませるひどさなのだ。これは男の子に限ったことではない。女の子だから大丈夫だろうと思っても、実態はなかなかすさまじいのだ。

彼女に言わせると、

「忙しいので自炊はしない」

そうである。

「朝、何を食べてきたの」

と聞いたときに、彼女の口からチーズ?ケーキとチェリー?タルトと炭酸飲料の名前が返ってきたときには、本当に驚いてしまった。

「えっ、それが朝ご飯?」

と思わず聞き返すと、

「いつもこんなもんです」

という。朝は授業が始まるギリギリまで寝ているから、朝ご飯をつくる時間なんかないというのが彼女の言い分なのだが、そういうわりにはきれいにお化粧しているのがとても不思議であった。

私が学生のときに、授業中によく倒れる男の子がいた。彼はとにかく貧乏で、着ている服は一年中、高校時代の詰め襟のみ。食べることにも事欠き。空腹ですぐへなへなとなってしまい、そのたびに私たちはお米や野菜を持ち寄って、彼に寄付したものだった。7

今の学生はお金も持っているし、一見体格もいい。しかし、栄養がなくて手軽に空腹が満たされる食べ物がありすぎて、食生活の内容は悲惨なのではないだろうか。

長生きするために食べるわけではないし、無理やり私が食べさせられるわけではないから関係ないけど、人に献立を話して気持ち悪いがられるようなものはやめていただきたい。

目(7)

毎年、春になると私にはつらい出来事がおこる。鼻がムズムズするのもそうだが、一番困るのは外を歩いていると、春風に舞いあげられた小さなゴミが、やたらと目の中に入ってくれることなのである。たとえば私の目がぱっちりしていて、いかにもゴミが入りやすそうな形状をしているというのならまだ納得できる。風が吹いてきても受ける部分の表面積が大きいのだからそれが仕方がない。しかし私の目は一重まぶたで人よりもちっこいのだ。

学生時代、みんなと連れだって帰るとき、決まって私だけが目にゴミが入る。二重まぶたでわたしよりもずっと目が大きい友だちは何ともないのにだ。涙をプロプロ流しているのを見て、彼女たちは、

「おかしいわねえ」

といって首をかしげた。必死になって涙でゴミを流し出そうと努力している私に同情してくれるどころが、腕組みしながら路上で議論し始めたりするのだった。

「四人が同じ条件で歩いていて風が吹いたら、どう考えたってあなたが一番入る確率が低いのにね」

理数関係が得意な子が冷ややかにいった。

「私は目が大きいほうだけど、そんなにゴミが入った記憶なんかないわ」

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出目金というあだ名の子は、そういいながら私の顔をのぞきこんだ。やっとの思いでが流れ出てもしばらくは涙目が収まらず、涙と一緒にでてきた鼻水をずるずるやりながら、電車に乗るのが毎度のことだったのだ。

それから私はちっこい目の人に会うたびに、

「ゴミが入りやすいですか」

と聞くことにしている。驚いたのは私と同じような思いをしている人が、ちっこい目の人に多いということだった。話によると目の大小ではなくて、眼球の角度によってゴミが入りやすくなるそうなのだが、この件は自他ともにずっと不思議だといいながら、依然、解明されていない。

お気に入り(8)

五歳の男の子を連れた友達とばったり道で会った。

「随分、大きくなったね」

といいながら、ふと彼の着ている物をみたら、妙にお腹のところがふくらんでいる。

「腹巻きできさせてるの」

「そんなことないんだけと??、どうしたのかしら」

彼女は、男の子の着ているダブッとしたTシャツを捲り上げた。中から出てきたのは、くしゃくしゃに丸められたこーデュロイの半ズボンであった。あるデザイン?メーカーのものだ。話によると、このズボンは彼のお気に入りで、冬場、ほとんど毎日はいていたという。

洗濯すると、

「いつ乾くの」

としつこと尋ねる。目を離すと生乾きでも幼稚園にはいていこうとするので、説得9

するのが大変だったというのだ。春先に、

「このズボンは寒いときにはくものだから、しまおうね」

といてタンスの奥にしまったのだが、そのときしまい場所をしっかり見ていたらしいのである。

「こんなに好きなの」

と聞いたらこっくりとうなすく。そして、

「今日のズボン、嫌いなんだ」

と訴えるのである。はいているのはふつうのジーンズの半ズボンである。

「どうして、ちっとも変じゃないわよ」

「かっこ悪いんだよ、ここのところが」

彼はポケットを指さして、口がとがらせる。母親にはかされたズボンが気に入らなくて、すきあらば自分の大好きなズボンにはき替えようと、隠し持ってきたのである。

「五歳でねえ。それも男の子でねえ??」

私は感心半分、あきれ半分でため息をついた。私も子供のときには好きな服と嫌いな服はあったが、文句を言えば、

「ふざけるな」

と親に怒鳴られるに決まっていた。裾がびろびろに伸びたランニング?シャツで走り回っていた子供の姿は、遥か彼方に消えてしまったようだ。

花(9)

家の中にいつも花を飾る習慣になっている人はとてもうらやましい。別によい服を着ていなくても、贅沢な食事をしていなくても、広い部屋に住んでいなくても、花を飾って生活をしている人には憧れてしまう。というのは、私は地べたから生えている花は平気

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だが、切り花はどうも弱いからなのである。

そうはいっても、自分の殺風景の部屋に、なんとかかっこをつけようと思って、あきかけのや蕾が混ざったバラを買ったことがあった。花瓶にいけて眺めて見ると、狭い部屋でも、花があるのとないのとでは、雰囲気が大違いであった。

「やっぱりこのくらいはしなくちゃね」

私はひとりで悦にいっていた。だんだん蕾が開いて、きれいな花を咲かせてくれた。

「まあ、きれい、きれい」

といいながら喜んでいた。問題はその先である。いつまだも花をきれいに咲いていないから、日に日に花びらの色が変わり、茎も発っぱも萎びてくる。とたんに部屋の中が何となく悲しく、うら淋しくなってしまうのである。ここでいつも私は悩む。見てくれを考えればさっさと捨ててしまえばいいのだが、まだ水を吸って生えているかと思うと、ゴミ箱行きにできないのだ。

どうしようと迷っているうちに、花は萎れてくる。花が咲いてきれいなときはほんのわずかで、萎れかけてから枯れるまでのほうがずっと長い。

「早く枯れてくれないかなあ」

と期待しても、これが結構しぶとい。みっともないから、なるべく人目につかない場所に花瓶を移動しようとするのだが、物陰に持っていくとますます悲惨になってくる。私は首項垂れた花が入っている花瓶を持って、部屋のなかをうろうろするハメになるのである。花びらが落ち、茎もパサパサになると、やっとゴミ箱にポイする決心がつく。花を飾るのは本当に神経が疲れる。私は基本的にこういうことには向いていない。

偏食(10)

みんなで楽しく食事をしているとき、ふと見ると意外に偏食する人が多いのに驚く1 1

ことがある。もちろん子供ではなくて、立派な大人である。あれもだめこれもだめといいながら必死になって嫌いなものを皿の隅によけている姿を見ると、その人には悪いけど、

「あまりみっともいいものじゃないな」

と思う。

かくいう私も子供のころはすさまじい偏食児童であった。食べられるのはお菓子とご飯と海苔と卵だけ。野菜など全く食べなかった。最初は私の気に入ったものだけがちゃぶ台に登場していたが、あるときを境にして突然、大嫌いな食べ物のオン?パレードになってしまったのである。ご飯はあるものの、海苔と卵の姿はない。当然の如く私は抵抗した。

「こんなのいやだ」

といってみても、母親は知らんぷりしていた。次は大声で泣いてみた。まだ無視された。最後の手段として畳の上に引っくり返って、足をばたばたさせながら、

「海苔と卵じゃないといやだあ」

と泣きわめいても、またまた私は無視されたのである。

「これしかないの。嫌だったらしようがないわね」

そういって母親はさっさと私の目の前にあった食べ物を片付けてしまった。一応私も抵抗したプライドがあるので、そっぽを向いていたが、それから三食連続でそういう調子で、一日ハンストしたものの、結局は大嫌いな食べ物を口に入れることになってしまったのである。

それ以来、私はまったく好き嫌いがなくなった。母親の強硬手段も今になっては感謝している。きっといい歳をとしてもひどい偏食が直らない人は、よほど甘い両親に育てられたのだろう。他人が偏食をしても、別に私に迷惑が及ぶわけではないのだけれど、食

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べ物の取材を細かく分析し、あれも嫌だ、これも嫌だといわれると、一緒に食事をしているこちらとしては、とても不愉快になってしまうのである。

老成した子供(11)

送られてきた週刊誌をパラパラめくっていたら、偏差値の高いいわゆる有名私立中学校に合格した男の子たちの写真が載れを見て私は少し驚いた。みんな合格が決まってにこにこしているのだが、それを見て私は少し驚いた。中学に入学しようというのだから十

一、二歳なのに、そのほとんどの子がよくいえば老成し、はっきりいえばふけていたからである。彼が背広を着てネクタイを締めれは、背丈はともかく顔だけは立派なサラリーマンとして通用し、四十歳、五十歳の姿も容易に想像できるくらいなのだ。

うちの近所にある進学塾に出入りしている男の子たちを見ても、やはり眼鏡をかけた老成したタイプが多い。あるとき彼らの会話が聞こえてきたのだが、その深田祐介と大橋居泉のミニチュア版みたいなふたりは、まだ声は変わりもしていないというのに、将来の計画について話していた。

「きみは長男だから、家と土地はもらえるんでしょう」

「まあね」

「いいなあ。僕はおにいちゃんがいるから、家と土地はあっちにいっちゃって、自分で不動産を買わなきゃならないんだ」

「それじゃ、よほどいい会社に勤めないと替えないぞ」

「そうなんだ。やっぱり年収がよくないとね。それじゃなかったら株で儲けるとかさ」

などと延々と会話は続き、一生勤めて退職金はいくらだの、奥さんの親にも助けてもらわなければなどといっているのだ。人生設計などまるでなく、日々を行き当たりばっ1 3

たりで過ごし、これからもそうしょうと思っている私は、

「ひえーつ」

と、心の中でつぶやいてあとずさりしてしまった。これではたかが十

一、に歳で老成するわけである。小学生で年収とか不動産取得のために妻の実家の援助まで計算しているなんてちょっと怖い。彼らは人生設計の第一歩として有名私立中学校をめざす。親にしてみれば成績のいい自慢の息子なのだろうが、私からみれば「子供」とは呼べない、不可思議な別の生き物なのだった。

ダイエット(12)

女性誌を見ると相変わらずいろいろなダイエットの方法が載っている。高校正のときに理想体重を十五歳キロオーバーしていた私は、どうやったら痩せられるかを考えない日はなかった。

「そういう年頃なんだから、無理して痩せることなんかない。体を壊すからやめなさい」

まわりの大人たちは口を揃えていったが、とにかく頭の中には痩せることしかない私にはそんな忠告など何の役にも立たなかった。だいたい同年輩の男の子たちの九十九パーセントは痩せた女の子が好きなので、明るい男女交際をするためにの第一歩としてダイエットは必要不可欠だった。そして大学を卒業するまでダイエットということばは頭の中から離れなかったのである。

同じゼミの男の子たちは、

「僕たちはね、お金がなくてお腹いっぱい食べられないから、太れないの。いわば自然ダイエットだね。君たちも仲間に入らない?」

とダイエット、ダイエットと騒ぐ私たちをからかった。喫茶店にいっては、ケーキ

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やアイスクリームを食べ、そのうえ運動なんか全然しないのだから、晩御飯を減らしたって太るに決まっているのに、ダイエットということばを見ただけで痩せるような錯覚に陥っていたのだった。

街で女子高校生がどうやったら痩せられるかを話しているのを小耳にはさむことがある。たしかに太目の子もいるが、あのくらいの歳の人はどんな体型でもそれなりにかわいいし、みっともなくなんかない。若さが体型の欠点をすべて吹き飛ばしてくれるのだ。それがわかったのは私自身の若さが失われつつあることに気がついだからである。しかしかつての私みたいに、彼女たちはいくらまわりからそういわれても「フン」と思うに違いない。

あるとき知り合いの中年男性がいった。

「女の子はどうして、何もしなくてもかわいらしいときにダイエットなんかして、ちょっと気にしてほしいなあという年齢になると何もしなくなっちゃうんでしょうかね」

耳が痛いおことばであった。

ワープロ(13)

ワープロが打てるのはかっこいいなと思って、画面付のワープロを買った。ワープロは種類によって賢いのとそうでないのとがあるが、私のは残念ながら後者だった。

いつまでたっても自動変換で「私」を「渡し」、「千代田区」を「千代抱く」を表示する間抜けなワープロにぶつぶつ文句をいいながら、操作証明書を首っぴきで何とか使いこなせるようになった。悩みの種だった消すゴムのカスや万年筆のインクであちらこちらが汚れることもなくなって、最初のころはとても満足していたのである。

ところがワープロでずっと原稿を書いているといろいと問題が起きてきた。まず両手が塞がってしまうので、ふたつのことが同時にできない。電話がかかってくると作業は1 5

中断。締め切り間際には右手で書いて左手でパンをかじるという効率のいい食事をとっていたが、そういうこともできなくなった。そして一番ショックだったのは、たまには気分転換をしようと手で書いたら、キーを打つの習慣きってしまったせいか、日本語がちゃんと書けなくなっていたことだ。字はヘタクソになるし同音異義語は平気で使う。「ありがどうございました」を「ありがとごさまた」などと書いたりして、まるで日本語を覚えたての外国人が書く文章のようである。一時はやみつきになってワープロを叩きまくっていたが、最近では日本語の社会に復帰できるように、なるべく手で書くことにしている。

わーポロは長時間原稿を打ち続けられる利点がある。しかし十何時間もワーポロを向き合っていたら、頭の中にキーを打つ音だけが不気味に鳴り響いて、気分が悪くなってきた。だんだん自分が機械になっていくみたいだった。それが楽しめる人はいいけれど、私にはちょっとつらかった。机の上が雑然としているのや、鉛筆や消しゴムや万年筆の感触はやっぱりいい。かっこよくはないけれど、パンをかじりながらの手書きという汚れ仕事のほうが性格に合っているようである。

下戸(14)

私は下戸である。自分では飲めるようになりたいと思っているのだが、気持ちとは裏腹に体がうけつけてくれないのだ。二十歳になってすぐ、友達の家に泊まりにいったことがあった。総勢五人のうち、私以外はみんな酒飲みで、泊まりにいった先の両親が旅行中なのをいいことに、晩御飯が済むとすぐ酒宴になってしまった。私は酒を飲んだのはこのときが初めてだったが、他の四人はずっと前から飲んでいたようだった。

ワイン、ビール、ウイスキー、ブランデイ、日本酒の瓶がずらっと並び、呆気にとられているうちに、みんなはだんだん出来上がっていった。突然、わーっと泣き伏す者、あれこれと世話を役者、延々と愚痴を言っている者、ぷりぷり怒っている者。私は突然の

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友達の変貌ぶりに度胆を抜かれた。

「あんたひとりにだけ飲まないのは許せない」

といわれて、私はワインをグラスに一杯飲まされたのだが、体がまっかっかになって、全身がものすごく痒くなったことは覚えている。そのあとの記憶はなく、気がついたら布団の上に寝ていた。友達の話によると、私は、

「お風呂にはいる」

といいだして、風呂場に消えた。十分ほどして友達が様子を見に行ったら、私はまっかっかの顔をして、

「だいじょぶ、だいじょぶ」

とにこにこ笑いながら場ぶねにつかっていた。そしてあがってくると、

「それでおやすみなさい」

とみんなに挨拶をして、自分で布団を敷いて寝てしまったというのだった。このとき以来、私は彼女たちから無理に酒をすすめられなくなった。

たまに彼女たちとあっても、みんなはおいしそうに飲んでいるのに、私だけウーロン茶というは何となく情けない。風呂上がりにビールをぐいっと飲める人はとてもうらやましい。テレビでもぐいっとビールを飲むCMが流れるけれど、私はそれを横目で見てよだれを流しながら、じっと悲しく耐えている。

写真(15)

写真を撮るのも撮られるのも大好きで、山のようにアルバムを持っている人がいるが、私はその反対である。子供の頃は親が撮ってくれた写真があるものの、高校生のときは三年間のクラス写真と、遊びにいったときのものが、

一、二枚あるのみ。大学時代は一枚。それからずーっとなくて、こういう仕事をし始めてやっと枚数が増えてきたというく1 7

らいである。

三歳のときだったと思うが、親に連れられて町内の写真館で、記念写真を撮ってもらったことがある。ところが大好きなカメラがでんと目の前にあって、いくらきれいな着物を着せられていたからといって、そんなににこにこ笑えるものではない。親は私が気に入っている、熊ちゃんやあひるさんのぬいぐるみを持って、一生懸命笑わせようとするのだが、やはり顔がこわばってしまう。そこに口をはさんできたのが写真館のおじさんである。優しく、

「ほーら、お嬢ちゃん、ここから鳩がでますよ」

とレンズを指すしながらいった。いくら緊張していてもそこは子供で、本当に手品のように鳩がでてくるのだと信じてしまう、うれしいなあと、じーっとレンズを見つめているうちにフラッシュがたかれてしまったのである。ほっとした大人たちと反対に、私はムッとしたのはいうまでもない。

「おじちゃんが嘘をついたあ。鳩なんかででこないよ」

と、すさまじい声で泣き出して彼をなじった。それ以来、写真館のおじさんは、私の姿を見ると、そそくさと走り去っていったそうである。

どうも私の写真嫌いは今に始まったことじゃないらしい。カメラマンには、

「妙に写真すきで、ポーズをとる人のほうが撮りにくい」

といわれたこともあるが、やっぱり堂々と自信を持って写真に撮られるほうがいいと思うのだが。

日めくり(16)

今年はすでに三分の一が終わってしました。

「これから梅雨にはいって鬱陶しいなあと思っているうちに暑くなって、やっと涼

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しいの風が吹いてきたと喜んでいるとすぐ寒くなって、そして大晦日になってしまうのよね」

遊びにきた友達にそうつぶやいたら、彼女も、

「本当に一年ってすぐね」

といいだし、あれこれ話しているうちに翌日にも大晦日がやってくるような気がして、二人して暗くなってしまった。

まだ私が十代のころ、母親は、

「歳をとると一年があっという間に過ぎていくよ」

とよくいったものだった。しかし私はとりあえず相槌をうちながらも、内心、

「そんなことがあるわけない」

と小ばかにしていたのだ。ところがいざ自分が二十代、三十代になってみたら、その一年がたつのが早いこと早いこと。

本当に、

「あっ」

という間である。子供の時は一日がものすごく長くて、次は何をしようかと迷っていたくらいなのに、大人になったら何もしないうちに一日が終わってしまうことが多くなった。

だから紙一枚に一年分が印刷してあるカレンダーを眺めていると、

「一年って、たったこれだけ?」

と悲しくなってくる。 かつては自分の部屋に一枚だけのカレンダーを貼っていたこともあったが、ここ

二、三年のお気に入りは日めくりである。毎日ビリビリト紙を剥がしていっても、五月だとまだたくさん紙が残っている。少なくとも十二月になるまでは、

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「残りがこれしかない」

という恐怖からは解放される。別に一年分が一枚になっていようが、三百六十五枚になっていようが一年は一年である。しかし、まだ大晦日まだたっぷりあると錯覚させてくれるのが、日めくりのうれしいところだ。

「明日はできることを今日やるな」という私は、ますます日めくりを愛用することになるに違いない。

最高気温(17)

世の中、いろいろな情報が多いけれど、その中で一番必要がないのが、梅雨から残暑の間にかけての「最高気温」ではないかと思う。気象庁が一生懸命に観測して、毎日、教えてくれるけれど、そのわりにはこれほど

みんな喜ばれないものはないからだ。

うんざりするほど暑い日、外を歩いていて、

「ああ、暑い」

といっている人を見ると、私はムカッとする。

「ただでさえ暑いんだから、それを再確認するようなことをいうな」

と近づいていって説教したくなる。暑いても、

「本当は、そんなに暑くないんだ」

と知らんぶりしていれば、何となく暑くないような気分になってくる。それがクーラーを使わずに生活している私の知恵なのである。

午後のいちばん暑い時間帯に、でかけなければならないとき、着替えながらニュースを見ていると、ごていねいに、

「これから都心では三十四度くらいまであがいそうです」

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などアナウンサーが教えてくれる。しかしそういわれてもこちらはどうしょうもない。急にがっくりして、でかける気が失せてしまうだけだ。たとえば冬の場合は、寒くなるとわかければ、厚着をしたりできる。ところが夏の場合は、薄着にも限界があり、最高気温を教えてもらっても、精神的にダメージを受けるだけ。知った分だけ、よけいに汗がにじみでてくるといった具合なのである。

いったい最高気温を知って、気持ちがよくなる人っているのだろうか。たしかに近所の人と道で出くわして、何の会話のネタ浮かばない場合、付き合いをスムーズにするために、一役かうという利点はある。しかしその程度のものである。いちいち折れ線グラフで最高気温の変化など報告してくれなくてもいい。

「夏は暑い!」

明快にただそれだけで、いいのである。

いい社会(18)

私の友達の子供は、そろそろ小学校の高学年になっている。電話で友達と話していると、子供の進学や将来のことに終始するのだが、母親としての彼女たちの心境の変化に驚くことがある。幼稚園に通よようになったとき、彼女たちは、

「うちの子は物を作るのが好きだし、それに上手なの」とか、

「音楽がかかると、踊りだしたりするから音感がいいみたい」

などと親馬鹿丸出しで私に報告してきた。自分の子供がほかの子供よりも優れているものを発見したのが、うれしくてたまらない様子なのだ。

「それは将来、楽しみね」

というと、口をそろえて彼女たちは、こういう個性を伸ばしたいといったものだった。

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ところがここのところ、彼女たちの意見はがらっと変わってしまった。子供を「いい会社」にいれることしか、頭にないみたいなのだ。

「個性を伸ばしたいって、いってたしゃないの」

といっても、

「そんなこといってる場合じゃなくなってきたのよ。成績だって中の下だし?」

と、とても暗い。彼女たちの意見は、うちの子は出来が悪い。だけど安定した人生を送らせたい、となると、今から親子が力をあわせ、どんな無理をしてでも偏差値の高い学校に入学し、

俗にいう一流企業と呼ばれる「いい会社」に就職するしかない。そのような会社にはいっておけば、我が子が仕事ができなくても、他の優秀な人々が仕事をちゃんとやってくれる。組織の輪のなかにはいっている限り、安定した収入は保証されているというのだ。

子供が小さかったときは、それぞれの個性を発見して喜んでいたというのに、母親というものはこのように考え方がコロッと変わるのだろうか。そのたんびにありこれいわれる子供は、さぞや迷惑に違いない。母親が目を三角にしてヒステリックになっていても、子供は母親の思うとおりにならないのが世の常である。私は子供たちの反逆に、ささやかな期待を抱いている。

窓ガラス(19)

だんだん春になって陽射しが明るくなってくると、私は毎年窓ガラスを見てため息をつく。いままで日の短さと光の柔らかさにごまかされていた、窓ガラスの汚れがくっきりと浮かび上がってくるからである。大掃除でちゃんと磨いたはずなのに、明るい陽射しのもとで見ると、雑巾でふいたあとがしっかり残っている。もともと掃除が嫌いで、嵐と共に横なぐりの雨が降ってくると、

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「これで窓ガラスを磨かなくてもいいや」

と安心してしまうくらいだから、きれいにしたつもりでも、他人から見たら相当ひどいものなのだろう。

私が小学校の低学年のころのことだった。母親と一緒に買い物にいく途中、彼女は顔見知りのおばさんの家の前で立ち止まった。そのおばさんはいつもつんとあごを上げて歩いているような人で、私は好きではなかった。

「ほら、ごらん」

母親はおばさんの家の窓ガラスを見ながらいった。

「ここの奥さんは好きじゃないけど、いつもあんなに窓ガラスをピカピカにしていることだけは感心しているんだよ」

私は、「ふーん」といいながら話を聞いていたのだが、そういわれてよく見ると、うちではカラスを磨いても桟の角の部分にちょっぴり汚れがたまっていたが、そこの家の窓枠にはきっちり四角形のガラスがはまっているように見えたのだ。

そして自分の部屋を借りてからは、いかに窓ガラスをいつもピカピカにしておくのが大変かわかった。あのおばさんは、丸一日にかけてガラスを磨いていたのではないかといいたくなってくる。へたをすると磨く前よりも汚れなったりするのだ。曇りの日に新聞紙で磨くといいとか、ゴムベラみたいなものでこすりとるのがいいとかいわれていろいろやってみたが、どれもうまくいかない。

今ではほとんどサジをなげてしまう、透明度がいまひとつの窓ガラスを見ながら、春の大嵐を期待している状態なのである。

リモコン(20)

ずいぶん前のことになるけれど、リモコンつきのテレビが発売されたときに、私は、

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「日本の狭い家で、どうしてこんなもの必要なのか」

と広告を見ながら文句をいったことがある。テレビの置いてある部屋が二十畳以上あるとか、体を動かすのが大変な人ならともかく、ほとんどの人はチャンネルを変えるのにも

五、六歩歩けば用が足りる家に住んでいるはずだからである。

「こんなものがあるから人々は不精になり、だんだん足腰が弱ってくるのだ」

と、家族を相手にあれこれ演説をぶっていたのだ。

ところがそれから何年もたった今、ぶつぶつとリモコンをののしったのにもかかわらず、私のまわりにはテレビ、ビデオ、レーザー ?ディスクプレーヤー、CDプレーヤーなどのリモコンがある。機械が買うとリモコンがついてくるので、それを無視できるほど私の意志は固くなかったのだ。ここにも自分のいったことはコロッと忘れ、楽なほうへ、楽なほうへと流れてしまう私のいいかげんな性格があらわれているわけである。

このように喜んでリモコンを使っていたものの、数が増えてくると、だんだんどれがどの機械のリモコンかとっさにはわからなくなってきた。レーザー ? ディスクを作動させようとしたが、いくらやってもスイッチがいらない。変だなあと思いながら、電池を点検したりボタンをめちゃくちゃに押しまくっているうちに、手にしていたのがテレビ用のリモコンだとやっと気がついたりする。これでも相当恥ずかしいことなのに、このあいだは電卓を手にして必死になってテレビをつけようとしていた。まわりがリモコンだらけなのに、いざ必要になったときに見つからないのが、リモコンでもある。そうなると床の上の新聞や雑誌をひっくりかえして、捜さなければならない。まるでリモコンに私はリモートコントロールされているみたいだ。

健忘症(21)

母親が中年といわれる年代にさしかかって、物忘れがひどくなったとき、

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「何と情けない」

と、小馬鹿にした覚えがある。あまりに娘に馬鹿にされるので、母親は怒ってしまい、親子喧嘩が絶えなかった。しかし、最近では自分の物忘れのひどさに我ながらあきれるほどになったしまった。

かつて私は何よりも記憶力のよさが自慢だった。一度会った人の名前はもちろんのこと、電話番号など名刺に書かれていることはすべて暗記していて、

「すごいね」

などといわれると、

「ふっふっふ」

と得意になっていた。まるで歩く電子手帳のような頭脳だったのである。ところがこのごろはあの電子頭脳はどこへいったと、いいたくなるような醜態ばかりさらしているのだ。

盛り場でばったりとある男性二会った。彼とたしかに会ったことがある。お昼ご飯を一緒に食べて、そのうえ仕事の打ち合わせまでしたのだ。出版社の人には間違えないのだが、どこの誰さんかという部分が、私の記憶からスポット抜け落ちていた。

「ひさしぶりですねぇ。五年くらい前にお会いしたきりですね」

と笑いながらも、だんだん私の顔はひきつっていった。頭の中には「この人は誰だっけ」という字が一杯に充満しているのだが、記憶の糸はぶっつんと切れたままである。私はこのことを相手にさとられまいと、和やかに再会の挨拶をかわしながなあせりまくった。このとき初めて私は脳みそに大穴があいたような気がしたのである。

それから脳味噌は大穴だらけで、話している途中で相手の名前が、山田さんか山下さんかふっとわからなくなることさえある。相手は自分の名前が忘れ去られているのも知2 5

らずににこにこしている。人生八十年というのだ、あとの五十年をこのまま大穴だらけで過ごさなければならないのかと思うと、なんだかがっくりする?

UFO (22)

このところUFOがまたブームになっているみたいだが、私はまだそれらしき物体が見たことがない。ところが私の友人はどういうわけだか、ほとんどの人はそれらしきものを見ているのだ。

なかでも一番強烈なのは、高校時代の友人の目撃談である。彼女が小学生のときのことなのだが、照り返しが強い夏の昼間、家の近所の広い通りの歩道を歩いていた。すると今まで車が走っていたのに、突然、一台も通らなくなった。歩道を歩いている人もいない。

「あれ、おかしいな」

と思いながら、ふと歩道に面した平屋の家を見たら、その家の軒のところに、妙な物体が浮いている。銀色の流線型で、周囲からは、かげろうみないなものがゆらゆらと出ている。

「これは何だ」

と呆然としているうちに、ふっとて銀色の物体は消えてしまった。そして彼女が我に返ると、道路にはまたたくせんの車が走り出していたというのである。

その話を聞いたとき、私はたまげるより先に、物体が民家の軒下にぶかぶか浮いている姿を想像して笑ってしまったのだが、彼女は、

「あれはUFOだわ」

と信じきっている。

「そこの家の子供が、ばかでかい銀色の風船でもぶらさげておいたんじゃないの」

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と茶化すと、むきになって、

「いーや、違う、あれ絶対に金属だった」

と反論してくる。そして単なる偶然か軒下の物体の仕業かわからないけれど、物体を目撃してから、彼女の身長は一年間に十センチ伸び、そしてぴたっと止まってしまった。そのような不思議なことが彼女の身に起こったのは事実なのである。

私もいつかは現物を見たいものだと思っているのだが、こればかりはどうしようもない。目撃者同士で話が盛り上がっているその隣で、

「不思議ねぇ」

と首をかしげるだけの、空しい日々を送っている。

牛乳とネギ(23)

私の家の近くにあるスーパー?マーケットは、あまりに店員さんの応対がていねいで、こちらが恐縮してしまうことがよくある。たとえば、その店で一リットル入りの牛乳一パックを買う。するとレジで袋詰めしてくれる店員さんが、てきぱきと他人の品物も入れながら、「牛乳を横にさせていただいてかまいませんか」

と聞くのだ。私はいつも、

「はい」

と返事をするのだが、たかが物を横するくらいで、そのくらいていねいなのである。

ある日、私は鍋物でもしようと長ネギを買った。そして豆腐や椎茸などと一緒にレジに持っていくと、袋詰め担当の店員さんが、私に向かって何事か尋ねた。最初は何をいわれたのかわからなかった。牛乳を買ったいたら横にしてもいいか、アイスクリームだったらドライアイスの必要がありやなしやと聞かれるのだが、その日は両方とも買っていなかったからだ。

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「はっ?」

と聞き返すと、彼女は私の目をじっと見て、静かな声で、

「おネギをお曲げしてよろしいですか」

といったのである。私はビックリ仰天した。とりあえず「はい、いいですよ」

と返事をしたものの、こんなことまでていねいに聞かれるなんて想像もしなかった。きっと過去に、袋に入れるときに黙って牛乳パックを横にしたりネギを曲げたら、怒った客がいたのだろう。それから気をつけて観察していると、五人に一人くらいは、

「横にしないで!」とか、

「曲げないで!」

ときっぱりいうお客さんがいた。飾りのいっぱいついた服を着た、傲慢そうなおばさんである。牛乳パックだってそう簡単に壊れるものじゃないし、長ネギだってあとで切るんだから、別にいいじゃないかと私は思う。それにしても、いちいちお客さんに、

「おネギをお曲げしてよろしいですか」

と、ていねいに聞かなきゃならないなんて何て大変なことだと、店員さんに同情してしまったのだった。

間違い電話(24)

今まで私の家には間違い電話はほとんどかかってこなかった。都内に住むんでいるときには悩まされたけれど、都下に引っ越してから八年、そういう電話は、一年に

二、三本あるかないかという程度だった。ところが最近になって、急に間違い電話がふえてきたのだ。

間違い電話をかけてきた人に、

「何番におかけですか」

と聞くと、かつては明らかにダイヤルの穴に指を突っ込むときに、ひとつ入れ間違

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いたと思われるものばかりだった。ところがここのところかかってくる間違い電話の主に聞くと、うちの電話番号と似ても似つかない番号をいう。

「どうして間違えるのだろう」

と不思議でならなかったが、ダイヤル式の場合は離れた位置にある数字を間違えることはまずない。しかし縦横にボタンが並んでいるプッシュホンの場合はそれが十分ありうるわけだ。

うちの場合は、いつも間違い電話をかけてくる人がふたりいる。両方とも若い女の子である。友だちと深夜の長電話をするのだろうか、真夜中にかかってくるのが困る。一度ならともかく、何度も間違えるなんてよほど「確認」ということばを知らない人たちなのだろう。なかには子供に電話をかけさせて、間違えても知らんぶりの大人がいる。電話にでると、

「おばあちゃん?」

というかわいい声がする。

「何番におかけですか?」

といって耳をすませても、子供の鼻息しか聞こえない。そしてしばらくすると、

「何やってるの。間違いたのだったらさっさと切っちゃいなさい」

という母親らしい人の声が聞こえ、ものすごい音をたてて電話が切れるのだ。「すみません」のひとこともない。姿が見えないから平気なのだろうか。間違われた相手がどういう気分になるかわからないんだろうか。電話線をたぐっていって、嫌味のひとつもいいたくなる。心の貧しい人なんだろうなあと哀れんでやろうと思うのだが、やっぱり腹の虫は治まることはない。

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日本食(25)

外国旅行行くとなると、事前に山のような日本食を買い込む人がいる。スーツケースの半分が、真空パックのご飯、味噌汁、焼き魚の缶詰め、梅干、佃煮の類いで占められていて、

「こういうの知ってますか」

と、水をかけるとすぐ大根おろしができる、粉状の乾燥大根を得意げに見せてくれる人もいたりする。私も病気になったときのために味噌汁を二食分くらいは持っていくけれど、わざわざ重たい思いをしてまで、日本のちゃぶ台にのっているようなものを持っていく人の気がしれないのである。

特に日本食に執着するのは男の子が多いみたいだ。二年ほど前に海外旅行に行ったときに、到着早々レストランで貝を油で炒めたものが大きな皿で出された。「あら、おいしそうだわ」と思ったとたん、一緒のツアーの若い男性がブルゾンのボケッとから携帯用の醤油を出し、さあっとその上にかけてしまった。もしこれがうちの弟だったら、

「何するのよ!」

といって、げんこつをくらわせているところだ。私は地元で作られる料理がどういうものか食べてみたかったのに、それをあっという間に日本風味付けに変えてしまったのである。そのうえ食事のだびに、

「やっぱり醤油がなくちゃ」

といいながら、参加者全員に山ほど持ってきたその携帯用の醤油を配るのには閉口した。あるときは、

「ご飯、ご飯」

と、うわごとのようにいいながら、いつも目をつり上げて日本料理店や中国料理店

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を捜し回っているおじさんがいた。何でも食べる私を見て、彼は、

「よく食べられますね」

とため息まじりにいったのだが、彼らは何が楽しくて旅行しているんだろうか。たとえ地元の食べ物が口に合わなかったとしても、それも楽しみのひとつなのに、いちいち出された料理を日本食と比較して、まずいと文句をいい続ける。そんなに日本食がすきなら外国旅行なんかすると、そういう人たちと遭遇するたびに腹を立ててしまうのだ。

引っ越し(26)

私はひとり暮らしを始めて十年以上になるが、その間に二年一度の割で引っ越しをしている。とりたてて不満はないのだが、新しい部屋に移って

二、三か月たつと、引っ越しをしたくなる。今まで引っ越しに使った費用と労力を考えると、我ながら単なるムダとしか思えないのだが、やっぱり引っ越しはすきなのだ。荷物を梱包していると胸がわくわくする。こういうことにも「すきこそ物の上手なれ」があてはまるのかどうかわからないが、引っ越しを手伝いにきた友人からは、

「梱包も手際の良さも、もう完璧、引っ越しのプロ。物書きで食べえなくなっても引っ越しのアルバイトで食えるぞ」

と賞賛されているのである。

私は掃除は苦手だしズボラなので、ふだんはホコリのなかで生活しているようなものだが、やはり次に入る人のことを考える、引っ越すときには気合を入れて、掃除をする。自分の手に負えなければ友人にたのんででもする。ふだん怠けているので掃除もなかなか大変だが、次の入居者のためにはそうするのが当たり前だと思うからだ。だから部屋を明け渡すときは出て行くのが惜しいほど、どこもかしこもぴかぴかになっている。子供の頃引っ越しが多かったので、いつも親にしつこくいわれていた、「立つ鳥跡を濁さず」が頭3 1

の隅にひっかかっているのかもしれない。

ところが新しい部屋で心機一転するつもりで、いざ荷物を置いて冷静に部屋の中を見渡すと、前に住んでいた人の雑の掃除ぶりにびっくりすることが多い。これでは「立つ鳥跡を濁し放題」である。風呂場に髪の毛がへばりついていたり、窓のアルミサッシの桟にマニキュアがべったりくっついていたこともある。このときはそのまっかっかの汚れを落とすために、マニキュアを塗らない私は、わざわざ除光液を買ってきれいにしなければならなかった。何たる事かと嘆きながら、はいつくばって掃除をしていると、つい、

「いまどきの若い人は?」

という三十女の禁句が口からぼろっとこぼれてしまうのである。

ベテラン(27)

デパートに買い物にいって迷ったとき、私はなるべく年配の店員さんに相談することにしている。若い人よりも経験が豊富だし、いろいろなアドバイスをしてくれる安心感があったからである。

先日、友だちがガラス?ケースがほしいというので、デパートにいったらば、いろいろなサイズがある。それぞれの寸法の表示がなかったので私はそばにいた年配の店員さんに声をかけ、中に入れるものの大きさをいうと、彼女は、

「それならば、この大きさですね」

と胸を張って、あるケースを指さした。見たところ彼女のいうとおり、それは適当な大きさのように見えたが、念のため、

「内法を測ってくれませんか」

とたのんだ。すると彼女は、

「ものさしを持ってきます」

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といい残していなくなったのだが、しばらくして手ぶらで戻ってきて、

「それで大丈夫ですよ」

という、人にあげるものだし、万が

一、いらなっかたら交換するのが面倒なので、何度も念を押したのだが、

「大丈夫です!」

と堂々と言い放つのである。

そこまでいわれたら信用するしかないので、私は発送の手続きをした。しかしそれでも何となく不安だったので、私はもう一度、発送担当の別の店員さんに、サイズを確認した。すると彼女は、

「寸法が足りないので、この上のサイズじゃないと入りませんよ」

というではないか。私は、

「しつこく聞いてよかった??」

とほっとする反面、さっきの店員さんはいったい何をやっているんだろうと、だんだん腹が立ってきたのである。

年配に店員さんを、こちらはベテランだと思って頼りにする。不安なときは誰かに聞くなどしてくれればよいのだが、自信を持って間違ったことをいわれると困ってしまう。単に歳をとっただけの人は、さっさと接客担当からはずしてほしい。

肩書(28)

私が六年前に会社勤めをやめたときに、いちばん最初に感じたのは、これで肩書とは関係ないところで、生きていけるなということだった。私の場合、幸いにも、社長、部長、という肩書システムのなかで苦労したことはなかったが、まわりの人々を眺めていると、多かれ少なかれ、そうしても勤め人はそのしがらみから抜けきれないような気がした3 3

からだ。

ところがいざ会社をやめてみたら、この肩書という代物が前にもまして、へばりつくるのである。単発の仕事で原稿を渡す、必ずといっていいほと、

「肩書はどうしましょうか」

と編集者に聞かれる、いちいち考えるのは面倒くさいので、

「何でもいいです」

というと、むこうは、

「うーん」

と頭を抱えてしまうのだ。

一冊目の本を出したときに、雑誌で私のことを「エッセイスト」と紹介した文章を見て、

「私はエッセイストなのか」

と思う、肩書を聞かれるとそのように答えているのだが、実際、エッセイストというのはどういうものなのか、よくわかっていないのだ。 「物書き」がいちばん適切に私のやっている仕事を示っていると思うのだが、これは肩書としては、世の中に通用しないことばみたいなのである。そのうえ、物書きのなかに微妙なランク付けがあるらしい。小説集を出してときに、

「これで、群さんもやっと作家っていえますね」

といわれたので、

「どういうことですか」

と聞きかえしたら、エッセイストよりも、作家のほうが格が上だとういうのだ。

どうしてこの社会は、肩書がないと、許してくれないのだろうか。社会が肩書をお

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求め、そこにはランクが付けられている。個人の肩書によって、微妙な応対を変える人もいるだろう。逆に、そういう人々がたくさんいるから、肩書が必要になってくるのかもしてない。面倒な世の中である。

腹の虫(29)

私は知り合いと、昼間、お芝居を見にいったときのことである。最初はおなかはすいていなかったのに、時がたつにつれ

て、腹の虫がもぞもぞと動きだしてしまい、体内から「クークー」と小さな音を発し始めたのだ。この音が大きくなっていくの

は時間の問題であった。私は目の前のお芝居の展開よりも、腹の虫のほうが気になり、

(こんなことになるんだったら、やっぱりお昼はサンドウイッチじゃなくて、カツ丼にしておけばよかった???)

などとつまらない後悔までしてしまった。

ほんの小さな音だったのが、だんだん大きな音となって体内に響いてくる。

(どうしよう、どうしょう)

周囲に人はまだ私の腹の虫には気がついていないようであった。私はどうしたら音をごまかせるか、そればかりを考えて

いた。必要もないのにディッシュペーパーが入っているビニール袋をくしゃくしゃと音がするように握りしめたり、コホコホと

小さく咳払いをしたりした。腹の中にはいかにも大きな音をたてそうな虫が動く気配があった。

(ああ、もうだめだ???)

と思ったとたん、劇場中に、

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「ジャーン」

と大きな効果音が鳴り響いた。腹の虫が「グー」と大きな音をたてたものの、グッど?タイミングの効果音のおかげで、私 は命拾いしたのだ。

しかし運がよかったのはそのときだけだった。ますます元気になっていく腹の虫は、よりによって、芝居の山場で、観客

が固唾ののんで舞台を見詰めているそのとき、

「ぐおおおおお」

とまるで大地を揺るがすかのような大音響で、吠えてしまったのである。

前に座っていたおじさんは静かに私のほうを振り返り、音源を確認するとまた前を向いた。私は体中から汗を噴き出しな

がら身を縮めていた。そしてつらいながらも、好きな男性と一緒じゃなくて本当によかったと、安堵のため息をついたのだった。

スープ(30)

スープをぞろぞろぞろと音を立てて啜るのは不作法とされているようですが、あれはなるべく音をさせないで啜るよりも、なるべく大きな音をさせて啜った方が実はおいしい。うどんやおそばも、音をさせないよりも、させた方がずっとおいしいものです。けれども改まった席で、みんな方が音をさせないでスープを啜っているのに、一人だけぞーろぞろぞろとやっている人がよくいますが、あれはいやだ。あんな場合、少しぐらいまずくても、みんなと歩調を合わせていただきたいと思います。むろん音をさせたって、させなくったって、天下国家には何のかかわりもないことには違いないが。

一体に人体が発する音はいやなものです。しかし発する当人にとっては、発すると

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いうことは実に気持ちいいものです。そこで誰しも発すべきか、発せざるべきかという二者択一の前に立たされる。これは、まわりに人がいるかいないかできまることでしょう。しかし、まわりに人がいたら、なぜ発してはならないのか。その音が人に不快感を起きさせるから。では人が肉体のある部分で発する音は、ほかの人になぜ不快感を起きさせるのか。さあ、これがむずかしい問題です。スープをぞろぞろぞろと啜る音が、本人にはいさ知らず、他人には不愉快を覚えさせる原因は、音そのものいあるのか、はたまたそれによって表現されているところの傍若無人の態度にあるのか。ほかの人が音をさせてスープを啜りたいのを我慢しているのに、敢えて自分だけ音をさせてうまがっているのが、ほかの人にとって不愉快なのであろうか。 ではみんな音をさせて、満堂これスープを啜るぞろぞろの音ということにしたらいいではないか。みんながぞろぞろぞろなら、相子ではないか。恐らくむかしはその相子だったのだろうし、現在だって昼食時のそばやへ行けばこの相子でやっている。またそばを、音をさせずにもぐもぐやっているのは、継子がそばを食べているみたいで、どうもさっぱりとしないものです。

スープの音はまだしも、歯につまったものをチュー、チューという音をさせて吸い出そうとするのも耳ざわりなものですが、本人はあれをやらないと、気分がわるいので、ついやる。ようしを使えばいいが、ようしがない時はとても困る。しかもそうやって吸い出したものを、奥歯ではだめなものだから、前歯で御丁寧に噛み砕いて、呑み込む人をよく見かけるが、あれもあんまり気持のいい景色ではない。

そういうことはみな、どうでもいいといってしまえばそれまでだし、そんなことを一向に気にかけない人もいるけれども、気にかけ出すと、さあもうたまらなくなる。しかも自分がやっている分には、大変気持がよくて、一寸こたえられない。それを我慢して、そんな音は発しないようにするというのも、これはこれでやはり社会に生きていく上の礼3 7

儀でしょう。だけれども、考えてみれば変なもので、音そのものによしあしがあるというのはおかしい。

家賃(31)

ずいぶん前のことになるが、大手の建設会社から、私のところへ大きな郵便物が届いた。何の面識もないし、いったいどうしたんだろうと思いながら封を開けたら、中から出てきたのは新しくできたオフィス?ビルのパンフレットであった。都心の一等地にあってホテルのフロントのように係員が常時待機している。オフィスも広くて大きなソファーもある。ファクシミリからワープルまであって、何から何まで、至れり尽くせりの大サービスなのである。

「すごいわねえ」

と思いつつ、私の目は無意識のうちに、家賃がいくらか捜していた。そんな私の目にとまったのは、「三十万円から五十万円」という一行である。

「やっぱり高いなあ」

とため息をついたものの、どうも変なのである。もう一度よくよく見たら、私が家賃だと思ったのは共益費で、家賃は何と百万から二百万なのであった。家賃よりも共益費の数字の文字が大きいのはずるい。先方は何かのリストをもとにして、手当たりしだいにパンフレットを送ったのだろうが、私にはとうてい払える代物ではないのであった。

何年もひとっところにいると、世間の家賃の相場からだんだん感覚がかけ離れていってしまう。不動産屋の店頭に貼りだしてある物件の値段を見たりすると、こんなに上がっているのかと、またため息である。外から見て感じのいいマンションだったので、管理人さんに空き室状況と値段を聞いたらば、2LDKで三十万円、2LDKだと四十五万円といわれてしまって、よろよろとよろめきながら、1LDKの我の家へ帰ってきたことも

38 ある。

このままでは、一度、賃貸住宅に住んだら、よほどのことがない限り、引っ越せなくなってしまうではないか。持ち家ははなからあきらめて、引っ越しが唯一の気分転換だった私にとっては、頭がくらくらするような現実であった。それにしても四十五万円のマンションには、いったいどんな悪いことをしている人が住んでいるのだろう。

地震(32)

東京について大地震がきても、おかしくない状況だそうだ。占い師が神様の声に従って、大地震がくる月日まではっきり予言しているが、それだけのことがわかるだったら、神様にお願いして、地震がくるのをとりやめてもらいたいものである。知り合いのなかには、

「その日は休暇をとって、地方に避難すす」という人まででてきて、今の東京で一番怖いのは、地震ではないかと思う。

ふだん地震があると、私はまず火を消し、窓や戸を開け放った後、揺れを感じないように、家のなかを走り回ることにしていた。これは少々疲れるが、地震の恐怖からのがれるには、結構有効な手であった。ところが大地震というのはこんなものではなく、ともかく歩くことさえできないらしい。となると、私は唯一使っているこの方法も、無効になってしまうのだ。

やはり非常持ち出し袋をつくり、準備万端整えておかなければならないと思い、必要なものをリストアップして、押入れの奥深くに突っ込んでいたディパックに詰め込んでみた。水、缶詰め、ラジオ、着替え、薬、印鑑、通帳、懐中電灯。最低限必要なものを入れても、頭のなかには次々なものが浮かんでくる。着替えも水も、もっとあったほうがいいんじゃないかと、きりがない。

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とりあえず、必要だと思う分を全部ディパックに入れた。そして試しに背負ってみようとしたのだが、これが重たいのなんの。ものすごい力で「うーん」とうならないと、持ち上がらない。はずみをつけて背負おうとしたら、そのまま前につんのめりそうになった。まるで私はスズメのお宿で大きなつづらを選んだ、欲ばり婆さんのようであった。

荷物を減らさなければ身軽に逃げられないが、どう考えても中に入れたものは、皆必要な気がする。自分のことは自分で守らなければならないと思ったらなおさらだ。こんな調子で何かがあったら無事に逃げ出せるのか、不安になっている。

方向オンチ(33)

方向オンチ直し方ってないものかといつも私は悩んでいる。 どこでそうなったか考えてみると、方角に弱いのは小さいころからだった。小学生のときに学校で、東西南北を教わったときに、

「北にむかって、お箸を持つ手のほうが東、お茶碗を持つ手のほうが西です。」といわれた。私はそのときは納得したのだが、家に帰ると頭が混乱した。私の父親は左利きだったので、並んでご飯を食べていると、違う方向にお箸を持っていることになる。私にとって東と、父親にとっての東が違うのである。

「いったいうちでは東西南北はどうなっているんだろう」と、首をかしげたまま、先生にも聞かずにほったらかしておいたので、そらが未だに尾をひいているのではないかと思っているのだ。

たとえば引っ越した直後、最寄りの駅からアパートまでまともに帰れたことがない。最低二度か三度は近所で遭難する。ぐるぐると付近を三十分程度歩いたげく、

「はて、アパートはこんなに遠かったかしら」とやっと迷っていることに気がつく始末なのである。

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友だちの間でも私の方向オンチは有名で、一緒に出かけるとなると、今度はなにをやらかすかと楽しみにしているようである。先日も博物館にいって食事をしたあと、つい一時間ほど前に入り口を通ったはずなのに、どういうわけか平気な顔をして厨房に入っていったしまった。そのときもコックさんと目が合って、初めて間違えたことに気づくのだ。私の背後では友人が、無関係な他人というようなそぶりをしつっも、顔を真っ赤にして笑いをこらえている。どこかに遊びにいくときも、ヘタな場所だと迷うので、待ち合わせはいつも駅のホームである。それも絶対迷わない、進行方向の一番前だ。そこにボーット立っていると、とってもむなしくなってくる。友だちは喜ぶけれど、方向オンチの苦しみは、方向オンチにしかわからないのである。

兄妹(34)

私には弟がひとりいるのだが、小さいときからお兄さんが欲しくてたまらなかった。おやつをもらうときも、弟を横目で見ながら、

「こいつさえいなければ、全部私のものになるのに」

とがっかりした。お兄さんだったら、

「ちょうだい」とねだったら、可愛い妹のために、気前よく自分の分をくれるのではないだろうか。喧嘩したときも弟は、すぐピーと泣いて母親に救いを求めたりして、どうも私は割に合わない立場にいるような気がしていたのである。

ところがお兄さんがいる人に聞くと、

「あんなもん、ちっともよくありませんよ」とボロクソにいう。話を聞くと彼女のところは、ふたりが大学生になっても、取っ組み合いの大喧嘩をしていた。それも血も見るほどの殴り合いなのである。最初は口喧嘩から始まるのだが、だんだんエスカレートしていって、我慢し切れなくなった彼女が、両手の指でお兄さんの顔面を力一杯ひっかく。4 1

伸ばしている爪のせいで、彼の顔面にはうっすらと幾筋も血が滲んだ。すると激怒したお兄さんが反撃に出て、これまた力一杯彼女の横面を張り倒し、そのあげく彼女の歯は折れ、口の中を切って双方流血の大騒ぎとなった。花瓶は割れるわ、椅子は宙を飛ぶわで、まさに何でもありという感じなのだ。騒ぎを聞きつけたお母さんは、自分のまわりを飛び交う物を器用によけながら、二人が取っ組み合っているそばで、

「たったふたりの兄妹なのに、お願いだから仲良くしておくれ」

とおいおい泣く始末。うちの場合は取っ組み合いの喧嘩などしたことがなく、してもつねったり頭をはたいたりくらいのものであった。彼女は。

「あれは兄妹喧嘩のうちでも、昭和史に残る名勝負でしたね」

と淡々と感慨深げにいっていたが、私はただひたすら驚き、兄がいなくてよかったと胸を撫で下ろしたのであった。

犬(35)

先日、友人の家に遊びにいったら、近所の家にもらわれていったはずの柴犬のハナちゃんが、母犬と一緒に庭を走り回っている。いったいどうしたのかと聞いたら、里親の飼い方があまりにもひどかったので、話し合いをして連れ戻してきたというのだ。最初のころはハナちゃんの里親も家族でかわいがっていたが、そのうちに水と餌用の器は犬小屋の前に置きっぱなしになった。空になっていたら奥さんが水とドッグ?フードを補充するだけの「犬権無視」のひどい状況だったのである。

それを発見したのは、町内の動向をすべてチェックしている隣りのお婆さんだった。ハナちゃんがいつも眉間に皺をよせてつまんなそうな顔をしているし、犬小屋のまわりで用を足している姿を見て、これはおかしいと偵察を始めた。その結果、ハナちゃんは散歩にすら連れていってもらっていないことがわかり、彼女はすぐさま、

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「あれではハナちゃんがかわいそうだ」

と友人のお母さんにいいつけた。あわてて様子を見に行くと、ハナちゃんはお母さんのほうを見てちぎれんばかりに尻尾を振って甘えて鳴くばかりである。ただ餌と水をやっていればいいというものではないと友人一家は怒り、

「持て余していらっしゃるようですから」と引き取りにいった。いけないことをしたらきつく叱るかわりに、ふだんは話しかけたり頭を撫でてやる。散歩などは当たり前。こういうことができない人は、犬のほうが迷惑するので飼うのはやめたほうがいい。やっと飼い犬らしい生活ができるようになってから、ハナちゃんの眉間の皺も消えたのである。

友人の話によると、里親だった一家が生け垣のむこうから、

「ハナちゃん」

と声をかけることがあるらしい。しかしハナちゃんはほったらかしにされた憎しみが未だ消えないのか、どんなに彼らが大きな声で名前を呼んでも、そっぽをむいて聞こえないふりをしているらしい。

筆字(36)

いろいろな式を招待されて、受付で芳名帳を見ると、私は、一瞬ギョッとしてしまう。最近ではサインペンが用意されているから、多少、気が楽になったが、筆しか置いてなかったころは、冷や汗ものだった。

私は筆で字を書くのが、すさまじく下手なのだ。おさなじみの結婚式の受付では、彼女のおかあさんが私の書いた字を見て、

「あらーっ」

と絶句したくらいである。受付の人がこちらの名前を確認するために、じっと手元を見ていると思うと、手はますますこわばってくる。そしてその結果は、ただでさえ下手4 3

なうえに緊張が加わり、ぶるぶると震えた情けない筆文字が、みっともなく並ぶことになる。まだ自分ひとりが書くのならいいが、芳名帳みたいに何人かの字が並ぶともう最悪。どうしてこんなに上手に書けるのかと、憎たらしくなってくる達筆の人々のなか、私の字だけまるで幼稚園児が書いたかのようだ。もしかしたら無邪気な分、幼稚園児のほうが味がある字が書けるかもしれないとため息が出てくる。このごろは受付で字の下手そうな人を狙って後ろに並び、自分の悪筆を目立たせないように努力しているのだが、たまに予想がはずれて自ら墓穴を掘ってしまうこともあるのだ。

しかしこれでも小学校の習字の成績は、最初は5だった。先生が、

「字がうまいとか、下手とか考えないで、子供は大きく字を書けばいいんだ」

といったので、私は手をふてまわして、紙からはみ出すような字を書いていた。ところがのちに先生が変わったとたん、ばかでかい野蛮な字といわれ、いっきに点数は2になってしまった。でも私はでかい字を書くのが好きだったので、先生に何度注意されても無視していた。

その報いか、今になってこのざまだ。会が終わって受付の前を通るとき、芳名帳に残した自分の墨団子のような字を思いだすと、人の目を盗んで芳名帳をかっぱらって帰りたくなるのだ。

体操(37)

小学生のとき、体育の時間に平均台から落下して以来、私は器械体操が苦手になった。体操部にいた同級生の女の子は、平均台の上で足を振り上げたり、男の子は鉄棒で連続逆上がりをしたりと、いろいろな技を披露した。苦労した末にやっと跳び箱が跳べたと思ったとたん、箱の角でお尻をしこたま打ったりする私からみれば、それはとてもものすごいことだった。

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小学生程度の実技でもたまげてしまうので、たまたまテレビで大学生や社会人の実技や、世界選手権などを見る機会があると、口をあんぐりと開けたままで閉じるヒマがない。だいたい鉄棒であんなにぐるぐるまわっていながら、鉄棒から手を離しても着地するまで空中でぐるぐるまわっているなんて信じられない。猫ならまだわかるが、彼らもあれだけ回転しながら、すっくとマットの上に立ち上がる。にっこり笑って両手を上げる余裕さえあるのだ。

女性のほうも幅があれだけしかない平均台の上でV字バランスはするわ、とんぼがえりはするわ、ふつうの人が平たい地面でもとうていできないようなことをやってのける。一本の鉄棒ですら四苦八苦するのに、彼女たちは段違いに二本ある鉄棒の間を素早く空間移動したりするのである。彼らの三半規管はいったいどうなっているのか、覗いてみたいくらいだ。

彼らのやっていることは、基本的にはどれもこれも神業である。それなのに「何点」と点をつけられるのだから、恐ろしい。ふつうの人間だったら、あれだけ空中でくるくる回ったら、まともに着地などできるはずないのに、空中の姿勢が乱れた、着地の時にちょっと足の位置がずれたといっては減点される。お気の毒としかいいようがない。十点満点が出ると、

「これはお見事」

と拍手するけれど、体操競技のためにつくられた人造人間みたいな気がしないでもない。これからどんどん技がエスカレートしていったらどんなふうになるのだろうか。私はただただ驚嘆しながら、テレビを見ている。

貴重な旅(38)

4 5

久しぶりに知人と会うと、必ず、「どこか旅行に行きましたか」と聞かれる。出不精な私の返事はいつも「いいえ」なのだが、相手はこまめに海外へ足を伸ばしている。ただの買い物旅行ではない、彼らの話を聞くのは楽しいが、中には冷や汗ものの話をしてくれる人がいる。

ある女性は、人があまり行かないところに異常に興味を示す癖がある。もちろんツアーには参加しない。日本に帰る日だけ決めておいて、東南アジアの奥地とか、中南米に一人でひょこひょこ行ってしまうのだ。

そのなかでいちばん驚いたのは、中南米に行ったときに、麻薬の運び人と間違われて、隣国にスムーズに出国できず、足留めされてしまったという話である。何日かその国にとどまっていれば、不審人物にされなかったのに、通過するだけだったので、疑われたのだ。

言葉がよくわからない彼女が、

「私は無実だ」

というつもりのジェスチャーを一生懸命やっても、担当官は、

「遠い日本からわざわざやってきたというのに、我が国に一日も滞在しないのはおかしい」

と、疑いのまなこを彼女に向けたままだというのであった。

彼女は特別に人相が悪いわけではなく、どちらかといえば優しい顔立ちなのに、運び人と間違えられたということで、あちらの国々ではいかに麻薬が大問題になっているかがわかった。すったもんだのあげく、半日後、やっと彼女は解放されたが、それも担当官がしぶしぶという感じだったという。「取り逃がした」という顔つきの、彼の視線を背中に感じながら、彼女は「私は無実だもん」とぶつぶついいながら、出国したそうだ。

46

無事に旅を終えて日本に帰ってこられたからいいようなものの、一歩、間違ったら大事になるところだった。

「へたをしたら、終身禁固刑だったかもしれません」

と彼女は豪快に笑った。確かに貴重な経験をした旅にはなるけれど、私にはそんな旅はとてもできないのである。

一日だけの靴(39)

本の印税がはいったので、たまには身に着けるものでも買おうと、ちょっと値の張る靴を置いている店にいった。私はふだん運動靴やぺたんこ靴の愛用者であるので、ちょっとヒールのある靴を買うときはとても緊張する。ただでさえ甲高幅広の足だからそれに合う靴を捜すのに一苦労なのである。ところがその店に置いてあった有名ブランドのその靴はデザインもよく、おまけに私の難点だらけの足にぴったり合ってこのうえもなく幸せな気分になった。そのなかで一番気に入ったクリーム色の中ヒールを買った。一万円札が五枚とんでいったが、そのときはやたらと気分が大きく太っ腹になっているので、そんなことちっとも気にしなくなっているのである。

ところが初めてその靴を履いて出かけたら、夕方から大雨になって靴がびしょ濡れになってしまった。家に帰って紙を中に詰めて水分を取ろうとしたものの、次の日になってもクリーム色にグレーのだんだら模様がしみついて取れない。そのとき突然、今まで忘れていたはずの、五万円という金額が頭の中にうずまいた。一瞬のうちに小心者と化してしまった私は、おろおろして靴を買った店に持っていったが、店員さんは申し訳なさそうに「残念ですがこれは直りませんねえ。こういういい靴はやはり車をお使いになる時に履かれたほうが?」

とやんわりといった。つまりこれは都内を車で移動する、雨風の影響を受けない人4 7

が履くのにふさわしい靴だったのである。「足腰が弱る」と車は使わず、一駅、二駅は平気でずんずん歩いてしまう私に履かれてしまった靴のほうがかわいそうという雰囲気だった。

五万円の靴を一日でダメにしたことで、いくら有名で値段相応のいい商品でも生活スタイルに合わないものは何の役にも立たないことを思い知らされた。私には値段も手頃で分相応の靴がほかにあったはずなのだ。「こういうことで人はいろいろ学んでいくんだわ」と自分をなぐさめたものの、やはり一日で五万円というダメージは大きく、このところ悲しい日々をおくっている。

スチュワーデス(40)

男の子たちが「スチュワーデス」と聞くとぱっと目を輝かせるのを見ると、私は嫉妬も含めて、「けっと」と思ってしまう。たしかに宙に浮きながら、いつもにこにこしているのは大変である。とてもじゃないけど私にはできない。容姿端麗で語学堪能とあれば、男の子たちがでれっとするのは当たり前なのかもしれないが、なかにはちょっと勘違いしているスチュワーデスがいるのも事実である。

仕事でパリにいったときのことだ。明日の出国を前にして、私は編集者と一緒に取材を終え、宿泊しているホテルの前で、

「空港行きのバスはどこから出るのか、聞いておかなきゃいけないわね」

と相談していた。するとそこにたまたま制服姿で、荷物を持った若いスチュワーデスが通りかかった。私たいは彼女も同じホテルに宿泊するのを察知して、

「空港行きのバスは、どこから出ているか知りませんか」と聞いてみた。すると彼女はつんとして、

「さあ、あたくし、存じませんわ」といって、すたすたとホテルのなかに入ってし

48

まったのである。言葉づかいはあくまでもていねい、しかし態度はとてもでかいのであった。私たちはあっけにとられながらも、フロントでバスがホテルのすぐ横から出発することを教えてもらい。翌日、無事、飛行機に乗ることができたのだった。

シートベルトを締め、ふと前をみると、何と昨日のでかい態度のスチュワーデスが搭乗しているではないか。名前をしっかりチェックしたあと、運の悪い彼女のことを思うとおかしくて、私と編集者はクスクス笑っていた。彼女は航空会社の広報担当者と一緒にいる私たちと目があって、一瞬ギョッとしていたが、何事もなかったかのように、つんとすましていってしまった。さすがに成田に着くまで、一度も私たちのそばには寄ってこなかったが、あのくらいの図太さがないとスチュワーデスはつとまらないと、空の上で感心してしまったのであった。

ファン(41)

古本屋に行って、偶々、自分の本が書棚にあるのを見るのは、作家にとってあまり気持ちのいいものではない。

特にそれが力をこめて書いた作品であると、

(どうして、いつまでも愛読してくれなかったのか)

という不満が一寸、心に起るのは止むを得ない。

自惚れるなと自分で言い聞かせてみるが、これは私だけでなく、すべての作家の気持であろう。

逆に新本屋に行って、たまたま、私の著書を買ってくれている人を目撃すると、非常に嬉しい気のするのも人情であろう。その人の本に悦んでサインをしたい衝動にかられるぐらいである。

4 9

逆に、しばらく私の本を取り出して、考えこんで、迷った揚句、また書棚に戻し、その隣のある別の本を買ってしまう読者をみると、

(チェッ)

と舌打ちをするのも当然の話だ。

作家など、聖人でも悟りをひらいた男でもないから、このくらいの感情は許してもらいたい。いつだったか、こんなことがあった。

Tホテルのティー?ルームでお茶をのんでいたら、一人の青年がつかつかと寄ってきて、「あの?遠藤さんでしょうか」と声をかけてきた。

私は自分の読者だと思ったから、平生の仏頂面を捨てて、出来るだけ愛想よく、

「ええ、そうですよ」

「あの?二十ほど、お話していいでしょうか」

「どうぞ、どうぞ」

ファンは大事にせねばならぬ。私はボーイをよび、紅茶をもう一つ、彼のため注文してやったのである。

ところが、この青年、

「遠藤さんは、北杜夫さんをよくご存知だそうですね」

「ええ、よく知っています」

「ぼくは、北さんの大ファンなんです。ですから北さんの話、聞かせて下さい。あの人は実生活でもあんなに楽しい人ですか。本を読むと実は魅力的ですねえ」

私のとってやった紅茶を飲みながら北、北と北の話ばかりする。

(チェツ)

真実、私は胸中、舌打ちした。この紅茶代、北にまわしてやろうかと思ったぐらいだ。

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第15篇:日语小作文

アルバイトの艱苦

私はもう22歳で、家のためにお金が欲しいで、何時までも両親のお金を使わない気がしない。

私のこの夏休みより子供の頃ように家で寝るしてゲームをするのは違っていた。今学生なので、アルバイトを探すのは大変になかった。たとえこんな状况でも、とうとう努力の末にスーパーのアルバイトを见つけた。最終、私はスーパーでレジ係りを担任した。毎日に朝八時から午後五時まで、八時間でずっと立った。とても疲れたと思う。アルバイトが始めたばかり、なかなか慣れないだ。しかし、給料をもらうことができると、強靱になった。店員のみんなも私にとても気にかけてくれ、それからだんだん慣れた。

初めてのアルバイトによって、私は4000元をもらった。それはとても嬉しいと思っていた。同時に仕事をするのは楽ではないと分かった。この先、節約が必要だ。

アルバイトの艱苦

私はもう22歳で、家のためにお金が欲しいで、何時までも両親のお金を使わない気がしない。

私のこの夏休みより子供の頃ように家で寝るしてゲームをするのは違います。今学生なので、アルバイトを探すのは大変になかった。たとえこんな状况でも、とうとう努力の末にスーパーのアルバイトを见つけました。最終、私はスーパーでレジ係りを担任しました。毎日に朝八時から午後五時まで、八時間でずっと立きました。とても疲れたと思います。アルバイトが始めたばかり、なかなか慣れないです。しかし、給料をもらうことができると、強靱になりました。店員のみんなも私にとても気にかけてくれ、それからだんだん慣れました。

初めてのアルバイトによって、私は4000元をもらいました。それはとても嬉しいと思っています。同時に仕事をするのは楽ではないと分かります。この先、節約が必要です。

アルバイトの艱苦

私はもう22歳で、家のためにお金が欲しいで、何時までも両親のお金を使わない気がしない。

私のこの夏休みより子供の頃ように家で寝るしてゲームをするのは違っていた。今学生なので、アルバイトを探すのは大変になかった。たとえこんな状况でも、とうとう努力の末にスーパーのアルバイトを见つけた。最終、私はスーパーでレジ係りを担任した。毎日に朝八時から午後五時まで、八時間でずっと立った。とても疲れたと思う。アルバイトが始めたばかり、なかなか

慣れないだ。しかし、給料をもらうことができると、強靱になった。店員のみんなも私にとても気にかけてくれ、それからだんだん慣れた。

初めてのアルバイトによって、私は4000元をもらった。それはとても嬉しいと思っていた。同時に仕事をするのは楽ではないと分かった。この先、節約が必要だ。

(题目)赚钱的艰辛

我已经22岁了,我希望我也能赚点钱,不用总是用父母的钱。今年的暑假我没有像以往的暑假那样在家里睡觉打游戏。

因为是学生,(所以找工作也不是容易的事)だから、アルバイトを探すのはなかなか易しくなかった。

(最后,找到了在超市的工作)けれども、とうとう努力の末にスーパーのアルバイトを探した。

我在超市做收银员,从早上8点到下午5点,每天要站8个小时,非常的辛苦。 一开始非常不习惯。不过想到能赚到钱就坚持下来了。大家也对我非常的照顾,后来也习惯了。

通过打工赚到了4000元非常的开心,也知道了工作的辛苦,赚钱的艰辛。以后知道要节约。

第16篇:日语感想论文

数学与计算机科学学院

031201206 詹小青

日语学习心得

学习日语,对中国人来讲,其实是有优势的,且不说它里面有很多汉字,就说它的发音,好多都跟汉语也很像。这也是当时我选择它为二外的一个重要原因吧。现在一年学下来,由原来的一个门外汉,到现在的菜鸟级,应该说这其中还是有点滴感受的吧。

一、日语与汉语的比较

从语言学上来讲,日语和汉语都应该属于汉藏语系的,好多日语单词就是从汉语里来的,被语言学家称为sino-Japanese.两者应该有着很大的相似之处。日语中平假名和片假名甚至就是以汉字为基础创造的表音文字。如“ぁ”来自汉字的“安”的草体。但我觉得,事实上,要学好日语并不是一件容易的事,因为上面所述都是一些表层的东西。从深层次上来讲,两者有很大的不同之处。

我们学习语言的人都知道,grammar是一个语言的骨架,它从一定程度上决定着一个语言,但我们认为很相似的日汉语的文法根本不一样。最明显的一点就是日语的谓语动词往往放在句末,这是最特别的一点。比如说“我去学校”,在日语里面说成わたしは学校へ行きます,把“去”这个动词放在最后。其次,日语是以其格助词为关键的,如“に”、“を”等,每一个就有很多种用法。拿“を”来说吧,它就有表示对象的用法如本をよむ;还有表示起点的,如家を出る;还有表示在某一范围内移动的,如海を泳ぐ。而“に”的用法就更复杂了,这里就不赘述了。而汉语里则简单得多,没有这么多的格助词。另外,日语里有许多时态而这些时态是通过词形变化表现出来的,如て形,た形等等。但汉语里则没有这么多词形变化,只是通过加上些如“了”、“曾”、“过”等副词来表示。同时,我要说的是,日语中的这些形相当难记,而且很容易忘。但是如果掌握了规律,就很容易记了,而且可以举一反三。比如掌握了一个动词的て形,那它的其它形就可以迎刃而“记”了。比如待つ的て形为待って,由此可以推断出它的た形,就是待った。这是动1的词的用法,而动2的词就更加相似了,直接把最后的一个假名去掉加上一个て或一个た就可以了。而其它的形也可以采用类似的方法来记忆。当然,仅仅掌握了这些词形变化是远远不够的,必须把它们应用于一些句型

当中。仅以て形为例,它就有很多与之有关的用法或句型。如てくたさぃ表示礼貌地请求;てぃる有表达两个含义,一方面表示动作的进行,还有一种就表示状态的持续;てもぃぃです表示可以干某事了。

日语中有如此多的词形变化,而汉语中很少,那为什么一些西方人会觉得汉语比日语更难学呢?让我们来看看日语和英语的比较吧。

二、日语和英语的比较

我认为,和汉语相比,日语和英语的相似处更多,它们都属于形合的语种,注重形式;而汉语则属于意合,西方人对此很难理解。而且日语和英语都有很多相对应复杂的句型,时态,及与之相关的词型变化比如与て形相对应的英语时态就是现在时-ing形式,与た形相对应的则为过去时-ed形式,与なぃ形相对应的则是英语中的否定。而且,现在随着世界联系越来越紧密,日语中外来语增加的速度更是快得惊人,好多词汇都摒弃了原来的和语或汉语读法,采用了英语的发音,叫人背不胜背,这通常都要用片假名来表示。因此,好多日语词都可以用英语来发音,日本人不但不会嘲笑,反而认为你才是up to date.这样一来,西方人当然觉得日语更好学了。什么东西说不出来,仍然可以用英语来表示。但是,由于这些外来语都是用日

本的语音发音,因此跟英语单词有很大的出入,以至于我们读多了之后,许多英语单词都不会读了,比如我经常会把supermarket读成ス-パ-.マ-ケット这也就难怪日本人读英语的时候感觉怪怪的。当然,说两者相似,是基于和汉语比较的基础上的。虽然两者相似处很多,但是,总的来说,Culture determines language.不同的文化背景下所产生的语言肯定是有根本区别的,而语言正好可以反映出文化的不同。日本人宣扬的是一种“忍”的精神,以致整个民族都很内敛,表现得很谦恭,好像什么都唯唯诺诺,而欧洲人则不同,他们以自我为中心,应该是属于个人主义的那一类。表现在语言上很容易就看出来。日本人在说话的时候有时连ゎたし都可以省掉,而英语里面为了强调自己的意愿,经常说一些主观意愿的词,比如I think,In my opinion,I\'d like to say,你看,几乎每个里面都有 “我”。

三、口语和听力

口语,这是一个很重要的方面,因为语言最重要的一个功能就是communication,而交际最重要的就是要去说。如果学一门语言,但是口语不能掌握的话,等于只学了一半,这对日语来说尤为如此,因为日语的口语和我们学的书面语很不一样。我们看日剧的时候会发现日本人经常只用动词的普通体, 而不用敬体。还有一点很重要的,就是日语分男性用语和女性用语以及一些所谓的谦逊语,其实要说到谦虚,中国人应该是很擅长的,但是日本人的谦虚连我们中国人都受不了。比如说すみません,它是在日本使用频率很高的一个词,常常有一种深层次的含义,我想这是我们这些菜鸟所不能理解的,好像不管什么场合都可以用。而与口语联系密切的听力也是让我们头疼的地方,在听同学做speech或者听磁带的时候,听到某个单词很熟,但就是不知道是什么意思,一个单词要反应好长时间才知道是什么,有的时候甚至要写下来才知道。但这样一来,下面的内容就听不到了。另一点就是日语中有很多同音但不同义的词。如ひく这个音,我们现在学到的就有三种意思,一个是弹钢琴的弹(弹く),一个是得感冒的得(ひく),还有一个是查辞典的查(引く)。这样一来,听的时候觉得更困难了。我想这也多多少少和我们平时听得少有很大关系吧。但是,以后不管是考级还是考研,听力都是很重要的,所以今后一定要加强这方面的训练。

三、部分日语句型和英语汉语的对比

1、て形

てぃます正在做某事Be doing something てもぃぃです可以做„„You can do something てはぃけんません不能做„„You mustn\'t do something てくださぃ请您做„„Would you please do something „„て,„„干完„„之后紧接着就„„After doing sth,sb do sth

2、た形

たことがあります做过某事Somebody did something.たほうがいいです最好做某事You\'d better do something.たあとで,„„做完某事后再做Do something after doing something.たり„„たりします一边„„,一边„„Doing and doing

3、未然形

(よ)うと思います打算做某事Be going to do something しなぃ不做某事Don\'t do something

4、其它

と思います我认为I think は~より„です„比„更~ is more than~ になります变得„„,越来越„„More and more„

综上所述,日语和汉语、英语是有很多共性的,同时它也有很多特性。我们所要做的就是经常对这三者进行比较,比较之后才会有进步嘛。

第17篇:日语商务礼仪论文

ビジネスにおける 上座・下座

社会の一員として生活をしていると、いろいろなシチュエーションで目上の方やお客様と過ごす機会があります。敬語や立ち振る舞いで相手に敬意を表すのはもちろんですが、その他にも応接室での座る位置や車での乗車位置によっても相手に敬意を表すことが出来ます。上座(かみざ)・下座(しもざ)という言葉は聞いたことがありますか?目上の人やお客様が座る席を上座、目下の人や接待する側が座る席を下座といいます。 上座の方がより安全で心地良い席です。応接室などの部屋の他にも、車、エレベーターにも上座・下座があります。

実は上座・下座はとても重要なマナーです。これを間違えたり、怠ると、お客様を大いに怒らせてしまうことにもなるのです。位置や順番に対する日本人の感覚は、実はたいへん敏感です。ここではビジネスマナーに欠かす事の出来ない席次のマナーについて、状況別に紹介しています。

1、会議室の上座と下座

会議室における席次の原則は、入り口から遠い席が議長席で最も上座となり、以下入り口に向かうにつれて最も下座となります。

また、来客とこちら側の人数が3人など同人数で座る場合は、それぞれの席の中央が最も上座となり、その次が出入り口から一番遠い席、一番出入り口に近い席が最も下座となります。 会議室席次の例

【コの字型の会議室 席次】

【中央の席が上座同士になる場合の席次】

2、列車・電車の上座と下座

上司や取引先の方と一緒に電車や列車に乗ることもあるでしょう。横並び煮の電車(通常の通勤電車)などの場合には上座や下座を意識する必要ありませんが、特急列車や新幹線のような縦に並んでいる席には上座と下座があります。

電車における上座は電車の向かっている方向(進行方向)を向く形で座る窓側の席が上座です。次いで、その通路側となります。席を向かい合って作るような場合には、進行方向と反対側を向かう方が下座となります。

また、乗る機会は少ないでしょうが、寝台列車の場合、二段ベッドの上が下座、下が上座になります。 列車・電車席次の例

【ボックス席 向かい合っている場合の席次】

【ボックス席 座席が進行方向を向いている場合の席次】

3、応接室の上座と下座

応接室における席次(上座と下座)についてですが、原則として出入り口から最も遠い席が最も上座となり、出入り口から最も近い位置が下座となります。基本的にはこれが大原則なのですが、いくつか例外がありますので、応接室の席次の例外を説明していきます。

(1):長ソフゔと一人掛けソフゔ 原則として長ソフゔの方が一人がけのソフゔよりも格上となります。出入り口から遠い位置に一人がけのソフゔがあり、出入り口から近い位置に長ソフゔがある場合の上座は長ソフゔの方が上座となります。 (2):置物・掛け軸・景色の良い窓

見事な置物や掛け軸、景観の良い窓がある応接室の場合、それらが良く見える席の方が上座となります。

なお、これらの例外についてですが、相手の勧め>例外>原則の順に優先されます。取引先に応接室に案内された際、上座に座るのを指示された(勧められた)場合は相手の勧めに素直に従います。勧めが無い場合は、例外>原則の順で下座を選びましょう。 応接室の例

【長椅子がある場合の席次】

【美しい眺望や装飾品などが楽しめる部屋の席次】

いろいろなシチュエーションで上座・下座という基本的マナーが必要となりますが、実際には様々なケースがあります。時には相手の気持ち・都合を考えて臨機応変な対応が必要となることもあるでしょう。基本的マナー・知識を身につけた上で、スマートな立ち振る舞いが出来れば社会人としてのステップゕップです。だから、基本マナーさえ身に着ければ、人間交際の際に必ず役立ちます!

第18篇:日语论文(感谢词)

感謝の言葉

この論文については、最初、表題を選択して、資料を集めて、骨格を立てるから初稿の作成と最後の改定まで、三ヶ月ぐらいの努力を経過して、最終が本稿を作成したこととなり、諸先生方に深く感謝したいと思います。

この論文を作った時、郭先生から全力で援助をもらいました。指導先生として、郭先生はこの論文について構想、主題、言葉遣いなどにご指摘をいっぱい与えました。 先生のおかげで、卒業論文は順調にできました。ここに心から感謝の気持ちを表したいです。

翻訳学院において

氏 名: 2011年5月15日

第19篇:日语800字论文

日本茶道

日本的茶道起源于日本本土,但吸收了中国的茶文化,且具有日本民族味。它有自己的形成、发展过程和特有的内蕴。

日本茶道是在日本一种仪式化的、为客人奉茶之事。原称为“茶汤”。日本茶道和其他东亚茶仪式一样,都是一种以品茶为主而发展出来的特殊文化,但内容和形式则有别。茶道历史可以追溯到13世纪。最初是僧侣用茶来集中自己的思想,从谂禅师曾经以“吃茶去”来接引学人;后来才成为分享茶食的仪式。现在的日本茶道分为抹茶道与煎茶道两种,但茶道一词所指的是较早发展出来的抹茶道。

日本茶道分为四个时代:

(一)奈良、平安时代,这一时期的茶文化,是以嵯峨天皇、永忠、最澄、空海为主体,以弘仁年间(公元810-824)为中心而展开的,这一段时间构成了日本古代茶文化的黄金时代,学术界称之为“弘仁茶风”。

(二)镰仓、室町、安土、桃山时代,镰仓、室町、安土、桃山时期,日本吸收反刍中华茶文化,民族特色形成,日本茶道完成了草创。

(三)江户时代,江户时期,是日本茶道的灿烂辉煌时期,日本吸收、消化中国茶文化后终于形成了具有本民族特色的日本抹茶道、煎茶道。日本茶道源于中国茶道,但是发扬光大了中国茶道。

(四)现代时期。

现代的茶道,由主人准备茶与点心,还有水果招待客人,而主人与客人都按照固定的规矩与步骤行事。除了饮食之外,茶道

的精神还延伸到茶室内外的布置;品鉴茶室的书画布置、庭园的园艺及饮茶的陶器都是茶道的重点。

茶道有繁琐的规程,茶叶要碾得精细,茶具要擦得干净,主持人的动作要规范,既要有舞蹈般的节奏感和飘逸感,又要准确到位。茶道品茶很讲究场所,一般均在茶室中进行。接待宾客时,待客人入座后,由主持仪式的茶师按规定动作点炭火、煮开水、冲茶或抹茶,然后依次献给宾客。客人按规定须恭敬地双手接茶,先致谢,尔后三转茶碗,轻品、慢饮、奉还。点茶、煮茶、冲茶、献茶,是茶道仪式的主要部分,需要专门的技术和训练。饮茶完毕,按照习惯,客人要对各种茶具进行鉴赏,赞美一番。最后,客人向主人跪拜告别,主人热情相送。日本茶道是在“日常茶饭事”的基础上发展起来的,它将日常生活与宗教、哲学、伦理和美学联系起来,成为一门综合性的文化艺术活动。它不仅仅是物质享受,主要是通过茶会和学习茶礼来达到陶冶性情、培养人的审美观和道德观念的目的。

繁复而熟练的礼法是为了使人超然物外,浓如苦药的茶汤正如人生,别出心裁的插花显示有限的生命背后人类生生不息的生命力,棒喝的偈语告诉人处处是真理。日本茶道,是用一种仪式来向人讲述禅的思想,正如参禅需要顿悟一样,其中蕴涵的那些人生的经验,需要饮茶者用生命的一段时光来领悟。

09电气二班

周雪燕32号

第20篇:友情(日语小作文)

友情

友情とはなんとなくよいものだろうと思う。どうしてかと言うと、友情という漢字から、友との情、友達との情というイメージがするからである。

僕はたくさんの友達を持っている。友達がたくさんいればいるほど幸せになる気がする。つまり、友達がいれば、困った時などお互いに助け合ったり、協力し合ったりすることができるからだ。それに、競争しあったり、励ましあったりすることもできるかもしれない。

もし、友情なんか要らないという人がいたら、どうだろうか。その人が困ったりしたときに、誰も話し合える人がいなくて、きっと後悔することになるに違いない。

友情とは、かけがえのないものだ、と僕は思う。ぼくは、これからも、友達を大切にしていきたいと思っている。

日语小论文范文
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