故鄉魯迅
ある日は寒さの午後、ご飯を食べた、座ってお茶を飲んで、誰か来ると思うから、振り替えてみた。思わずびっくりした、急い立ち上がって迎えた。
来た客は閏土である。人目で閏土とわかっただけど、私の記憶の中の閏土ではなかった。彼の背丈は一倍ほどなった;昔の紫の丸さ顔はもう暗く黄色になり、深いしわを付けて;目も親父と同じくて周り腫れて赤くなった、一日中海風に吹かれて、海邊の田んぼに働いて、よくわかる。破れったラシャ帽子をかぶって、身にはただ薄く綿入れ一枚、体じゅうぶるぶる震えている。紙包みと長いキセル手に持っている、あの手も私の記憶にある血色、丸々した手ではなく、太い、節くれだった、しかもひび割れた、松のからような手である。 この時私は嬉しいけど、何を話しればいいか、ただ一言:
ああ、閏ちゃん、よく来たね。
それから色々な話がある、数珠つなぎになって出かかった:角鶏、跳ね魚、貝殻、チャー……だがそれらは、何かでせき止められたように、頭の中を駆けめぐるだけで、口からは出なかった。
彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。「だんな様! ……。」
わたしは身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。わたしは口がきけなかった。
わたしも横になって、船の底に水のぶつかる音を聞きながら、今、自分は、自分の道を歩いているとわかった。思えばわたしと閏土との距離は全く遠くなったが、若い世代は今でも心が通い合い、現に宏児は水生のことを慕っている。せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように……とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。
小食(しょうしょく)-饭量小|暴飲暴食(ぼういんぼうしょく)-暴饮暴食|食べ放題(ほうだい)-随便吃|
希望という考えが浮かんだので、わたしはどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台を所望した時、わたしはあい変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかに彼のことを笑ったものだが、今わたしのいう希望も、やはり手製の偶像にすぎぬのではないか。ただ彼の望むものはすぐ手に入り、わたしの望むものは手に入りにくいだけだ。
まどろみかけたわたしの目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月がかかっている。思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。