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西安钟鼓楼日语导游词

发布时间:2020-03-02 08:06:44 来源:范文大全 收藏本文 下载本文 手机版

鐘楼の案内

鐘楼は西安のシンボルの一つで、東西南北の四つの大通りの交差点にあり、西安の中心です。

鐘楼が建てられたのは西暦1384年で、明の時代でした。最初は西大街の迎祥観にありましたが、当時そこは西安の中心地だったからです。西暦1582年西安城が拡大されたため、鐘楼の位置は中心でなくなり、すこし西側のほうになってしまいました。それで、もとの鐘楼を壊して、拡大された西安城の中心地、つまり、現在の所に鐘楼を造りなおしたのです。

西安の鐘楼は中国の数多くの鐘楼の中で、形が一番大きく、一番よく保存されているものです。明の時代の西安は首都でもないのに、なぜ鐘楼の規模が一番大きいなのかということついては、いつも人々に不思議に思われていますが、それにまつわる面白い話があります。

明の時代の西安では、何回か大地震がおこりました。それは西安城の下を流れている川の中に蛟竜(こうりょう)がいるから、よく地震がおこるのだという噂がありました。西安府の知事はそれを聞いたら、大変信じていたので、蛟竜を鎮めるために、鎖で蛟竜を縛り、それを川の底まで沈め、その上に大きな鐘楼を造ろうと命令しました。それで、大きな鐘楼ができたのだそうです。不思議なことに、鐘楼ができてから、西安では大きな地震がおこったことはありません。

それはでたらめな伝説だと思われるかもしれませんが、できたわけがぜんぜんないとは言えないと思います。明の初代の皇帝朱元璋は貧しい家の出身で、いろいろな苦労をなめて、やっと皇帝になったのです。ですから、皇帝になってから、真竜天子に権力を奪われはしないかと深く恐れていました。それで、「竜気」を押しつぶそうとして各地に鐘楼を次々と建てさせました。特に西安は皇帝のよく出るところですから、もっとも大きな鐘楼を造らせたそうです。

鐘楼と鼓楼は古代に中国都市の特別の建築です。鐘と鼓は中国ではもともと打楽器で、約3000年ぐらいの歴史があります。最初は礼器と楽器として使われていましたが、春秋時代から(紀元前8世紀)から、軍事指揮に使われるようになりました。中国の古代の都市はみな軍事的お城という特色を持っていました。周囲は城壁で囲まれ、外堀や跳ね橋が造られ、それらを一体に組み合わせたのは中心地にある鐘楼です。鐘楼は指揮中枢部なのです。普通は晨鐘暮鼓として時間を知らせるのですが、緊急の時には、警報をしらせ、都市の防衛を指揮していました。このような防御システムは明の時代になって最盛期になり、明の時代の西安は西北地区の軍事中心でした。

鐘楼は敷地面積は11260平方メートル、建築面積は1378平方メートル、高さは36メートルです。土台は正方形で、高さは8.6メートル、レンガ造りです。その上は木造造りで、釘は一本使われておりません。外からみれば3階に見えますが、実際は二階建ての建物です。

鐘楼の二階の西側の壁に「鐘楼記」という石碑が嵌められています。鐘楼全体が移されたことについて記されています。

元の鐘楼にかかっていた鐘は唐代の景雲年に作られた景雲鐘ですが、不思議なことに、今の鐘楼に移されたら、音が出なくなってしました。仕方がなく、もう一つ作りました。いまの鐘は重さ5トン、周りに八卦図案が刻んであり、明の成化年(1465-1487)に作られたのです。

建国後、鐘楼は三度修復され、昔の面影がそのまま残されています。鐘楼の上にのぼると、西安市の全景を一望できます。

鼓楼

鐘楼の西側約1キロあたりのところに鼓楼があります。明の洪武13年(1380年)に造り始め、鐘楼より4年早く着工したのです。清の康煕38年(1699年)、乾隆5年(1740年)二回ぐらい修復しました。鼓楼の上に大きな鼓が置いてありますので、鼓楼と名づけられたのです。いまの鼓は1996年に作られたのです。

昔は朝、鐘楼の鐘をつき、暮れるとき、鼓楼の鼓を叩いて、人々に時間を知らせていましたので、晨鐘暮鼓と呼ばれていました。この鼓楼は敷地面1999平方メートル、建築面積は1804平方メートル、高さ33メートル、南北向きに通路のような門があり、鐘楼と同じように、土台はレンガ造りで、それより上は木造作りです。鼓楼の楼閣の南側に「文武盛地」という大きな扁額があり、それは清の乾隆の親筆です。

今の鐘楼と鼓楼の間に広場ができて、いつも観光客と市民でにぎわっています。

鐘楼と鼓楼の案内はこれで終わらせていただきます。お疲れ様でした。

城壁

西安の城壁は中国に現存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に造りなおしたものです。

明の太祖巣朱元璋が「高く城壁を造り、多く食糧を貯め、帝王を称するのを延ばす」という提言に基づき、全国に城壁を造らせました。今の西安の城壁はその時代に改修されたもので、明の洪武三年から洪武十一年(1370年――1378年)まで行われましたが、初唐の規模のおよそ9分の1に縮小されました。

明代に造られた城壁は、高さ12メートル、上の幅は12メートルから14メートル、土台の幅は15メートルから18メートル、周囲は13.9キロです。最初の城壁は層に分けて黄土を突き固められたのです。一番下の部分は土、石灰ともち米汁でつき固められ、非常に丈夫にできたのです。後にレンガで城壁の内外とてっぺんを敷き詰めたのです。

城壁には120メートルごとに敵台が一つ造られ、城壁の外に突き出ていて、高さは城壁のてっぺんといっしょです。これは城壁を攻める敵を防ぐために造られたのです。敵台の間の距離はちょうど弓矢の有効射程の範囲内なので、横から攻めた敵を殺すことができます。城壁には敵台が98あり、いずれも兵士を駐在させる敵楼が造られていました。

城壁の城門は城内に入る唯一の道なので、もっとも工夫に工夫を考えて造られたものでした。西安の城壁は東西南北に四つの城門があり、それぞれ正楼、箭楼、闸楼(こうろう物見やぐら)の三重の城門あります。闸楼は一番外側にあり、跳ね橋の上げ下ろしのコントロールを管理するところです。闸楼には窓がたくさんあり、外に向けて射撃するために造られたのです。闸楼の三面が城壁とつながり、羊馬城と呼ばれ、半月形の立体空間となっています。敵が闸楼城門に入ったとしても甕の中に入ったように、周りから攻撃されるので、甕城とよばれたのです。

二番目の城門には箭楼があり、城門を守るもう一つの防御工事です。闸楼と同じように箭楼の三面が後ろの城壁とつながり、正楼との間がもう一つの甕城となっています。箭楼の上には窓がぎっしりあり、射撃するために造られたのです。箭楼は第一城門と第三城門の間にあるので、敵が第一甕城にはいっても第二甕城に入っても、そこから攻撃することができます。

正楼は城門の第三番目の城門であり、正門でもあります。正楼と箭楼の間は甕城となり、兵士を駐屯させるところでした。甕城には城壁を上がる馬専用の坂道があり、城壁には馬専用の坂道が全部で11あります。

城壁の四つの角には物見やぐらが一つあり、城壁の外側に突き出ています。その役割は敵台と同じです。城壁を一周すると、きっと不思議に思われることがあると思います。ほかの角がみな直角形なのに、ただ西南の角だけが半径12メートルの円形となっています。それはなぜでしょうか。1983年の修復でその謎が解明されました。明の城壁は隋唐の城壁をもとにして造りなおされたものですが、西南の角だけが唐の皇城の円形のままにしておいたのです。

城壁の外側に姫垣が築かれ、それに切れ込みあり、全部で5984あります。、矢を射ったり、見張ったりするために造られたのです。内側の姫垣には切れ込みがなく、行ったり来たりする兵士が落ちないように造られたのです。

城壁の上に40――60メートルごとにレンガで造られた水槽があり、排水に用いられています。それは城壁の長期保護には大いに役立ちました。

城壁の外側には壕があり、城門には跳ね橋があります。跳ね橋をあげると、城内にはいることができなくなります。城門は東門が長楽門、西門が安定門、南門が永寧門、北門が安遠門と呼ばれています。

西安の城壁はかつて規模の大きい軍事防御システムでした。また中国に現存しているお城の中でもっとも完全な形をしているお城でもあります。明の時代の歴史、軍事および建築の研究には非常に貴重な実物資料を提供してくれました。

1983年に城壁の修復工事をしました。そのおかげで、いまの城壁はみなつながるようになりました。城壁と外堀の間は環城公園となっています。夜になりますと、城壁がライトアップされて、とてもきれいです。それは西安でしか見られない独特の夜景です。楽しみにしてください。

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