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导游词日语(精选多篇)

发布时间:2020-04-05 02:43:09 来源:导游词 收藏本文 下载本文 手机版

推荐第1篇:日语导游词

皆さん、おはようございます。私は中華国際旅行社を代表するガイドの姜歓です。皆様のご来訪を心から歓迎いたします。どうぞよろしくお願いします。今回の旅行は2泊3日で、4つの地方に行くの旅ですから、時間があまり多くないようだ。でも、すごく面白い経験ですよね。

続きまして、私は今回の観光計画をちょっと説明させていたします。

まず、第一日、吉林省の長白山と遼寧省の葫芦島、二つの地方が近いですから、あまり時間がかからない。第二日は、山西省の平遥古城への観光です。最後、第三日、寧夏の沙湖と影視城です。はい、大体以上の通りです。

じゃ。第一日皆さんが朝7:00に長白山航空港に着いてから、まず、我が会社の旅行バスに乗って、長白山へ行く予定です。8:00ごろ、多くの観光客のおすすめ料理亭であった敦化老朴面館で朝食を取ってください。後は、ロープウェトに乗って長白山の観光です。山頂まで、皆様、これで自由活動になりますので、12時までに、麓の天池泰格酒店で皆さんを待ちいたしますので、そこで昼食を取ることとお昼寝をすることになっています。よろしくお願いします。

あのう、午後2:00はホテルから出発し、バスで葫芦島の方へまいります。登山活動の後、皆様お疲れているところに、午後4:00、私たちが葫芦島の温泉リゾートホテルに着いて、温泉に入って、自由に享受することができる。夜になると海岸地帯には、焚き火がありますので、ここに住んでいる人々は、夏には、よく焚き火を囲み、短夜を踊り明かす風習があるよ、もし皆様が興味があったら、花火を見ながら、焚き火を囲み、彼らと一緒に踊ってもいいですよ。ええと、夕食といえば。地元の海老やカニや法螺貝など、そして、あんすの中味を入ったお粥もおすすめの美食でございます。宿泊は海逸休日酒店にします。

それから、二日目は、飛行機の時間が朝7:00ですから、ホテルの出発時間は6:00でございます。朝食は飛行機の中で食べます。2時間かかって、太原に到着して、また、バスの時間ですね。バスで平遥古城に来ます。次は、昼食とホテルの予定でしたが、平遥 徳縁富客栈になりました。昼食の主な内容は現地の特産平遥牛肉、水煎包などでございます。午後2:00、観光始めます。平遥古城壁、平遥文廟、平遥県署、近代以前中国最大の金融業者であった日昇昌などの見物と予定です。城内には、商店が多くあるから、そこで平遥特産品の推光漆器や縫花靴、平遥牛肉などが扱っています。それらがお土産として、購入することもできますよ。あまり高くないから。

はい、これで第二日の観光、終わりになります。

第三日、まず、午前は寧夏の沙湖の遊覧で、飛行機は9:00に寧夏銀川河東航空港に着いて、そこで、美しい景色をしてった景勝地であるの百鳥楽園景区、万亩蓮精品園景区、ナイル河スタイル景区、砂漠シルクロード景区を観賞します。ここで、サーフィンもできます。ホテルは沙湖休日酒店でございます。おすすめな美食は主に白水羊肉、特色鯉などがあります。午後は「東方のハリウッド」と呼ばれ、中国有名な映画「大話西遊記」「新龍門標局」の撮影地としての西夏影視城の観光です。その影視城内の観光点は昊王宫、徳明殿などです。午後6:00、観光終わり。7時にに寧夏銀川河東航空港出発して、成田航空港に到着します。

はい、以上です。ありがとうございます。

推荐第2篇:日语导游词

閣山の案内言葉

皆様、おはようございます。私は今度閣山をご案内させていただくガイド***と申します。今日の観光、伴いできて、うれしいです。どうぞ、よろしくお願いいたします。観光中何かご用があったら、ぜひお教えください。私は必ず力を尽くして手伝います。

まもなく今日の観光地閣山に着きますから、閣山の概況についてご紹介させていただきます。

閣山は道教の名山で、また閣皂山と呼ばれています。海抜は802.7メートルです。閣山は江西省の樟樹市の東南に位置して、延々200キロメートル続きます。最も古い記録は漢の時代になります。しかも、宋の時代以来、「天下の名山、道教の福地、神仙の館」と誇っています。後漢の建安七年(紀元202年)、道家の名高い跡継ぎ葛玄はここで悟道、修行しました。後世は彼を樟樹薬業の始祖と尊称しています。唐の儀鳳年間(紀元676-678年)閣山は朝廷に天下第三十三福地の誉れを賜られました。宋の時代に真っ盛りになって、金陵(今の南京)の茅山と広信(今の貴渓)の龍虎山と一緒に「天下の三大名山」と呼ばれていました。

皆様、右を見てください。少し遠いところに二本高くそびえる松が見えますか。まさに遊覧客を導くようですから、あの松は「引路松」と言われています。考証によって、あの二本松はもう千年に生きていて、『中国古樹志』に載せされました。ここにきって、もうすぐ目的地に到着します。皆様、観光準備をしてください。貴重品を忘れないでください。

もう到着になりました。お待たせいたしました。では、どうぞお観光してください。 ただいま私たちは省級文化財「一天門」に到着しました。一天門は閣山福地の門戸で、高さは7.17メートルで、幅は4.3メートルです。この門はもともと宋の時代に作られました。朱熹は閣山に講義をしてきた時ここに休憩して、聳え立つ高山、澄ます渓流、高くそびえる木を見て「ここはまさに一天門だ」と驚嘆しました。だから、この門は「一天門」と名付けられました。現在の一天門は清の時代に再建したものです。

これから観光するところは「大万寿崇真宮」です。大万寿崇真宮は階段、大門と本殿三部分を構成されています。面積は二千あまり平方メートルです。皆様、もう「大万寿崇真宮」に入ってきました。この建築は葛玄が再びにこの山にきて造った宮殿です。皆様の目に入ったのは葛仙人と張天師と許真君の像です。この仙宮は年中お参りが盛んです。皆様は興味があったら、どうぞ参拝してください。

はい、皆様、そろそろお昼ご飯の時間です。休憩時間は一時間です。後でここに集まって、観光を続きます。今日の定食は地方色のあるご馳走です。じゃあ、食堂に行きましょう。

……

皆様、全員が集まりました。では、観光を続きましょう。いまご覧になって

いるのは紫陽書院です。面積は約860平方メートルです。宋の時代には太上老君、釈迦牟尼と孔子を祭った宮殿で、道徳宮とも呼ばれました。朱熹(別名は紫陽)は何度かここに講義をしたなので、紫陽書院と名付けられました。皆様、書院の中にいろいろ木が見えますね。この木を見てください。これはもう800歳以上のイチョウです。ほかの植物は多く鑑賞用、あるいは草薬として、百年以上に生きている草木で、とても珍しいです。

皆様は中国の漢方薬に関心を持ちますか。次にご案内させていただくのは「百草園」で、中にはたくさん漢方薬の原材料としての草薬があります。はい、もう百草園に入ってきました。今の百草園は八卦の形のとおりに草薬を植えられていて、とても特別です。ここは一年を通じて花が咲いています。皆様、お疲れになったでしょう。十分ほど自由行動にして、記念写真をとりましょう。

はい、今日の観光はこれで終わります。いろいろとご協力いただき、どうもありがとうございました。

推荐第3篇:马王堆日语导游词

長沙馬王堆漢墓

皆さん、ようこそ湖南省博物館にいらっしゃいました。馬王堆漢墓から出土されたものについて説明させて頂きます。

馬王堆漢墓の出土場所は長沙市の東に約四キロ外れた郊外にあります。地面より高く、二つのお墓がつながっており、馬の鞍に似ていることから、馬鞍山と言われています。また、ここは五代の長沙王 馬殷のお墓だという説もあるので、馬王堆とも言われていました。

1971年、中国では「防空壕を掘り、食糧を積んでおく」という運動を行われ、あちらこちらに防空壕が作られました。普通、存在しているお墓の深さを計算して、防空壕がその下を通るように掘り進められましたが、このお墓はとても深く埋葬してあったので、偶然見つかったのです。お墓の中からガスがたくさん出てきたので、地下に保存できなくなってしまい、発掘しなければならなくなったのです。

ですから1972年から1974年までの3年間に、当時中国で有名な考古科学者たちが集められ、馬王堆の発掘が行われました。 2号墓から、「利蒼」、「軑候の印」、「長沙丞相」など3つの印鑑が出土し、1号墓から「妾辛追」と言う印鑑が出土しました。史記、漢書にあった記載によって、このお墓の主人の身分が分かりました。五代の長沙王 馬殷よりもっと前の人で、中国では西漢(日本語で言うと前漢)の人物でした。今から数えるともう2100年以上前の人です。史記、漢書にある記載によると、利蒼は西漢時代長沙国に住んでいた家族でした。農民蜂起を鎮圧する時、彼は漢政府のためによく戦いまして、素晴らしい功績を作りあげました。そこで漢政府から長沙国の世襲の丞相を賜りましたが、三代続いたと書いてせしゅう

ほうき

いんこうこ

はっくつ

ぼうくうごう

くら

じょうそう 1 あります。

どうぞこの模型をご覧下さい。発掘現場を縮小して作ったものです。合わせて三つのお墓があります。1号墓、2号墓と3号墓ですが、1号墓は一番大きくて、西漢時代の代表的なお墓で四角い形になっています。南北の長さは19.5メートル、東西の長さは17.8メートル、盛り土(封土)からお墓の下まで20.5メートルの深さがあります。(先ほどお話ししましたが、このお墓と防空壕がぶつかった説明をさせていただきました。普通のお墓の深さは5、6メートルなので、こんな深いお墓はまず少ないです。)1号墓から漆器、はくしょ

しっき

しゅくしょう帛書、シルクなど1800個の遺物が出土し、その中で、とてもよく保存された女性のミイラが出土したので、世界の人々に驚かせました。

2号墓は丸い形で、何回も盗掘にあったので、お墓も崩れてしまい、残りの遺物も少なく、200あまりでした。

3号墓は1号墓と同じ形で、やや小さいですが、盗掘されたことはなく、1000あまりの遺物が出土しました。残念ながら、このお墓からはミイラが出ませんでしたが、ただ、男性の骨格だけを残していました。研究によりますと、この男性は185センチあり、年齢が30歳前後だそうです。

ここまで説明させていただきましたが、もしかしたら皆様は疑問をお持ちになるかもしれません。男尊女卑の社会で何故、女性のお墓が一番大きいのだろう?3号墓はいったい誰なのだろうか? 先ほど説明させて頂いた印鑑でお分かりいただけたかと思いますが、実は、ここは一家族のお墓で、一号墓は妻である辛追、2号墓は利蒼、3号墓は子供のお墓であります。

利蒼の死亡年代は紀元前186年、子供は紀元前168年で、妻辛追は

こっかく 2 紀元前163年です。西漢時代はたび重なる戦乱、そして飢えと病気のために、人々の寿命は30歳前後でしたが、1号墓妻は50歳まで長生きしました。中年の時夫に先立たれて、老年のとき子供に死なれたので、大変つらい思いをされていました。特に子供のお墓からたくさんの兵器が出土したので、後の推測によって、戦い中になくなったのではないかと思われます。

妻が一番最後に亡くなったので、その頃、お墓を建てる技術も大変発達していたと思われます。そして、徹底的にお墓を密封する方法で作られています。発掘現場をご覧下さい。まず棺桶の底に15センチ厚さの白い粘土を敷きつめて、その周りを厚さ40センチ、重さ5000キロの木炭で包んで、外側にまた白い粘土で包んで、その上からまた厚さ半メートルの土で固められていました。木炭には湿気を防ぎ、乾燥させる役割があって、白い粘土は磁器を作る原料にもなる密封性の強い土で、その上からまた土を固めて包んでいたので、真空の空間が作られたのです。盗掘にあったり、また破壊されたりしたこともなかったので、女性のミイラも完璧にその形を保つことができました。

馬王堆漢墓の説明はここまでにさせていただきます。ご清聴有難うございました。

かんぺきへいき

う 3

推荐第4篇:成都日语导游词

成都の概要:

成都市がある四川省は三国時代に劉備と諸葛孔明が活躍した蜀国の国があったことで有名である。パンだの故里として知られている。四川料理もおいしくて、古来より天の国府と呼ばれてきた。農作物の産地という意味である。 四川省はまた、巴蜀とも呼ばれる。3000年前に四川省の地が巴と蜀という二つエリアに分かれていたから。二つの国は両方とも奴隷制社会、2200年前の戦国時代になって秦の始皇帝に滅亡されてしまった。

成都市は西南エリアの重要な商業、貿易、金融、農業、工業の中心で交通要衝でもある。市の総人口約1200万人、市内は約750万人。市の花は芙蓉,市樹はイチョウ。

歩き方:成都と聞けば思い浮かぶのは三国志、麻婆豆腐,パンダ、、と日本人が連想する中国そのままのイメージだ。実は成都の周りは見る価値がある遺跡がいっぱいいる。 成都市内の見所: 武候祀: 市内の三国志で有名な蜀の国の遺跡武候祀。敷地の面積は37000平方メットルで赤い壁に囲まれている。遺跡は劉備殿、孔明殿、三儀廟、劉備の墓から成り立つている。珍しいところでは君主と家臣を一緒に祭った。 中国でも珍しい祀堂となった。劉備殿の手前の壁に刻まれている諸葛孔明の肉筆出師表が中国書道の逸品である。 杜甫草堂:

詩聖として名高い唐の大詩人杜甫(712-770)は唐の末頃農民蜂起“安史の乱れ”によって成都に避難することになった。翌年からは友人の助けを得て町の西に草堂を建てた.その後、杜甫は4年あまり成都に住み、240首以上の詩を作り、その生涯で最も充実した時期をここで過ごしたともいわれている。杜甫先生の一生の中に一番幸せな時期を暮らしました。草堂の中心は詩史堂で、両側は陳列室となっている。杜甫の生い立ちと現代に与える影響に分かれている。このほかに草堂博物館があり、こちらには杜甫研究に有用な資料が収められてる。杜甫先生のもとの住まいをまねて立てられた草堂も見学できるようになった。中に入ると竹林の中に茶館や石のテーブルや椅子が多数あり、麻雀をしたりトランプをしている人々を見ながら、のんびりすることができる。 望江楼公園:

市の南に錦江の畔にある公園。四川大学とつながっている。現地の人々が唐代の上流詩人を記念するために建てられた公園。中には竹がいっぱい植えられて、約百種類ぐらいがある。別名は竹の公園。 成都パンダ繁殖研究基地:

成都の郊外、東北に位置している。広大な敷地の中にはパンダの保護、繁殖、生態研究のために設立した。今はパンダだけじゃなくて、レーサパンダ、孔雀、白鳥などの珍しい動物も飼育されて、自然な環境で生息している。また、入り口の博物館の中にパンダ、及び何百年前の動物の化石が見られる。動物の知識が勉強できる。 成都郊外の見所: 青城山:

成都から西へ70キロのところにある海抜1600メットルの山々。一年中で緑が覆われており、だから青城山と呼ばれる。青城山は道教ゆかりの観光地である。現在でも山の中に宮殿が点在している。そこで奥の同士が修業している。 山の中にはたくさんの桟道がある。入り口から入て、40分ぐらいの山道を登ると、舟に乗って湖を渡すと、ロープウエがある。それに乗って、山の真ん中へいける。青城山の旅は山の真ん中まで、観光すれば半日でも十分です。 三星堆博物館:

成都の北40キロにある博物館。発掘現場で建てられた博物館ですから、見る価値がある。古来より鴨川という川のそばに三つの巨大な土台がある、現地の人々が三星堆と呼ばれている。近年、土台の土がレンガを作る原料として取られている。半分しか残っていないんです。1986年、ここから約3000年前の遺跡が見つかった。青銅器、玉器、金箔、象牙など千点以上の文物が出土した。青銅器隈取りに体表されるその様式が漢民族のそれぞれは明らかに異なる。何の民族が創造した文明ですか?今までも謎です。この民族が3500-4000年前に蜀の国で独自の高度文明の花を咲かせていたことが証明された。外国でも大きく報道された。博物館は4階建てで、一階が古蜀文明、2階が青銅器、3階が装飾品、4階三星堆の研究の紹介。今、博物館の前に一階建ての付属博物館が建てられた。たくさんの玉器、陶器が展示されている。

パンダは可愛がる動物。

基本知識:

体重80-130キロ、体長130-150センチ、背中までの高さは70-80センチ。立ち上がると170センチにもなる。生まれたときの平均体重は100-150グラム、全身薄いピンク色をしており、わずかに白く短い毛が生えている。10日間までにうっすらとパンダの特徴である白黒模様が現れる始め、4週間あと、その模様がはっきりとするようになる。また、生後6-8週間までに目が開き、3ヶ月後、

自分の力で歩きあわれるようになる。また、9ヶ月で離乳、18ヶ月で親離れする。親離れ後は通常独自で活動する。団体活動しない習慣がある。

発情期は通常3-5月だが、そのうちメスが妊娠可能な日数は1-3日程度と言われる。発情期には頻繁に鳴る。普段はあまり鳴らないのに、羊のような鳴き声をあげたりする。妊娠期間は80-180日で、出産時期は8-9月中旬、一頭しかない。二頭でそれ以上はめったにない。パンダは 人間並べに相手を選べる。生殖可能な年齢でも達しでも生殖器が未発達で生殖不能ということもある。飼育したで自然交配が大変難しい。

パンダの食事は竹や竹の葉を好きでたまには小動物も食べる。また、飼育したではリンゴ、ニンジン、サトウキビ、牛乳も与える。しかし、主食が竹であることには相変わらず、竹以外の食べ物が全体の1パセンッドにしか過ぎない。パンダは竹という栄養価値の低い植物をと主食する。しかし、彼らはもともと肉食動物である。今は竹ばっかり食べて草食動物のように栄養分を十分吸い込まれない。そのため、大人のパンダで1日12-16キロの竹をたべなければならないんです。調査によると、100グラムの竹から17グラムの栄養成分を取れない。対照的にしかなどの草食動物は100グラムから80グラムの量を栄養分として吸い込まれる。

大人パンダが一日に食べる12-16キロの竹から、取り込まれる熱量を計算すると、わずか4300-4500カロリーにしかならない。そして消費カロリーは一日約4000カロリー。食べ物から取り込む熱量は殆どを消費しており、蓄えることができない。その無駄なエネルギーを使うわけにはいかない。そのため、パンダはおきている時、ひたすら竹を貪り食い、そのほかの時間の半分は寝ることによってエネルギーの節約に努めているのである。 竹であれば、どんな種類の竹でもよいわけではなく、パンダが食べる種類は決まっている。例えば、冷箭竹、大箭竹といった竹が好き、竹はその種類によって数十年ぶりに一回の周期で一気に花を咲く、それて枯れてしう。この時期でパンダが病気でなくなったり、食べ物が少なかったりの原因でなくなった。今、中国で野生のパンダは中国では1000頭ほどしかいない。しかし、パンダの化石の研究で南のベトナム、ミャンマーにかけて広く分布している。

パンだの数が減った理由として:

1:繁殖率や生まれた赤ちゃんがほかの動物に比べて低いこと。 2:珍しい動物のため人間に捕られる。

3:人間の活動原因で生息地面積が狭くなる。

生息地面積の減少、急激な人口増加による森林が伐られる。大きな要因と呼ばれる。

パンダの保護:

中国では1957年からパンダの保護が始まった。1963年、最初の保護区が指定された。

推荐第5篇:武侯祠日语导游词

武侯祠

武侯祠へ途中案内

皆さん、おはようございます。今日はいい天気ですね。皆さんもお元気でしょうか。まず今日のスケジュールについて、ちょっと説明させていただきます。午前は武侯祠を見学します。そして市内のレストランで食事をします。午後杜甫草堂へ行きます。ここから武侯祠(ぶこうし)まで約15分ぐらいかかります。じゃ皆さん窓の外をご覧ください。この川は「錦江(きんこう)」と呼ばれています。錦はにしきという文字です。三国時代の時蜀の国は錦織(にしきおり)がとても盛んでした。現地の人がその人で錦織を洗った後、その錦織の色が鮮やかになりましたので、その川は「錦江」と呼ばれていました。そのため成都のひとつの別名は錦城あるいは錦官城と呼ばれるようになりました。

はい、皆さん目の前のその橋は「万里橋(ばんりきょう)」と呼ばれています。これについて中国には昔からある物語があります。皆さんご存知ですか。「千里の道は一歩から」ということわざですよ。その時紀元223年頃、三国時代時、蜀(しょく)の国と呉(ご)の国の関係は戦争のせいで悪くなっていました。二つの国はもし同盟(どうめい)を建てないと強い魏(ぎ)の国と抵抗できないため。蜀の国の丞相(じょうしょう)諸葛孔明(しょかつこうめい)は費炜(ひい)という幕僚(ばくりょう)を呉の国に派遣しました。費炜が出発する前に諸葛孔明は費炜の手を握ぎりながら「千里の道は一歩から」と言いました。費炜は一生懸命努力しましたので、二つの国は仲良くなりました。

今、この時間を利用させていただいて、武侯祠についてちょっと説明したいと思います。

武侯祠は成都の单にあり、三国時代(さんごくじだい)の劉備玄徳(りゅうびげんとく)と諸葛孔明を祭っている所で全国歴史が一番古い三国文化の博物館です。紀元223年4月に劉備玄徳が白帝城(はくていじょう)で亡くなり諸葛孔明は彼の遺物(いぶつ)をここに埋葬(まいそう)して以来。すでに1780年余りの歴史を持っています。

はい、皆さん、そろそろ武侯祠に着きます、貴重品をお持ちください。足元に気を付けてください。では、降りましょう

武侯祠

ここは黒い壁があります。これは中国の礼儀(れいぎ)では重要な人物がここに祭られていると言う意味です。はい、ここは武侯祠の正門です。皆さん、上の額(がく)をご覧ください。「漢昭烈廟(かんしょうれつびょう)」が四つの文字が書いています。「漢」は劉備玄徳が打ち立てた蜀漢政権(しょっかんせいけん)という意味で。「昭烈」とは劉備なくなった後の贈り名(おくりな)です。「廟」は偉い人がなくなった後祭られた所です。「ここは武侯祠で諸葛孔明を記念して建てたものです。それなのになぜここには“漢昭烈廟”と書かれているのだろうか……」そうです!これは成都武侯祠の特色の一つです。つまり、この武侯祠は漢昭烈廟と合併(がっぺい)されているのです。武侯祠と漢昭烈廟は元元別に建てられ、別々に存在していました。蜀漢の皇帝である劉備玄徳を祭った漢昭烈廟に足を運ぶ人は少なくて。これに対して、彼の部下にあたる諸葛孔明を祭る武侯祠に参拝(さんぱい)する人は多かったのです。臣下(しんか)が君主(くんしゅ)を上回る(うわまわる)ことなかろうという理由で、2つを1つに合併したのですが。でも、人々は皇帝の劉備玄徳を上回る諸葛孔明の才能と人格を偲んで、2つを1つ合併された後にここを武侯祠と呼んでいるです。

はい、皆さん、私について入りましょう。これは武侯祠の地図です。今、私は見学の手順を説明したいと思います。まず「三絶碑(さんぜつひ)」などの石碑を見学してから、二門を経て、文官廊(ぶんかんろう)と武将廊(ぶしょうろう)を通り、劉備玄徳殿へ行きます。後ろの諸葛孔明の記念堂「武侯祠」に行き、三義廟(さんぎびょう)の後、劉備玄徳のお墓を見学します。ここは1時間半ぐらいかかると思います。

はい、皆さん、こちらへどうぞ。これは「三絶碑」です。これは唐の時代の物で非常に有名です。この碑(いしぶみ)の高さは2.9メトールで、厚さは約20センチです。唐の時代の時、宰相(さいしょう)(今の総理大臣にあたる)裴度(はいど)という人が文章が書いて、全文には諸葛孔明を褒める言葉ばかりです。そして、当時孔明のような有能な人が見つからないという現実を嘆いています。また、この石碑は唐の有名な書道家(しょどうか)柳公卓(りゅうこうたく)と彫刻(ちょうこく)の達人(たつじん)魯建(ろけん)の作

2 品で。文章、書道、彫刻はいずれもすばらしい物で、「三絶碑」と言われるようになったのです。

はい、向こうに「明碑(みんひ)」と呼ばれています。名前の通りに明の時代の石碑です。上には武侯祠の規模や文物などの内容が書かれています。武侯祠の歴史を研究する貴重な資料になっています。下の動物は何ですか。皆さん、あててみてください。一つの説では、もともとこの辺ではよく水害が起こり、亀は水害の元凶(げんきょう)だと考えられて、処罰(しょばつ)するため、この重い石碑を背負わせて、また世間の人々にこれから悪いことをしないよう警告しているのです。もう一つの説では、これは亀じゃなく。竜の息子「ビーシ」と言うものです。権力、長寿(ちょうじゅ)の象徴と認められて、古代の宮殿(きゅうでん)にはよく見られます。

はい、ここは二門です。上の額をご覧ください。「明良千古(みんりょうせんこ)」という四つの文字が書いてあります。「明」は古い文字で、目辺になっています。劉備玄徳は目が鋭いという意味です。「良」はすばらしいという意味で、蜀の国の幕僚たちは忠誠で、偉い専業をしていたということです。「千古」は彼たちの功徳が永遠に続いていくという意味です。

これは「出師の表(すいしのひょう)」です。この文章を書道する人は单の单宋の有名な武将岳飛(がくひ)です。「前出師の表」は孔明が227年に始めて魏(ぎ)の国に出兵する時、皇帝の劉禅(りゅうぜん)に差し上げた上奏文(じょうそうぶん)です。国を盛んにするための教訓や人材の推薦。また、白帝城で受けた劉備の望みを実現すること、必ず漢王朝を再興(さいこう)するという決心が書かれています。「後出師の表」は孔明のもう一枚の上奏文です。後世(こうせ)に大きな影響を与え「国のために力を尽くして、死んでもやめない」と言う言葉はここから出たのです。单宋の有名な武将の岳飛は涙をこぼしながら、これを書いたのです。昔から出師の表を読んで涙をこぼさない人はいないと言われています。この書を全体から見ると前半は気持ちが落ち着いて書いたような感じがしますが。だんだん書くスピードが早くなり、前半の楷書(かいしょ)から草書(そうしょ)に変わって、岳飛の気持ちが高ぶっていく様子が現れています。

はい、今劉備玄徳殿へ参りましょう。目の前に一つの大きな鼎(かなえ)

3 があります。三本の足があるは入れ物のことを「鼎」と言います。昔この鼎では「紙銭(しせん)」を焼きました。「紙銭」というのは死んだ人が天国で使う紙で作ったお金のことです。あの四本の足がある物は香炉(こうろう)です。清の時代の皇帝が娘がお嫁に行く時彼女にありたプレゼントで六匹の龍の模様が描かれています。劉備玄徳の前に置かれたのはここが皇帝の場所だと言うことを強調し、また皇帝の位と権力も表現しています。

皆さん、上の四つの文字をご覧になってください。「業紹高光(ぎょうしょうこうこう)」と四つの文字が書いていますね。一つめの「業」は手柄(てがら)という意味です。つまり劉備玄徳は蜀の国を作ったということですね。次はの「紹」というのは越しえるあるいは当たるという意味ですよね。高い「高」は前漢時代の最初の皇帝劉邦(りゅうほう)を意味します。光りというのは後漢時代の劉秀(りゅうしゅう)という皇帝の名前です。この額の意味は劉備玄徳が蜀の国を建てた功績はそのふたりの皇帝を越えるに値するという意味ですね。ようするに劉備玄徳を褒める言葉ですね。

もうちょっと前に行きましょう。

この金泊張り(きんぱくはり)の塑像(そぞう)は劉備玄徳の像です。正々堂々(せいせいどうどう)の顔をしているでしょう。伝説によると劉備玄徳は耳が大きく肩までのびています。中国のうらないしの話によると耳が大きい人は幸せがある人です。もう一つは、劉備玄徳の手も非常に長いです。膝まで、伸びたそうです。皆さん、手を膝までのばせますか。

劉備玄徳を記念する所は四川省にありますが、実は劉備玄徳は四川省出身ではないですよね。彼は河北省の涿洲(たっしゅ)という所に生まれました。もともと草鞋(わらじ)を編みながら、あちこちを流浪した人で友達と付き合うのは熱心な人ですから、たくさんの友達がいました。中国には昔から一つの言い方があります。友達をもらえば、天下をもらえるという言葉ですね。それじゃ、皆さん<三国志>はご存知ですよね。今から約1800年前中国の後漢の時代、黄巾の乱が起きました。劉備玄徳と関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)が桃ばたけの誓いを通じて義理(ぎり)の兄弟になりました。彼らは黄巾(こうきん)の乱をしずめる戦いに参加しました。初めは優秀な幕僚がいなかったので、戦争でよく失敗しました、紀元207年劉備玄徳は諸葛孔明の家に三回ほ

4 ど訪ねて中国を統一する気持ちを諸葛孔明に真剣にうったえました。諸葛孔明はそれを感謝するため劉備玄徳の丞相になりました。そのあと、諸葛孔明の協力のおかげで、劉備玄徳の勢力はだんだん強くなりました。やっと紀元221年蜀の国が建てられました。その二年後、関羽の仇(かたき)を討っために呉の国に討伐(とうばつ)に行きました。しかし、失敗でした。それで、白帝城で病気になって残念ながらなくなったんです。

劉備玄徳が蜀の国の皇帝として国を建てたのは、もちろん、第一は人材を大切にしたからですね。有能な人を求めたわけなんです。軍事のことは関羽、張飛にまかせ、政治は諸葛孔明にまかせていたっと言われています。人材はもちろん重要なことですね。現在の会社にたとえるならば皇帝は社長のようなですね。もし皆さんが社長ならば何か一番大事だと思いますか。大事なのは優秀な人材を部下にしして彼らの力を十分に発揮させることでしょう。その点においては劉備玄徳はとても優秀な社長だったわけですね。また、草鞋を編んでいた彼が人材を得て国の皇帝になって部下をうまく使いこなすことができたのは彼の人徳(じんとく)がすばらしかったからでしょう。現在の社長さんにも必ず求められるこどですよね。いくら優秀な部下がいたとしても上手に使いこなせなければ、その会社はよい会社とは言えませんよね。やはり人徳がよい

優秀な部下がうまくかみあってこそ、よい会社ができるわけでしょう。劉備玄徳のもとではそれがうまく行われていました。

はい、皆さん、この看板をご覧ください。これは「隆中対(りゅうちゅうたい)」です。「隆中」は地名です。「対」はふたりの話という意味です。紀元207年の冬ごろ劉備玄徳は三回ほど諸葛孔明の家へ訪れたことがあります。諸葛孔明は「天下三分(てんかさんぷん)の計」を提案(ていあん)しました。まず中国の西单部今の四川省と雲单省(うなんしょう)と貴州省(きしゅうしょう)を占領して呉の国と同盟をたてて強い魏の国に抵抗(ていこう)すること、そして、チャンスを見て、中国全土を統一しましょう。劉備玄徳は諸葛孔明をもらってから、ほんとに「水魚(ずいぎょ)のまじわり」のような感じがして、まったく諸葛孔明の言うとおりに頑張りました。そのふたりの会話をまとめて出来た文章は「隆中対」です。これは三国時代の大切な文章です。

はい、皆さん、こちらへどうぞ、これは関羽殿です。上の額をご覧くださ

5 い。「義薄雲天(ぎはくうんてん)」と書いてあります。中国には「君と君の付き合いは水の如し」という諺(ことわざ)があります。関羽はたいへん義理が大事にする人です。義理は関羽にとって命より大事なことです。雲や天などは関羽の義理と比べたらまだまだ薄いと言う意味です。

これが関羽の像です。その帽子は劉備と同じものです。元の時代、関羽の

皆が学ぶべき手本として大事にして。その時から、関羽が「関皇帝」或いは「関帝」と呼ばれるようになりました。至る所に関羽を記念する廟があり、皆関羽廟と呼ばれています。関羽は劉備と同じような帽子をかぶっていますが、中国の歴史上、皇帝を除き、一般の武将でこの帽子をかぶっているのはただ関羽だけ。文人の中では中国の聖人といわれている孔子だけです。関羽の身分がとても高いです。三国時代、関羽は五虎大将(ごこうだいしょう)の一番目と言われました。虎のように勇猛な武将が蜀の国には五人がいて、みな武術が得意です。中でも関羽が一番強かったということです。

隣には関羽の息子二人、関興(かんこう)と関平(かんぺい)の像があります。関興は何度も孔明について魏の国に出征したことがあります。最後、病気で死んでしまいました。関平は関羽と伴に呉の国に捕らえられなくなったんです。ここには関羽の部下周倉(しゅそう)の像もあり。お話の中の人物ですが、いつも黒い顔つきをしている勇猛な武将で、関羽と一緒に斬られたそうです。

はい、皆さん、こちらへどうぞ。この両側には文官廊と武将廊です。劉備玄徳の幕僚たちの像がそれぞれ14体がある。皆非常に忠実な人物でした。劉備玄徳より近いほどその身分が高いわけだ。そういう話があります。

庞統(ほうとう)、蜀の国の軍師の一人です。彼は孔明と共に「一対の鳳凰(ほうおう)」と例えられています。二人の才能はほぼ同じだと言われています。その時、二人の内一人でも得ることができれば、天下を手にすることができるいわれていましたが、ただ惜しいことに36歳の若さて死んでしまったそうです。庞統がその時もし死んでいなければ、中国の歴史は今と変われっていたかもしれません。

簡雍(かんゆう),文官で、弁舌(べんぜつ)に得意な人です。劉備玄徳と話し合うときにもよく冗談を言い、劉備は大変気に入り、自分の妹を彼に紹

6 介しました。彼はゴマするのがうまかったということです。

呂凱(ろかい)、少数民族を管理する上では役に立った人物です。その時背が低い人は頭がいいという言い方があったように、雲单省出身の呂凱は背がずいぶん低いですが、頭が非常に明晰(めいせき)でした。戦うより心を攻めるのが第一と言う孔明の政策を忠実に守ったので、就職後は再び反乱がありませんでした。

費炜、紀元223年、呉の国と同盟を結ぶためにかれは孔明に派遣され、出発する前、見送りに来る諸葛孔明の手を握りながら「千里の道は一歩から」と言いました。この言葉はそのまま諺になって、人々によく使われています。

傅彤(ふとう)、武将の一人です。なぜ文官廊に置いたのですか。簡卖な原因で向こうには置き場がないですから、その人は劉備玄徳の身周りを守る一人として非常に<三国志>にうまく描きました。彼は劉備玄徳の警衛係一人だったそうです。公元222年、劉備玄徳は呉の国へ出兵して敗戦されて逃げ戻った時、彼は一番後に劉備玄徳を守った、最後まで一人ばかりで戦う。

董允(とういん)、諸葛孔明のお手伝いさんの一人です。いつも素朴な生活を暮らしていたそうです。

邓芝(とうし)、外交官の一人です。

陳震(ちんしん)、蜀の国の古い幕僚の一人です。最初から死まで劉備玄徳と伴ったそうです。

蒋琬(しょうわん)諸葛孔明の跡継ぎの一人です。その時、内政(ないせい)はこの人任せたそうです。

董和(とうわ)、董允の息子、非常に素朴な人、貪慾も何もない人。

秦宓(しんび)、弁舌が強いです。

楊洪(ようこう)、内政を管理する役人です。

馬良(ばりょう)、文章を書くのが得意です。

程畿(ていき)、

皆背が低いです。なぜならば原因は二つがある。一つは单方の人はもともと背が低くて生まれつきです。もう一つは年代により作り方も違います。

張单、冯习,傅佥,向宠,廖化(前出師の表に出て信頼できる人)

黄忠(こうちゅう)、この老人の像は黄忠です。この武将は高齢でしたが

7 非常に強く、62歳でもまだ一キロのご飯を食べることができ、五虎大将の一人に数えられました。劉備玄徳は「亀の甲より年の功」と褒めました。

姜維(きょうい)、チャン族、孔明の後継者と言われ、九回ほど、魏の国に出兵したことがありますが、結局すべて失敗し自殺しました。

王平(おうへい)、非常に穏やかな人です。「泣いて馬稷を切る」と言う物語の中で出ている人物の一人です。武術が強くなったそうです。非常に忠実な人だった。特に街亭(がいてい)と言う所を取る時何回も馬稷(ばしょく)に勧めたんですが、馬稷はわがままで失敗して、諸葛孔明に首されちゃった。しかし、勉強不足で亡くなった時は漢字10個ぐらいしか書けないそうです。例えば、こんにちは、すみません……自分の名前だけ書けろ。

馬超(ばちょう)は五虎大将の四番目です。曹操は彼を大変恐れていたそうです。生きている間、蜀の国の北の境をずっと守っていました。曹操は馬超のお父さんが殺しました。「馬超不死、我无葬身之地」——曹操。

張翼(ちょうよく)、この像はちょっと目つきが鋭いですね。きつい顔をしないと武将とは言えないでしょう。古い武将の張翼は姜維とともに魏の国に征伐した時矢に当たって死んでしまったそうです。

趙雲(ちょううん)、とても勇猛な武将で五虎大将の三番目です。長坂坡と言う所で一人だけでも曹操506人の強い武士を首した。伝説によりますと、ある日彼は非常にうれしくてお酒を飲みすぎて酔っ払いになって病気にかかったそうです。

はい、今張飛殿に着きます。上の額をご覧ください。「誠貫金石(せいかんきんせき)」と書かれています。張飛は義理に厚い人物だったし、国をとても愛していたから、その意志は金でも石でも貫く(つらぬく)という意味です。これは張飛の像です。くるい顔つきですね。眠をカツと見開いた様子はとても怖いですね。張飛は劉備の義理の弟で、五虎大将の二番目です。長坂坡と言う所で一人数十万の曹操軍前に立ち寒かった物語を中国で知らない人はいないでしょう。関羽の仇(あだ)を討ちのため呉の国へ出兵した後、寝ている間に自分の部下に斬られてしまいました。それで、寝巻き(ねまき)を掛けたままの像なのです。伝説によりますと、張飛は寝ている時も眼を開じないそうです。張飛が結婚したかどうか、三国志には記載されていませんが、隣には義理の息

8 子と孫の像が置いてあります。孫と息子の年齢の差があまり大きくなくみえますが、それは死んだ時の年齢に合わせて作ったからです。

はい、皆さんこちらへ、どうぞ、後ろは諸葛孔明を記念する「武侯祠」です。劉備玄徳殿は他の建物より一段高く作ってあります。何故かと言うと、劉備は蜀の皇帝なので、それだけ身分も高いというわけです。

はい、上の額をご覧ください。「武侯祠」と書かれていますが、この文字は郭沫若(かくまつじゃく)によって書かれたものです。「武侯」は孔明の贈り名です。

屋根の上には弥勒菩薩(みろくぼさつ)の像が置いありますが、これには二つの説があります。一つはただの飾り、もう一つは孔明を迎えために極楽世界(ごくらくせかい)からやってきたのだと言う説です。ほかにも色々な像がありますが、それに少数民族が孔明を偲ぶ(しのぶ)ために作ったものです。孔明が生きている時、沢山の農具(のうき)を発明し、後世に優れた技術を残しました。この上には好望という龍の息子の彫刻がありますね。この建物がいつでも無事なことを祈っているためです。

はい、上の額をご覧ください。「名垂宇宙(めいすいうちゅう)」と四つの文字が書かれています。諸葛孔明の名前は宇宙のようにいつまでも伝えられる。また、諸葛孔明より頭がいい人がいないと言う強調的な言い方です。

両側には有名な対聯の一つがあります。敵の心を攻めれば、敵は自ら(おのずから)消えていく。大昔から兵隊さんが戦争が嫌いです、勢いをうまく分析しなければ国が作出した政策は誤まりが出てしまいます。その後、蜀の国を治める人は深く考えなさいと言う意味です。

羽毛の団扇(うちわ)を持って、穏やかな顔つきをしている像が孔明の像です、左側に剣(つるぎ)を持っている侍(さむらい)は軍師の権力の印です、右側に本を持っているお手伝いさんは政治の印(しるし)です。

諸葛孔明は紀元181年、山東省に生まれで27歳まで湖单省の北にある襄陽(しょうよう)の隆中(りゅうちゅう)で晴耕雤読(せいこううどく)の生活を送っていました。「三顧の礼(さんこのれい)」のお蔭で劉備玄徳の政治集団に参加して、劉備玄徳の一番重要な幕僚になった、諸葛孔明がないと蜀の国が建てられないそういう話があります。

9 孔明の像の左側には太鼓(たいこ)が一つ掛けてあります。実は、これはもともと少数民族が使う炊事用品の一つでしたが。諸葛孔明が昼間はこれを利用してご飯を炊き、夜、戦いになるとこれを叩いて警報を発すと考え出しました。そのため、人々はこれを「諸葛太鼓」と呼んでいます。この鍋は銅で作られ、大体二十人分のご飯を炊くことができるそうです。

はい、皆さん、こちらへ、どうぞここには杜甫が昔武侯祠を尋ねた時に書い詩があります。

蜀相(しょくしょう)

丞相の祠堂(しどう)何れ(いずれ)の所にか尋ねん 錦官城外 柏森森(きんかんじょうがいはくしんしんたり) 階に映ずる碧草(へきそう)は自ずから春色(しゅんしょく) 葉を隔てる(へだてる)黄鹂(こうり)は空しく(むなしく)好音 三顧頻煩(さんこひんぱん)なり天下の計

両朝開済(りょうちょうかんさい)する老臣(ろうしん)の心 出師(すいし)未だ(いまだ)かたざるに身先ず死す(みまずしす) 長く英雄をして涙を襟(きん)に満た使む(みたしむ)

上を見ると「淡薄明志(たんはくめいし)、寧静至遠(ねいせいちえん)」と八つの文字が見えます。これは孔明の子供を戒める本から、出た言葉です。素朴な生活をすれば、志は明るい、静かにすれば、その考えは遠いと言う意味です。これは中国の道教の思想で、欲望を抑えれば、志(こころざし)が高くても実現できるということです。特に身分が高い人にとって最も大切なことです。

ここは三義廟です。ここに祭られているのは劉備玄徳とその義兄弟の関羽、張飛です。「桃園(とうえん)の誓い」という物語を記念するため、造られました。

三義廟側には喜神坊(きしんぼう)と書かれた大きな石があります。これは現地の風習の一つです。毎年旧暦の一日から十五日まで、武侯祠を遊覧する習慣があります。喜びの神を迎えるためですか、喜の神というのは、劉備玄徳、

10 関羽、張飛のことです。もしこの三人が自分の家を訪ねてくれば、その一年は無事に楽しく過ごすことできます。ですから、人々はここにきて、三義廟にお参りをし、三人の人形、玩具やなどを買って帰り、守りの神様として大切にします。

ここは劉備のお墓です。「千秋凛然(せんしゅうりんぜん)」とは劉備玄徳は威風堂々(いふうどうどう)としており、いつまでも人々に偲ばれるという意味です。「漢昭烈陵」とは、ここが蜀の皇帝のお墓だと言う意味で「昭烈」は劉備玄徳の贈り名で、「陵」はお墓の意味です。

この墓は高さ12メートル、周辺は180メートルです。紀元223年4月に劉備玄徳は夷陵(いりょう)の戦いに敗戦され、白帝城で病死しました。しかし、劉備玄徳の死体が確かにこの墓の中に埋葬しているか、実は現在でもまだはっきりしていません。ここは蜀の都(みやこ)ですから、皇帝の劉備玄徳が死ねば当然ここに埋葬されるべきで、歴史の本にもこのことを載っているという説があります。もう一つの説がありますが、白帝城はここより随分離れていますから、飛行機もバスもない時代、馬車(ばしゃ)だけで都の成都まで運んでくるのは難しくて不可能だと主張しているということです。

しかも、この千年間、一度も盗掘(とうくつ)されたことがないと言われていますが、これについては一つの物語があります。唐の時代、二人の泥棒がある真っ暗な夜に穴を掘って中に入りました。しかし、不思議なことに、どこからか声が聞こえてきます。近づいて見ると劉備玄徳と諸葛孔明が碁を差しています。しかも関羽と張飛の二人が側に立って、じっとこちらを見ています。二人は仰天(ぎょうてん)し、慌てて逃げようと思ったとき「待ちなさい、わざわざ来たのだから、一杯飲んで行きなさい」と声を掛けられました。二人は慌てて差し出されたお酒を受け取ると、一気に飲んでしまって、大慌てて逃げ出していきました。その瞬間、大きな雷が鳴りました。その後帰った二人はそのまま病気にかかり、死んでしまいました。劉備玄徳のお墓を発掘(はっくつ)してはいけないと言う話がこの当たりに広まったということです。

実は本当の理由は二つがあります。一つはもし発掘すると、中の出土品(しゅつどひん)は保存が難しくて壊されてしまうかもしれません。もう一つは大変大きなお墓ですから。子孫のためにも残しておこうという理由です。それで、

11 今でも1800年前の様子が変わらず、先ほどと同じように鼎が一つ置いてあり、これもやはり、身分と権力の印です。

推荐第6篇:武夷山 日语 导游词

武夷山空港(ぶいざんくうこう)は中国福建省武夷山市にある民间飞行场。武夷山市街地の6km南の崇阳川附近にある。 世界遗产登録日:1999年 遗产种别:复合遗产 遗产所在地:福建省

「武夷山」は武夷山风景区と自然保护区を含んでおり、その中の风景区は周囲60平方キロにわたる。 武夷山で一番风光明媚な场所は九曲渓で、渓流の水は青く、清く、つづらおりの山の景色が楽しめる。武夷山で最も有名な峰や切り立った断崖絶壁の中の洞窟に配置されている神秘的な古代の棺おけ群も、ここ九曲渓の近くに集まっている。 また、九曲渓での川下りも、観光客に人気があり、10キロの距离を2时间近くかけてゆったりと自然を満吃することができる。

风景区内は宋の时代の窑(磁器を焼いたところ)の遗迹や、武夷宫などの见所も点在し、一见の価値がある。 武夷山自然保护区は中国东南部で最大の自然保护区で、中亜热帯の森林の生态系をほぼ完全に维持している。区内には山の峰が林立し、原始林も密生しており、景色は雄壮である。

武夷山は気候がよく、风光明媚で、悠久の歴史を刻んだ街であり、全国的に茶の名产地としても知られている。ここで栽培されるお茶は「大红炮」といわれ、

武夷山は中国福建省の北西部、江西省の东部、福建省と江西省の境目にある。総面积999.75平方キロメートルで、福建?语や福建省北方言、普通语が使われている。地域の资源のそれぞれ异なる特徴に基づき、西部の生物多様性、中部の九曲渓生态、东部の自然?文化景観、城村闽越王城遗迹の4つの保护区に分けられる。中心的な面积は63575ヘクタール、派生部の面积は36400ヘクタールで、同时に周辺に缓冲区の保护地帯が设置されており、面积は27888ヘクタールだ。

武夷山西部は世界の生物多様性保护の中心的地区で、世界の同じ纬度地帯で最もよく保存され、最も典型的、最大面积の中亜热帯の原生森林の生态系が分布している。东部は山と水が结びつき、人文と自然が有机的に融合し、山や谷、川など多くの美しい景色があり、长い歴史文化と多くの文物?古迹で有名だ。中部は东南部をつなぎ、九曲渓をもち、优れた生态的环境を保つ重要な地域だ。

武夷山には上述のような际立った意义と普遍的な価値を持つ自然や文化の资源を持つことから、中国政府が武夷山を世界自然遗产と文化遗产の両方に申请した。武夷山は1999年12月に国连の世界遗产リストに登録され、全人类共通の财产となった。

武夷山脉は中国の江西省と福建省の境界にまたがる。北は仙霞岭山脉に、南は九连山に接し、东北から西南方向に伸びている。长さは约550km、海抜は1,000m前后である。长江水系の赣江?抚河?信江と、福建省に流れる闽江などの大河の分水岭でもある。黄岗山(海抜2,158m)はこの山脉の主峰で、江西省铅山県と福建省武夷山市の境界线上にあり、中国大陆东南部の最高峰である。1979年には57,300平方kmの范囲に武夷山国家自然保护区が设置されている。

黄岗山を中心にした武夷山风景区が世界遗产に登録されている。风景区内は砂砾岩でできた比较的低い丘陵や山が広がるが、赤く切り立った崖や柱のような峰が多く、その间をめぐる渓谷ともども「武夷仙境」「奇秀甲东南」と称えられてきた。地理的には、平均350mの高度を持ち亜热帯気候に属するため、冬でも比较的温暖である。年间2,000ミリもの降雨が山を削り、云を生み、美しい九极渓を作り出している。

450种以上の脊椎动物、5,000种以上の昆虫、2,500种以上の植物が现在までに确认されている。野生のチャノキが自生している土地であり、ここで采れる茶叶から作る乌龙茶は香りと味が良いと评判で、特に岩に张り付くように育つ茶叶は「武夷岩茶」と呼ばれ、最高级品の扱いである。また、独特のフレーバーをもつ红茶ラプサン?スーチョンの产地でもある。 景観として特に美しいとされるのが「九曲渓」で、川岸には36の岩山が立ち并ぶ。ここを竹の筏で、およそ9kmほどを川下りながら、観光ができるようになっている。周囲の岩山の中でも特に有名なものが「玉女峰」で、外に见える岩肌が美しいので、美女にたとえられこの名前が付いた。その対岸には大王峰(530m)があり、玉女峰と恋爱関系にあるとされるが、その间に鉄板鬼と呼ばれる青黒い岩があり、これが邪魔をして二つの山が出会えないようにしているという古典文学的な伝説がある。 また、朱子学の开祖、朱熹が讲学を行ったとされる紫阳书院なども残っている。

土楼

カナダのケベックで開催されている第32回世界遺産大会において、中国福建省の客家(はっか)の「土楼」は、「世界遺産リスト」への登録が決まった。

福建省の西部と南部の山々に分布する「土楼」は、ユニークなスタイルと悠久な歴史・文化で広く知られている。「土楼」は宋代ひいては元代に築造され、明代の早期・中期において発展をとげ、明代の末期、清代、民国時代を経て円熟し、今日まで伝わってきたものである。丸い、四角い、楕円、弧状などの形の「土楼」は、世界唯一の、山間地域に築造された大型土レンガ式の建築物であり、独創性に富む土づくりの建築物芸術の粋と見られている。「土楼」は、山の地形に沿って築造され、分布も合理的で、中国の伝統的な建築物の「風水」の理念を吸収したもの。一族の人々が集まって住むための生活面や防御面の需要を満たし、山間部にあるわずかな平地や地元の土、木材、玉石などの材料を生かした「土楼」は、自らユニークな体系をなし、倹約、堅固、防御しやすいなどの特色を持ちながら、人々の美意識にもかなった土づくりの高層建築物である。近年、福建省の永定、南靖などの地域にある「土楼」は、修繕を経てさらによく保護されるようになり、世界文化遺産の登録を申請するに至ったのである。「チャイナネット」

厦门

グループのメンバー:

みなさん、こんにちは!我々は、\"海の庭\"コロンスを参照して今日。

今は中山の道路で车を运転する。アモイ中山路は、20世纪に建てられた最も繁栄商店街は、20代、30代、それはアーケードスタイル(床并木スタイル歩道制の下部の古い街、街路アーキテクチャですので、间の床の一部雨、太阳、の歩道の建设は、それゆえ)の名前のアーケードを渡すと、これは厦门の主要な机能です。中国南方の都市と都市、多くの东南アジア诸国でこのような运転床。これは主にアモイのアカウントに亜热帯に位置しており、太阳の前で、アーケードで雨も强い日差し、风や雨、歩行者の避难所では、无料でショッピングを歩いている。中山路は厦门、アモイ、文明の主要な商业通りですまた、通り、様々な完全な、国内の制品は、外国制品があります。

グループのメンバーは、フェリーには约6分、ここで私はあなたに简単にコロンスを绍介されます。ビューは、反対の岛コロンスは、この川の庐江は、また、海峡の幅600メートルの太鼓を収めた建物として知られて。 1.78平方キロメートル、人口19,000のコロンスエリア。宋、元代\"砂の状态の轮\"と述べた明コロンス肛门の前に。サウスウェスト岛のある大きな岩のビーチだったので、波が长年にわたって大きな穴、すべての満潮だった急いで、波が雷のような音が问题を洞窟、ビートの人々はそれを\"傍らストーン\"と呼ぶように、岛とも呼ばれるコロンス。国家重点景胜地、福建省\"トップ10\"の最初の景胜地です。

グループのメンバーは、この端子に端子が新たに1976年に、小さな桟桥の前に、1938年に建てられた组み込まれています。ここでは中国人労働者は海外に行って西欧列强の船の元の贩売は、我々は\"海の捕虏を、\"映画は、読み取り海の囚人\"\"その船をドックから出発です。ボートでは、この\"ピアノの埠头を建设渋滞の问题を解决するために。\"コロンスは\"岛の音楽は\"音楽のガス雰囲気にさらされるコロンス访问者のジャンプをすることですので、これはグランドピアノを开くようにビットではない参照してください!

岛の小さな観光大豆ロングアイランドのケーブルカーを除くグループのメンバ、および他の车両は、他の足楽しい时を过す。今我々はそれを见てコロンスヨーロッパの建筑様式を歩いた!

これは、英国领事馆、1844年に1870年建てられ、150年の歴史を持っている。 1840年、英国では、アモイの海への开口部远征军とアヘン戦争を开始したアモイの守备は、结果后退イギリス败北を冲突した。激しい戦闘の后1841年8月、イギリスは30只とアモイで3,500再侵攻以上、アモイ、コロンスの秋は、アモイは10日、5歳までのイギリス军舰

3、500部队を占领コロンス后退から取り残さ占めていた。イギリスは\"南京条约\"は英国のコロンス\"一时的なようにします。\" 1843年、イギリスの最初のセットがコロンス、アモイ、最初の领事の海军大尉を攻撃する领事馆。 1844は、2阶、総领事総领事この建物を建设した。ここに住む领事、することができますが、しかし、アモイの最高行政机関を占めている\"兴春の海への准备ロード\"ロード部事务所前に、20年后。これは、新しいオフィスビル1870年に建てられ、着陆ドアや窓、イギリス见て、非常に赘沢なインテリアですが、6セル。フロントは、特に1957年に领事犬の死の后组み込まれているライオンの犬の墓の、ダウン费やされている墓を钢管のフラグスタンドの横に砕けてしまう。

胡里山砲台へのご案内

皆様、これから胡里山砲台(ほうだい)へご案内致しましょう。「胡」は楽器―「胡弓(こきゅう)」の「胡」で、「里」は「さと」という字で、「山」は山です。

胡里山砲台は鴉片(あへん)戦争の遺跡です。1840年鴉片戦争が始まりました。アモイの駐在の砲兵部隊とイギリス砲兵との間で激しい戦闘を繰り広げました。当時アモイの海岸に九つの砲台がありますが、大砲(たいほう)には急所があり、皆一つの方向に向かって曲がることができませんでした。イギリス軍はそれを発見して、後ろから清の軍隊を攻めていき、砲台が突破(とっぱ)されました。イギリス軍は一部の大砲を引っ手繰って(ひったくって)いきましたが、一部は海に沈めました。そのため、今でもよくアモイ付近の海から当時の大砲を引き上げることができます。

[hide]鴉片戦争の後、沿岸の防衛を固めるために、当時では先進的な砲台を築こうと清政府が決心しました。それで、1891年に胡里山砲台の建設を始めました。5年間かかって、1896年に出来上がりました。

胡里山砲台は二つの部分からなっています。砲台のほかにもう一つの部分があります。それは蝋人形館です。 今日はまず大砲の展示、後は蝋人形館というコースにしましょう。約30分ぐらいかかります。それでは参りましょう。

皆様、ここでご覧になる石は玉石です。河の中の天然ナ物で、こんな大きいのは珍しいから、ここに展示されています。これは台湾のアリ山のツバメの洞、台湾から持っていました。ツバメの巣は取りにくくて、栄養もいいですから、値段が高いです。

さあ―、皆様、上の方にご案内します。皆様が今立っている台は中国の特別の作り方で築かれました。材料は普通のセメントではなく、石灰、砂、もち米の混合物(こんごうぶつ)で造られたもので、とても丈夫にできています。砲弾(ほうだん)に打たれても崩(くず)れません。

左側に据え付けられている巨大(きょだい)の大砲は1881年にドイツのクルップ兵器工場で作られたもので、3年間に渡って、アモイに運んできました。直径は280ミリで、全長は14メートル、重さは60トンあります。射程は16キロ、有効射程は6キロです。砲弾を入れるのに30分ぐらいかかるそうです。それに360度曲がることができます。「世界の砲王」と呼ばれています。この大砲は白銀6万両かかりました。当時5両白銀は一つの家庭3ヶ月の生活費で、6万両は3万家族の一年の生活費にあたります。しかし、こんな高い大砲は3回しか使われなかったそうです。そのうちの二回はテストで、一回は中日戦争で使われました。日本の軍艦(ぐんかん)は一隻(いっせき)打たれて逃げてしました。

この胡里山大砲はもうギネス世界記録に記載されました。

もともと大砲は2台ありましたが、残念なことで、文化大革命で鉄を取るためね一台は溶(と)けられました。

これらの小さい砲は皆明代か清代のもので、アモイの近くで引き上げたのです。トータルで約52台あります。

皆様、ここから台湾に所属している大担島、二担島、伍担島がお見えになります。金門島はちょっと見えません。望遠鏡(ぼうえんきょう)で向こうに一つの大きな看板が見えますが、その上に「三民主義統一中国」と書いてあります。

ここから大担の一番近いところまでは2.5キロしかなくて、泳いでもいけるようですが、政治の理由で50年以上も隔(へだ)てられました。香港もマカオも返還されましたし、中国人の一員として台湾が早く帰ってほしい気持ちがあります。

去年のお正月から、金門―アモイの定期便が就航になりました。今は一日に2便で、そして必要な場合は追加便をやります。例えば、今年の清明節、一日に10便追加しました。両岸の同胞往来は便利になりました。

それでは蝋人形館の方へ参りましょう。

推荐第7篇:长白山日语导游词

长白山日语导游词ツーリストの友人,私达は世界の高度の最も高い喷火口湖によって近く Changbaishang 山の顶上に既に私达のフィート,私达,ある非常に含んでいるギネスの世界记录全体の C hangbaishang 山日の池を现在今立った.それはまた Changbaishang 山最も持っている 最も壮大な优美な轴受けを最も持っている神秘的な色を, であるほとんど持っている人间 性を着色する自然な景色をである.Changbaishang 山日の池は棒になるために池になる 长い年齢を Changbaishang 山の火山円锥形の王冠,であるカルデラ,通る见つけられる.海面の上の水表面の高度は深く 2189.1 メートル,373 メートルへの量,油圧中间深さ 20 4 メートル,である北东区域の高水ボディ,中国の最も深く自然な湖である.长円,南北 の长い 4.40 キロメートルを,事拡张する 3.37 キロメートルをわずかに仮定する.集水领 域は 21.40平方キロメートル,9.82平方キロメートル,水の端の周囲表面积に 13.11 キ ロメートル水をまく.総 water-holding 容量 2,040,000,000 立方メートル.古代日の池に 名前を,それ「固定する」がツメン川 10,000 の水意味のもと,である Songhua の川,鸭 绿江およびツメン川江 3 つの大きい川の源ある.しかしこの 3 本の大きい川は,湿めさ せる北东アジアの地球を主要な河川ある.特に日の池の场所および神秘的な场所はある が,それから水漏出だけ水,実际に千年间の确かに流れに入ってしまわなかった.古代は 従って水が海兵队员から来たり,海の目を呼ぶことを言った.日の池にまた 1 つが大々 的にすばらしく混同する,それである日の池の manticore の复雑ある.1 つが早い広がり があるのを见, 闻く何がその寓话は前に 100 年以上に日の池の manticore がニュース各位 置に世纪, 関连の状态とますます激しく混同したこの世界の混同を引き起こされた私特に する导入をようで, 消えたことを见るために执笔记录初め, 最近の年绝えず広げた何人か の人々を见.古代时以来の,ので崇拝で prostrate Changbaishang 山日の池のあること への人々Changbaishang 山の尊敬へ人々でであってはなりません.顶上日の池を持たなか ったら, Changbaishang 山に従って威厳をつけたが, 命令北东アジア多数の山および地球 は, しかし, 彼女なることができる湿めさせる北东アジアの母性的な女性の同じ山を仮定 しなさいか.源に川が,川过さなかった生命をなかった.人々は Changbaishang 山の一 见への旅の长距离の 10,000 マイル悩みに,なぜ明かでない顶上を取付けるために困难を 経験しなければならない行くか.のた

めにあるとすぐこれが源地球の无数の事胸を育て るのを见る -- Changbaishang 山日の池.しかし日の池水に,また直接肯定的な母のミル クは地球から生体内の母から同じであることを来る,绝えず,残り流れるない来る.これ は同时発生あるか.固有人间性がに寻ねるこれは,シーク母,シーク复合体によってがある生命の起源ではないか.古代时以来,人々は Changbaishang 山日の池,畏怖を Cha ngbaishang 山日の池, ある尊敬する -- 崇拝 -- 日の池と呼ばれるドラゴンに人々の最も 高い崇拝の境界に従って日の池をあるドラゴン宫殿の眺めのためのどこでも言い分が崇 拝する.刘 Jianfeng は「Changbaishang 山川低い山野心で言い,能力」にアイリス版の ピークの下でそれ,ao 台湾を采取する 4 人のための探求が见る,持っている池からの事 水漏出を,金黄色,土器の容器,牙丁のように大きいの持っている角度を多数の长所なっ たり,下げる头部を引きつけられる水形のような波动ある.聴众の恐れは斜面,半分に, 突然闻いた强打,検讨を见ない,考えたりドラゴンを,従ってまた示す Longtan を上升 する.池の thunderclap の云が,とき,贝が付いている,そしてまだたくさんドラゴン 宫殿のドリルのために Wen Qisheng の中のの外の音は,一般に叫ぶ.また云は通常, 水中音,殴打のような音どらの jia ヒスイ,ドラゴン宫殿音楽のための叫び一般に急ぐ.また云,毎年 3 月に,来る北西からの黒云が急,日の池に呼ぶのを见ない大雨がある.白 黒 2 色だけ占めた后,severalth で読んだり,5 色の池によって突然昙ったり,行く南东 に発生する.severalth の 10 まで,云黒云をの中のまだ池に书き入れられる南东から,飞 ぶために见る.手は,日と共同で黒龙江のドラゴン王のハンドルドラゴン王,表面を祖先 の东シナ海の云池にする.今度は,すべての材料に従って示されて,人々だけ日の池と 呼ばれる崇拝は现在现われ, 消える池で, 再度関连している前に日に恐竜のように见えに 恐竜に関して鸟の guozhong 私の Hualong の化石によって壊れている発掘される, 加える 天の池の manticore を,想像できるいわゆる manticore を池にするために,である兆人の 年の恐竜の子孙根绝する结论の世界に渡す日の池の manticore にドラゴンにであるドラ ゴン宫殿,関连しているであるか.翻译: 游客朋友们,我们现在已经站在了长白山的山顶,我们的脚边,我们的眼前,就是以世界海 拔最高的火山口湖列入吉尼斯世界记录大全的长白山天池.它是长白山最具风姿,最为壮丽,最具有神秘色彩,也是最具人文色彩的自然景观.长白山天池

池位于长白山火山锥体顶部,是一座破火山口,经过漫长的年代积水而成糊.水面 海拔高度为 2189.1 米,最深达 373 米,平均水深 204 米,为东北地区最高的水体,中国最 深的天然湖.略呈椭圆形, 南北长 4.40 公里, 东西宽 3.37 公里.集水面积 21.40平方公里, 水面面积 9.82平方公里,水边周长 13.11 公里.总蓄水量 20.40 亿立方米.天池古有"图们泊"之称, 那是万水之源的意思, 是松花江, 鸭绿江和图们江三条大江的源头.而这三条大江,就是滋润东北亚大地的主要水系.天池的特别之处和神奇之处在于,它只有出水而没有入水,却千年不绝地流淌着.古人说它的水来自海上,故称海眼.天池还有一大奇迷,那就是天池怪兽之迷.其传说和见闻早有流传,文字记载始见于 100 多年前,近年源源不断传出有人看到天池怪兽出没的消息, 使得这个世界之迷和世纪之迷愈 演愈烈,相关情况,我将专门向各位做介绍.自古以来,人们对长白山天池的顶礼膜拜,并不是因为人们对长白山的崇仰.试想,长白山 虽然威严如仪,统领东北亚众山和大地,但是,如果没有了山顶的天池,她能成为滋润东北 亚大地的母亲一样的大山吗?没了源头就没了河流, 没了河流就没了生命.人们不远千里万 里来看长白山, 为什么非要历尽千辛万苦登上山顶呢?为的就是一睹这哺育大地万物乳的源 头——长白山天池.而天池里的水,也正像母亲的乳汁来自母亲的体内一样,来自大地的内 部,源源不断,流淌不息.这难道是一个巧合吗?难道这不是人类固有的寻根,寻母,寻找 生命之源的情结所系吗? 自古以来,人们崇仰长白山天池,敬畏长白山天池,是按国人最高的崇拜境界——对龙的崇 拜——来崇拜天池的,称天池为龙宫的说法比比皆是.刘建封在《长白山江山冈志略》 中说: 有猎者四人至钓鳌台,见芝盘峰下, 自池中有物出水, 金黄色,首大如盎,方顶有角,长项多须,低头摇动如吸水状.众惧登坡,至半,忽闻轰隆 一声,回顾不见,均以为龙,故又名龙潭.又云,池中雷声时作,音同炮弹,百里外犹闻其声,俗呼为龙宫演操.又云,平时水声澎湃,响如鸣金戛玉,俗呼为龙宫鼓乐.又云, 每年三月间,陡有黑云自西北来,大雨雹至天池不见.阅数日, 忽由池中突起五色云, 向东南而去,惟黑白两色居后.迨十数日,见云自东南飞来,仍入池内,而黑云不在其中.相传,黑龙江龙王会同天池龙王,朝宗东海云.现在,根据所有资料表明,人们不仅是对龙的崇拜而称天池为龙宫,联系到当前所传的天池 怪兽出没池中,再联系到世界上对于恐龙灭绝的定论已被我国中华龙鸟化石的出土所打破, 加上天池怪兽又像恐龙, 可不可以想象, 天池里的所谓怪兽, 就是亿万年前的恐龙的后代呢?

推荐第8篇:日语凤凰古城导游词

凤凰古城

各位朋友,大家好!

欢迎来到国家历史文化名城-凤凰古城参观游览! 皆さん、こんにちは。

ようこそ、有名な国家歴史文化都市である鳳凰へいらっしゃいました! 【总体介绍】

凤凰是典型的少数民族聚居区,居住着苗族,汉族,土家族等28个民族,城内的古代城楼,明清古院和石板小街,现在风采依然;城外有南华山国家森林公园,唐代修建的黄丝桥古城至今仍保存完好,这里不但风景秀美,而且人杰地灵。中华民国第一任内阁总理熊希龄,著名作家沈从文和著名画家黄永玉都是凤凰人,《边城》,《湘女潇潇》《湘西剿匪记》等十多部影视剧也曾在这里拍摄。

鳳凰は典型的な少数民族居住区です。ここにはミャオ族、漢族、トゥチャ族など28の民族を住んでいます。町の中には古代櫓や明・清時代の古い庭や石板小町等があって今、依然として昔の風景です。郊外には南華山国家森林公園、唐時代に建てた黄丝桥古城は今も残しています。ここには景色も美しい、しかも有名人も輩出しています。例えば、中華民国初代内閣総理熊希龄、有名な作家瀋従文、有名な画家黄永玉、皆鳳凰出身です。また、「辺城」、湘女蕭蕭」等のテレビドラマもここで撮影したのです。 【沈从文故居】

这里就是我国著名作家,考古学家沈从文先生的故居,沈从文故居是他的祖父沈宏富于清朝同治元年所建,是一座典型的南方四合古院。1902年沈先生诞生在这里并在此度过了他的童年和少年时期,1919年沈先生到北京开始了从文的艰苦生涯,创造了《边城》《湘西》等一系列文学作品,蜚声中国文坛,并写出了惊世之作《中国古代服饰研究》,他的作品与人品表现出了强烈的的一致:自然,厚朴,谦逊,勤奋,博大而凝重。故居的小天井用红色方石板铺成,天井四周为砖木结构古屋,正屋三间,厢房四间,虽无雕龙画栋,但显得小巧别致,古色古香,特别是这种雕花小窗很能体现湘西特色,格外引人注目。沈先生一生中所创造的500多万字的作品是世界的文学瑰宝,给后人研究旧中国和旧湘西留下了宝贵的历史资料。

ここは中国の有名な作家、考古学者である瀋従文先生の旧居です。瀋従文の旧居は彼の祖父沈宏富が清・同治元年に

1 建てたもので、典型的な南方な古い四合院です。1902年瀋さんはここで生まれて子供時代と少年時代を過ごしました。、1919年瀋さんは北京に行かれて、苦しい作家生活を過ごしました。この間、瀋さんは、「辺城」「湘西』等シリーズの文学作品を創作しましたので中国文壇で名声を広がっていました。また、驚きの『中国古代服飾研究』を書き出しました。彼の作品と人柄は強烈な一致を表しています。自然、素樸、謙遜、勤勉です。

旧居の小さな中庭で赤色の石板舗装、天井の週りを木構造名古屋、正屋三間、廂房四間にあい、雕竜画栋、しかしあまりに小さくシック、古めかしい、特にこの彫りの小窓が体現できる湘西特色、ひときわ目立つ。瀋さんは一生の中で作られた500万字の作品は世界の文学、珠玉の旧中国に研究と旧湘西殘した貴重な歴史資料。 【熊希龄故居】

这里是熊希龄先生的故居,熊先生担任过民国第一任内阁总理,虽时间不长,但名声赫赫,1870年他出生在这里,15岁中秀才,22岁中举人,25岁中进士,晚清时期,熊先生积极主张维新变化,曾创办《湘报》《时务学堂》和常德西路师范学校,后出任东三省财政监理官热河都统,财政总长等职务,1913年就任中华民国第一任政府总理,当时的这一任政府被舆论界称为“才子内阁”,后因熊先生反对袁世凯独裁被迫解散内阁,辞去总理职务,1937年病故于香港。大家看正屋门口的这幅对联,这是蔡元培先生为熊先生写的挽联: “宦海倦游还山小试辞幼院,鞠躬尽瘁救世惜无老子君”。赞扬了先生一生勤政爱民,关爱民生的高尚品德。熊希龄是中华民族的优秀儿子,先生留给我们的财富不仅是他的聪明的才智,渊博的知识,勇于拼搏的毅力,更重要的是爱国为民,慈善救人的高尚美德,教民育才的宝贵精神。

【虹桥风雨楼】

现在大家看到的虹桥,虹桥又称风雨楼,始建于明洪武七年,前后经过很多次维修,重新装修的虹桥风雨楼在原有建筑风格上更为完善,清幽雅致,古色古香。

【沈从文墓地】

这是沈从文先生的墓地,进入墓区,首先看到的是四个大字“兴废周知“,这是民国大总统黎元洪的手迹,往上则是黄永玉先生为悼念沈先生题写的铭文:”一个士兵要不战死沙场便是回到故乡“,沈从文先生的墓地没有隆起的土堆,只有一块天然五彩石屹立山间,成为他与众不同的墓碑,这里没有雕栏玉砌的装饰物,只有一条放牧打柴的石板小路横贯期间,

2 象征沈老永远和古城人民在一起,沈先生的骨灰一部分撒在沱江里,一部分留在北京八宝山,一部分留在凤凰县城的故居,还有一部分葬在五彩石下,他就像面前这条沱江,发源于大地,又回归大地,五彩石碑的正面刻着沈老的座右铭:”照我思索,能理解我,照我思索,可认识”人“。正是这样的信念让沈老舍去升官发财的从军道路,选择清苦的从文生涯,也是这样的信念使它挥动如椽巨笔将湘西人介绍给了世界,墓碑的背面刻着的是沈老的妻妹允和女士所写的铭文:“不折不从,星斗其文,亦慈亦让,赤子其人”。这四句话的最后一个字连起来实际上就是沈老医生的写照:从文让人。也就是这样最终他成为了世界著名的乡土文学大师。

好了,我的讲解就到这了,希望凤凰能给大家留下一个美好的印象,有机会再相聚凤凰,谢谢大家!

推荐第9篇:黄鹤楼日语导游词

黄鹤楼(こうかくろう)江南の三大楼の一つの黄鹤楼で、以前は、湖北武昌蛇山の黄鹤矶の顶上にあり、もともと辛氏が开设したホテルである。一道士は彼女への感谢の気持ちで、出発间际に壁に1羽の鹤を描いた。すると、鹤が舞い始めた。それから客は増え、商売繁盛となった。10年が过ぎて、道士はもう1度访れ、笛を演奏し、黄鹤にまたがると空高く飞んでいった。辛氏は自分を助けてくれた道士に感谢し、その记念に、楼を建て“黄鹤楼”と名前を付けた。黄鹤楼は悠々たる长江に临んで、雄大で蛇がうずくまったような蛇山の峰、まっすぐにそびえて、光り辉いて美しく、自然が作った全国各地に名を広める観光の景胜地になった。歴代の名士の崔颢、李白、白居易、贾岛、陆游、杨慎、张居正など、彼らは、ここへ来て楽しんで、诗を作った。崔费伟の《黄鹤楼》の诗は、长い年月、素晴らしい作品として知られ、多くの人は暗唱することができた。この诗のため、多くの人に黄鹤楼に対する懐かしさが生まれ、黄鹤の新楼が落成した后、その容姿は人を元気付けた。それは、とても自然な事だった。黄鹤楼に関してたくさんの感动させる伝说がある。その中の1つの伝说は名を费伟と言う人の话で、黄鹤山の中で修行を积み仙人となる。それから黄鹤に乗って升天してしまった。それから人々は费伟を懐かしく思い、この黄鹤山の上に黄鹤楼を建筑したという话だ。崔颢の诗はこのことと関系がある、:“昔人既に黄鹤に乗って行く、この地はゆとりある黄鹤楼。黄鹤は行けば戻れず、白い云は千年の间ゆったりと流れ、晴川の汉阳树はありありとし、芳香草が茂る鹦鹉洲。日暮になると故郷をどこか想い、河辺で雾にかすんだ水面が人を心细くさせる”と咏っている。古い黄鹤楼は“一般に3层、9丈の2尺、铜顶を合わせると7尺、二つ合わせると99の数になる。”新楼がとても雄大になり、5层、高さ5メートル、葫芦形宝の顶を合わせると51.4メートル、古楼に比べて约20メートル高い。古楼の1番下の层は,“幅15メートル”、新楼の1番下の层は幅30メートルだ。そのため、黄鹤楼は修复ではんなく、再建なのだ。古楼のいくつかの特色は残し、更に现代の人々の美的感覚の変化に基づき设计している。-----------------------------黄鹤楼は湖北省武昌市の蛇山に位置し、黄色い鹤に乗った仙人がここを通ったという伝说からこの名前がつきました。「天下绝景」という美称もあり、湖南省の岳阳楼、江西省の滕王阁と并んで「江南三大名楼」とされています。 黄鹤楼は三国时期の呉の时代にあたる黄武2年(西暦223年)、当初は军事目的で建设されました。呉の孙権が「以武治国而昌(武をもって国を治め繁栄させる)」(「武昌」もここからきている)を実现させることを目的とし、城を守り眺望をよくするためのものでした。唐代になり、军事性质から徐々に名所へとその意义が変わり、歴代の文人墨客がこぞってここを访れ、今もよく知られている诗を残しました。唐代の诗人・崔颢は伝说の仙人を偲んだ诗「黄鹤楼」で、「昔人已乗黄鹤去、此地空余黄鹤楼。黄鹤一去不复返、白云千载空悠悠。晴川歴歴汉阳树、芳草萋萋鹦鹉洲。日暮郷関何処是、烟波江上使人愁」と咏み、この诗は长年にわたって爱され、黄鹤楼の名声をさらに高めました。 唐の永泰元年(765年)までに黄鹤楼はすでに一定の规模まで拡张されましたが、度重なる戦火であちこちが何度も壊されました。最后の一栋が作られたのは同治7年(1868年)のことで、光绪10年(1884年)に壊されからは补修されていません。 1981年10月、黄鹤楼の补修工事がスタートし、85年6月に完成しました。メインの黄鹤楼は同治年间のものをモデルに、现代的な工程を取り入れてさらに大きな规模で造

成されました。5阶建てで庇が锐く反り返りてっぺんには瑠璃瓦がはめこまれ、高さが51.4メートル、底辺の幅は30メートル、各阶には大型の壁画や文物などが配置されています。最下阶には広いロビーがあり、正面には大きな陶器制の壁画「白云黄鹤」が饰られています。2阶にある大理石には唐代の阎伯瑾が著名人の逸话を记した「黄鹤楼记」が刻まれ、壁にある2枚の壁画は、黄鹤楼と武昌の歴史を描いた「孙权筑城」と三国の著名人とその动きを描いた「周瑜设宴」です。3阶のロビーにある壁画は、崔颢や李白、白居易など唐・宋代の名人を描いた人物画で、すべて黄鹤楼を称える名诗を咏んだ人たちです。 メイン栋の周囲には、胜象宝塔、碑廊、山门などの建筑物があり、いずれも独特の民族的な雰囲気を备えています。また、蛇山にそびえ立つ白云阁は4阶立てで、高さ29.7メートルです。前楼と后阁とで「白云黄鹤」を形づくり、武汉名物になっています。 远方から眺めた黄鹤楼はまさに鹤が羽を広げて飞んでいるようで、独特の美しさを夸っています。

推荐第10篇:长江三峡日语导游词

长江三峡日文版

みんなさんこんにちは。ようこそ美しい長江三峡へ。私はみんなさんのガイドの、陳思衝と申します。中国の古い諺に“ともあり、遠方より来る。楽しからずや“という言葉がありますが、本日、皆さんが楽しんでいただけるよう、一生懸命ご案内させていただきますのでどうぞよろしくお願い致します。

これから、長江三峡をご紹介いたします。まずは長江です。長江は中国で一番長く、また、世界でも三番目に長い川です。チベット高原のタングラ山を水源として、最終的に東海に注ぎます。長さが6300kmで、流域の面積が中国の国土面積の五分の一ほど広いです。

長江三峡は瞿塘峡、巫峡、西陵峡からなって、長さが193kmです。三峡は急な流れ、美しい沿岸の風景、素晴らしい古代文明の遺跡、有名な古人の足跡により、世界に誇っています。

その中で、瞿塘峡は西の重慶の白帝城から、東の巫山県の大渓町まで、8kmあります。瞿塘峡は三峡の中で、最も短いですが、最も険しいな山を持っています。次の巫峡は西の巫山県の大寧河から、東の巴東県の官渡口まで、46kmあります。巫峡は美しさを誇っています。西陵峡は西の香渓口から、東の南津関まで、66kmあります。西陵峡は最も速い流れがあります。ではこれから、皆さん一緒に三峡の旅をしましょう。

みんなさん、いま有名な神女峰に着きました。みんなさん見上げてください。あそこの峰です。ご覧になりましたか?あれは美しい少女にそっくりではないですか?彼女は毎日一番早く朝日を迎え、一番遅く落日を送ります。ですから、神女峰は望霞峰とも言われています。神女峰について、美しい伝説があります。昔、西王母さまの娘、瑤姫という神女はそれを姉妹たちと一緒に人間界へ暇潰しにいらっしゃいました。巫山に立ち寄った時、ちょうど十二の竜が洪水を起こしているところを見ました。その中、大禹という人も取り囲まれていました。瑤姫さまは大禹が以前、治水した時のいろんな立派なことに感心していたから、大禹を助けました。彼女たちは竜たちを斬り殺して、大禹を手伝って、治水していました。だんだん、瑤姫さまたちは巫峡が好きになってしまって、母の西王母さまに何度も呼び返されても、どうしても帰りたくありませんでした。そして、彼女たちは巫峡で人を助けて、日々を過ごしていました。随分長い時間が経つにつれて、瑤姫様たちは十二の峰になって、永遠に巫峡を見守っています。その中、瑤姫様は神女の代表として、一番高い峰になっています。それがいまみんなさんの目の前の神女峰です。

神女峰はそれなりの美しさと深い文化で、ずっと輝いています。

第11篇:日语天柱山导游词

天柱山についての紹介

日语091班 25号

皆様、ようこそいらっしゃいます。まず我安慶国際旅行社を代表致しましてまして、皆様の天柱山観光を心から歓迎致します。もう一度自己紹介をさせていただきます。私は安慶国際旅行社のガイド雷文琴と申します。旅行中は雷と呼んでください。天柱山は私の故郷ので、旅行中ご安心ください。では、ご案内させていただきます。

皆様、この道は天柱山大道と言います。私たちはこの道を利用して天柱山のほうへ参ります。間もなく天柱山に到着いたしますから、天柱山の概況についてご案内をさせていただきます。

皖山、皖水、皖文化のある天柱山は1982年に中国国務院に国家4A観光地と全国文明森林公園を指定されました。天柱山には名山名水が33か所があります。保護区の総面積は333平方キロメートルあります。そのうち、主な風景区の面積は82.46平方キロメートルあります。天柱山は八大風景区に分けられます。それは三祖寺、虎頭崖、九竜河、馬祖庵、主峰、大竜窝、后山、竜譚河風景区です。観光スポットは400か所以上あります。天柱山は中国南北の境目にあり、北亜熱帯モンスーン気候に属します。降雨量が多く、気候が適当で、森林率が高く、特産品が豊かです。せっかくのチャンスので、地元のお土産に関心を持たれたのでしょう。今日の観光が終わると、お土産商店へご案内をさせていただきませんか。

はい、皆様、ただいま私たちはもう天柱山に着きました。これからバスを降りていただいて、直接観光になりますが、大きな荷物がバスの中に置いて、貴重品だけお持ちになってください。

皆様、真正面のほうへご覧になってください。天柱山大門が見えてきました。上には『古南岳天柱山』と書いてありますが、それはかつて中国仏教協会の会長趙朴初(趙朴初は安慶の出身です。)によって書かれたものです。皆様、なぜ『古南岳』と名付けられましたか。漢の元封5年(つまり西暦106年)、漢の武帝が南方視察の時、天柱山に上り、祭台を設けて参拝しました。その時から天柱山を南岳と呼ばれました。西暦589年、隋の文帝が湖南省の恒山を南岳と命名しました。そのときから、天柱山を古南岳とよばれるようになりました。そこで神秘的な帝王文化と宗教文化が観光できて、素晴らしい自然風景も味わえる。

これから、三祖寺のほうへご案内させていただきます。三祖寺は中国の禅師三祖がかつて布教していたところで、中国仏教史上に重要な位置を占めています。1983年、国務院に全国漢民族地区重点なお寺と指定されました。ただいま、わたしたちはもう三祖洞に入ってきました。皆様の目に入ったのは三祖の画像です。彼は体が丈夫で、袈裟を引っ掛けて、両手が数珠を爪繰って顔つきがとても優しく、とても知恵があって経験が豊富のようにみえます。皆様、ただいま私たちは、もう三祖寺広場に到着しました。皆様はここでちょっと休憩してください。次のところは、中国歴代書道の長廊だと言われて、国の重要な文化財として保存されている摩崖石刻があります。三祖寺の西にあります。

皆様、次のスポットのほうへご案内させていただきます。はい、ただいまお目に入ったのは『山谷流泉、摩崖石刻』です。これは人文景観が集中する処で、素晴らしい文化的な観光になります。はい、ただいま到着しました。どうぞ前のほうへご覧になってくたさい。山谷からの泉が石壁に流して落ちます。下の水は一年中枯れることがない。両側には草や花があって景色がすばらしいです。唐、宋時代以来、多くの役人や文人墨客などここを遊覧して詩を作って崖に刻んだのです。現在、名作品がたくさん残されています。この全長400メートルの川谷には唐代から1200余年の間に残された石刻が300か所以上あります。現在見分けられるのは280か所あります。字体が行書、隷書、篆書、楷書、草書、全部揃っています。これらは1200年間の歴代書道、作者などを研究する天然博物館とも言えます。これから自由時間にしますから、写真をとりたい方はどうぞ取ってください。十一時半に、ここで集まってください。その後、レストランへ食事しますが、いかがでしょうか。ご協力お願いいたします。

はい、皆様、レストランにご案内させていただきます。ご存知のように、安徽料理は中国の八大料理の一つであり、とても有名です。せっめての機会ので、必ず召しあがってください。今日ご利用になるのは、非常に有名で、安徽料理を中心としたレストランです。どうぞ、ゆっくり召しあがってください。

これからロープ上に乗って山の上の観光になります、乗り場に参りますからどうぞバスのほうへお願いいたします。はい、ただいま私だちはもう山の上に到着しました。前の方へご覧になってください。ただいまご覧になったのは天柱峰です。天柱峰の海抜は1448メートルで、天柱峰の最高峰です。空にそびえ立ち、天を支えるようにみえるから天柱峰と名付けられました。皆様、ただいまご覧になったのは拝岳台と言われます。ここは元封5年(つまり西暦106年)、漢の武帝劉徹が自ら天柱山に登り天柱山を南岳と呼ばれ、祭台を設けて参拝したところです。そのあとから歴代帝王が毎年使者を派遣して参拝していました。そこの丸い台はその時の遺跡です。ここでしばらく写真をとっていただきます。一時間後に、ここで集まってください。

皆様、時間の関係で天柱山の観光はこれで終わらせていただきます。これから同じ道で山麓に戻ります。どうぞ足元に気をづけながら、私の後に次いでゆっくり下りましょう。

はい、私たちはもう山の麓に降りてきました。バスが待っていますから、どうぞご乗車してください。

皆様、今日の天柱山の観光はこれで終わらせていただきます。さぞお疲れになったでしょう。夕食まで、ちょっと時間がありますし、せっかくのチャンスので、手先が器用であるということで有名な安徽省にいらっしゃったので、地元のお土産に関心を持たれたのでしょう。買い物時間は一時間にしましょう。買い物中は、ご自分の貴重品や財布などに気をおつけて下さい。今は4時45分で一時間後、即ち、5時45分にバスのほうへご集合お願いいたします。それから、ホテルへ食事をしましょうか。

はい、皆様、これからホテルへ帰ります。今日はこれで終わらせていただきます。観光中いろいろご協力していただき、誠にありがとうございました。これから、もしチャンスがございましたら、またいらっしゃってください。では、おやすみなさい。

第12篇:日语导游词南京

【日语导游】日语导游词——南京概况~~博爱の都,南京について

南京市は江蘇省の省都で、丘陵地が多く、緑豊かな町、人口623万人(郊外部分も含む)の巨大都市である。東は豊かな長江デルタに面し、西に皖南丘陵を臨み、南に太湖とつながり、北は江淮平原までに広がる。南京は亜熱帯気候にあり、温和湿潤で、四季がはっきりし、雨量および資源が豊富である。南京は山、水、城、林が映りあって、景色は雄壮で美しい。春は “牛首煙嵐”でピクニック、夏は“鐘阜晴雲”を鑑賞、秋は紅葉の名所“栖霞勝地”を上り、冬は“石城晴雪”を鑑賞できるといわれ、美しい景色を一年中楽しめる。

南京は2,470余年の歴史を持ち、10の王朝が都を当地に置き、北京、西安、洛陽に並ぶ中国4大古都となっている。東の郊外にある湯山にて猿人の頭骨が出土したことが、南京は数十万年前に人が集まり住んでいた地であることを裏付けている。紀元前472年に越王の勾践が呉を滅ぼした後、現在の中華門の南西地点に都を築き、南京城の史の始まりとなった。3世紀以降に東呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳(以上を六朝と称する)及び南唐、明、太平天国、中華民国の10の朝代と政権がこの地に都を置き、豊かな歴史遺産を残した。多くの文化歴史的遺跡が残され、秀麗な山河と一体となり、南京市の独特な歴史文化的雰囲気を形成している。東郊景勝地、棲霞山、玄武湖、また秦淮一帯の景勝地は非常に有名で、特に、中山陵、秦淮一帯は“中国観光スポットベスト40”に名を連ねている。玄武湖、中山陵、鼓楼、鶏鳴寺、天王府、霊谷寺、明孝陵、莫愁湖、燕子磯、栖霞寺、城壁、雨花台、中華門などがその代表的なスポットになる。

歴史的遺跡が数多く保存されている南京市は、工業都市としても活気に満ちあふれている。南京は工業総生産量や技術水準の高さから、中国東部における重要な工業生産地として機能している。重化学のほか、電子、自動車、化学工業などの生産規模が全国で上位を占めている。また、教育、芸術文化、スポーツなども積極的に推進し、南京大学をはじめとする教育機関が林立している。南京市では文化事業も盛んに行われ、堅固な基盤を築いている。中国第3位の

規模である南京図書館、所蔵品第2位の南京博物院なども擁す非常にアカデミックな環境である。京劇、歌劇などの舞台芸術や、スポーツでの海外交流なども盛んに行われている。

南京市は悠久の歴史を持つ文化遺産、現代の経済都市、特有な庭園都市としての姿が一体となった魅力的な町である。南京市は第一期の「全国優秀観光都市」、国家レベルの「園林都市」、「全国衛生都市」、「全国科学進歩都市」、「全国緑化先進都市」、「全国環境保護整備優秀都市」などに選ばれた。ここ数年来、南京は急ピッチで改革開放を進め、都市の総合力が目立って増強してきた。南京市は全国総合実力ベスト50都市にランクインし、中国の都市総合競争力ランキングでは6位の座に付けている。国際的にも、21世紀のアジア環太平洋地域における最も有望な都市の一つとみられている。

第13篇:中山陵日语导游词

中山陵日语导游词

江苏景点导游词 2010-11-26 15:13:58 阅读46 评论0 字号:大中小 订阅

前にある城门は、中山门といいます。もともとは朝阳门と呼ばれていましたが、孙中山(孙文)を记念するため中山门と名前を改めたとのことです。この城壁は、600年前の明王朝の初めに筑かれたものです。明の初代皇帝、朱元章は南京に都を置いた後、自分の支配を固めるために20万人もの人々を使って、18年间かけてこの城壁を筑き上げました。周囲の长さは33.6キロメートルです。 现在の城壁は、半分が当时のまま保存されています。南京城は、いま世界に残されている古いお城の中

で最大のものです。

この辺りは东郊风地区といいます。南京の东の郊外の名所地です。この辺りにはいろいろな木がたくさん植えられていますが、特にプラタナスの并木はとてもきれいです。夏の暑い日にはこの辺りを散策す

るととても凉しいです。

もうすぐ中山陵に到着しますが、中山陵について少しご绍介させていただきます。

中山陵は、わが国の伟大な革命先駆者、孙中山(孙文)先生のご陵墓です。孙中山先生のことについてはみなさんもよくご存知かもしれませんが、简単にご绍介させていただきます。

孙中山先生の名は「文」、字を「逸仙」といいます。日本では「孙文」という名前のほうがよく知られ

ていると思います。

孙文先生は1866年11月12日、広东省香山県の农家に生まれ、(现在この県は孙中山先生の名にちなんで中山県と改名されています。)1925年3月12日、病のためこの世を去っています。享年59歳でした。そして孙文先生の生前の愿いに従って、1929年6月1日にここ南京に葬られました。 孙文先生は40年もの长い时间を中华民族の振兴のために尽くされました。ところで先生の出身地も、亡くなった场所も南京ではないのにどうして南京に葬られたと思いますか?

1911年、辛亥革命が成功した後、孙文先生は南京に中华民国临时政府をつくって、临时大统领に就任されました。とても多忙でしたが、时々休みを取ってこの紫金山へ猟に出かけていました。先生はこの辺りの自然や景色の素晴らしさをとても気に入ったようで、付き添いの人に冗谈半分で「自分が死んだら、ぜひこの辺りに墓を造ってほしい」と言ったそうです。冗谈ではありますが、先生の愿いでもあると察した国民党政府は、先生が亡くなった後、1926年から1929年まで3年间かけて陵墓を造りました。この工事の设计者は、中国の名高い建筑士?吕彦直(ろえんちょく)さんです。敷地面积は8

万平方メートルあります。

陵墓は警钟のような形をしていますが、これは民衆に対し目を覚まし、奋い立つよう呼びかける钟を表现しており、孙文先生が一生涯をかけて奋闘された実绩を象徴しているかのようです。

この陵墓は、広场、鸟居、参道、正门、碑亭、祭殿、墓室からなっています。一番高い所は祭坛で、海抜は158メートル、标高は73.3メートルあります。この入り口から祭坛までの石段はかなり长いですが、石段は平らですし、ひとつの石段の高さも低いですので登りやすいかと思います。 みなさんの南侧には、孙文先生の铜像が立っています。これは孙文先生と仲の良い友达であった梅屋庄吉という日本人が日本で鋳造して运んできたもので、先生が演説を行うときの姿をもとに作りました。 鸟居は石造りで、その上に「博爱」という文字がありますが、これは封建専制主义に反対するという意味で、孙文先生の民主主义思想を表しています。

鸟居の後ろの参道は、长さが480メートル、幅70メートルです。両侧にはヒマラヤ松が植えられています。これは孙文先生の革命精神と高尚な品性がこの常緑树のようにいつまでも続くということ表し

ています。

香炉の上には三つの文字が鋳造してあります。智恵の「智」、仁爱の「仁」、勇敢の「勇」の三つです。これは孙文先生の优れた品行と才能を称えたものです。向こうは正门です。正门の真上に「天下为公(天下は公のため)」という四文字が刻まれていますが、これは孙文先生の直笔です。

前は碑亭です。石碑の高さは9メートルです。上には孙文先生が葬られた年月日が刻まれています。 前の建物は祭殿です。门の上には「民族、民生、民権」という有名な「三民主义」の文字が书かれています。「三民主义」とは、孙文先生が提唱された「民族の独立、平等を求める、民主自由を実现する、人民の生活を改善する」という纲领で、孙文先生が革命を指导する上で中核的な思想となったものです。この祭殿は全部石で作られています。先生の座像は大理石で作られ、高さは5メートルあります。フランスのある有名な雕刻家がパリで雕刻して运んできたものです。座像の土台の周りには孙文先生の革命

活动を物语った浮き雕りがなされています。

真正面の図は、孙文先生が赤ちゃんの诊察をしているものです。これは孙文先生が香港の医科大学を卒业してから医者になったときの様子を描いています。东のほうに二つの図があります。左は孙文先生が革命を宣伝する志を立て、出国する前に友达と别れるときの情景を描いています。右は孙文先生が日本で革命同士と共に「同盟会」の纲领を検讨している様子を描いています。

続いてこの図は1911年、辛亥革命が成功した後、1912年1月1日南京で中华民国临时政府がつくられ、孙文先生が临时大统领に选ばれ、国会から先生に大统领の官印を授与する様子です。 こちらにも二つの図があります。左の図は、孙文先生が人民を呼び起こすため、演説を行っている様子

です。

右の図も孙文先生が演説をしている様子を描いています。これは中华民国临时政府がつくられてまもなく、袁世凯がその革命の成果を夺って大统领になり、さらに皇帝になろうと企てたことがありましたが、孙文先生がこの阴谋に反対する演説を行った时の様子を描いています。

袁世凯の皇帝になるという梦は、孙文先生をはじめとする全国人民の反対のもと、わずか83日间で终

わりました。

この祭坛の両侧の壁に、孙文先生が书かれた建国纲领が刻まれています。祭坛の後ろは墓室です。この孙文先生の卧像は大理石で雕刻されたものです。その下は地下室で、先生の遗体が安置されています

中山陵(最新版日语导游词中)

来源: 陈传亚的日志 工事は1926年から1933年まで終わりです。建築家は山東省の人,呂彦直です。彼の設計の中山陵の風格は独特で、中国の古代と洋風建築の精華に解け合って、警鐘の形で、寓意は“警世の鐘が鳴り響いて、民衆を喚起する”です。すべて鉄筋コンクリート構造、藍、白の色調を採用しました。これは国民党の“党徽”の色です。残念なことに中山陵を作る時献身的に力を尽くして、過労のため病気にかかり、工事が終わる頃に亡くなりました。年は僅か36歳でした。

中央の横額に“天下為公”が彫り刻んであります。それは孫先生の筆跡です。意味は:【国家の政権はどの一家の天下でありません、天下人の天下で、民衆の天下です】。“天下為公”は彼の提唱した三民主義の中で民権に対して最も良い注釈です。彼が逝去された後、人々は次のように称賛しました :“先生の革命の数十年、個人の財産は無く、私的な便宜を図ることはなく、個人的な恨みもなくて、無私な人。先生のような政治家は古今 東西、先生お一人でしょう。”

正門の真ん中の扉が閉められていることになります。毎年2回開きます。先生の誕生日の11月12日と逝去の3月12日。

正門の両側にそれぞれ1対の石造の獅子があり、これは1935年宋哲元将軍が北平で買ったもので、中山文化教育館に贈呈し、また教育館から中山陵に送られました。これは北方のライオンで、雄壮です。 前の建物は碑亭で高さ8.1メートルです。墓石には“中国国民党総理孫先生はここに葬られている 中華民国 18年6月1日”と刻まれています。これはもとの国民党の元老、行政院の院長である譚延がいの内筆で。中華民国の18年6月1日は西暦の1929年6月1日で、先生はここに葬られた日です。孫さんの葬儀のすべては国民党の内部でやって、行われたのは党葬で、先生の国民の党内での職務は“総理”です、だから私達が見るのは、“総理が葬られている”となります。“総理”のこの呼び方も国民の党内で孫中山先生の1人に限って、今、国民党内の最高の職務は主席です。

上は国民党の党徽で本来は陽刻です、*の時に破壊されました。 1981年辛亥革命70周年を記念するために、中山陵は一度、全面的な補修を行いました。その時、この党徽は陰刻に変えました。皆さんよく見てください。碑の上が雲の紋様が刻まれ台座に山が刻まれてあります。これは先生の革命の精神が堂々としていることを象徴します。先生の思想と功績は文字でまとめることができないので、そこで墓碑の裏に何も書いてありません。 碑亭を過ぎて、これから階段になります。全部で392段です。この階段全ては蘇州の金山石で使われ、中山陵の建物の中の重要な構成部分です。ここは祭堂と墓室に通ずる道です。中山陵は山に添って建てられたので、もし、こんなに多い石階段を下から上へ変化せずに頂上まで敷けば非常に単調なものに見えてしまうでしょう。中山陵の設計者と建築者は巧みに、392級の石段を10段に分けました。もとは孤立している小建物を大きく建築群の全体に連ねて、各石段の間にプラットフォームがあり、緩衝として、プラットフォームの上でまた陳列記念などの建築物を作ってあります。このようにして、392級の石階段は偉大で壮観であるようになり、また変化に富んだ韻律は孫中山先生の陵墓の気勢を作りあげました。

第14篇:九寨沟日语导游词

童话世界九寨沟

九寨溝—童話の世界

在中国西南部的青藏高原向四川盆地过渡地带,有一个世界著名的风景区——九寨沟,人们称誉它为“人间仙境”“童话世界”。

中国西南部のチベット高原と四川盆地の間に、「この世の別天地」「童話の世界」とも呼ばれる、九寨溝という世界でも有名な観光地があります。

九寨沟,具有大规模喀斯特地貌特征,大量的钙化物沉积在这里,形成了九寨沟艳丽典雅的众多湖泊,奔泻湍急的溪流,飞珠溅玉的瀑布,古穆幽深的森林,连绵起伏的雪峰和谐相映。丰富的植物种类,构成了相对稳定的食物链,为大熊猫、金丝猴等稀有动物提供了殷实的生存空间。1992年,九寨沟被联合国教科文组织遗产委员会列入《世界自然遗产名录》,1997年,被列入《世界生物圈保护区》。

九寨溝は大規模なカルスト台地で、大量のカルシウム化物が堆積しています。この特徴が、九寨溝の麗しく優雅で格調高いあまたの湖を形成し、激しい勢いで流れる渓流やきらめく宝石のように飛び散る滝、厳かで物静かに佇む森林、連綿と続く雪の峰々と調和よく組み合わさり、そして互いに引き立てあっているのです。豊富な種類の植物たちが、安定した食物連鎖を構成し、パンダやキンシコウなど希少動物のために豊かな食物を提供しています。1992年、九寨溝はユネスコ世界遺産委員会によって「世界自然遺産」に登録され、1997年には「ユネスコMAB 人と生物圏計画」に加入しました。

九寨沟因有九个藏寨而得名,它由三条沟构成,北南走向呈y字形,沟内分布着114个梯级海子,绵延五十多公里。这些大大小小的海子散落在群山之中,形成了树在水中长,水在林中流的奇妙景观。

九寨溝は、そこにチベット族の村が9つあることからその名がつきました。九寨溝は3つの谷からなっていて、北から南へとY字型に広がり、114の棚田状の湖が、50キロあまりも延々と続いています。これら大小の湖が山々の間に散らばって、樹が水の中に生え、水が林の中を流れるという美しくも不思議な景観を織りなしているのです。

进入沟内,穿过绵长的芦苇海、盆景滩、卧龙海,映入你眼帘的是树正群海,由大小近二十个湖泊组成,在长约五公里的翠色谷地里,呈梯状陈列,湖水湛蓝,色泽鲜丽。这种特别的蓝,无法用语言形容,只好称它为“九寨蓝” 吧。

九寨溝の中に入って、どこまでも続く芦葦海(芦の海)、盆景灘、臥竜海を横切ると、樹正群海が目に入るでしょう。それは、大小20近くの湖からなっており、約5キロにわたる青緑色のくぼ地の中に、棚田状に並んでいます。湖水は紺碧で、色は大変鮮やかです。この種の青さは、言葉では言い表せないので、ただ「九寨溝の青」と呼ぶしかないでしょう。

卧龙海因其湖中有一条钙化的“龙”,当地藏民称它为“卧龙海”。

臥龍海は、その湖底にカルシウム化した「竜」があることから、当地のチベット族に「臥竜海」と呼ばれています。

清晨,镜海水平似镜,蓝天、雪山、森林尽收湖中,山水相映,天地相融,仿佛能感受到“鸟在水中飞,鱼在天上游”的美妙。

明け方の鏡海の水は鏡のように、青い空、雪山、森林をすべて湖の中におさめ、山と水が一緒に写り込み、天地が一体になって、まるで「鳥が水の中を飛び、魚が天を泳いでいる」かのような感覚を覚えるほどの美しさです。

五花海,是九寨沟湖水最为艳丽的湖泊,五彩斑斓的湖水,好似色彩鲜艳、梦幻莫测的万花筒。不知已被钙化了多久的大松树,静静地沉睡在湛蓝色的湖水中,象是在诉说着九寨沟千万

1 年前的古老故事。无忧无虑的高山冷水鱼,成群结队,在水中自由自在地游来游去,好似在迎接着来自远方的每一位游客。

五花海は、九寨溝の中で色が最も鮮やかな湖です。様々な色と模様を彩なすその湖水は、まるで色鮮やかで幻想的な万華鏡のようです。 カルシウム化されて久しい松の大木が、深い青色の湖水の中に静かに佇み、まるで九寨溝の幾千年も前の古い物語を語りかけているかのようです。何の憂いもない高山の冷水魚は、群れをなして自由自在に泳ぎ回り、遠方よりの観光客を歓迎しているかのようです。

孔雀海,这个世界上流程最短、色彩最丰富的海子,宛若孔雀开屏,呈现出鹅黄、墨绿、深红、宝蓝等多样色彩,绚丽多姿、变幻无穷。

孔雀海、これは世界で最も流れが短く色彩豊かな湖で、まるで孔雀が羽根を扇形に広げているかのように、卵色、深緑、深紅、サファイア色など多様な色を呈して、そのきらびやかな姿は変貌極まりないといえます。

长海,海拔3102米,是九寨沟面积最大、海拔最高的湖泊,它一展九寨沟高山湖泊的王者风范,雄卧于雪峰皑皑、苍柏耸立的山谷之中,尽显它苍茫浩渺、宽厚博大的风华。

長海は、海抜3102メートルで、九寨溝の中では最も面積が大きく、海抜も一番高い湖です。これは、九寨溝の高山湖の王者の風格があり、真っ白な雪の峰々、青いコノテガシワの群生する谷間の中で、広々と懐の深い様子でその水を湛えています。

水,演绎了九寨沟澄澈宁静的美;水,同样展示了九寨沟雄伟壮阔的美。充足的水量,经过无数阶梯状的悬崖,形成了心驰神荡的瀑布。宽310米、高28米的珍珠滩瀑布与珍珠滩相连。瀑布呈弯月形,宽阔的水帘好似展开的巨大环形银幕,显示了它磅礴的气势。珍珠滩湍急的水流激起无数浪花,在阳光照射下,宛若无数滚动的珍珠。

水は、九寨溝の清く澄んだ静かな美を敷衍しています。と同時に、その水は、九寨溝の雄大な美をも供しています。十分な水量は、無数の棚田状の断崖を通って、心を奪うような美しい滝を形成しています。幅310メートル、高さ28メートルの真珠灘滝は、真珠灘と連なっています。滝は弓張り月の形を呈し、まるで巨大なスクリーンを広げたかのように、勢いがみなぎりあふれています。真珠灘の激しい水の流れは無数の水しぶきを起こし、日の光が当たると、まるで無数の真珠が飛び交っているかのようです。

诺日朗瀑布宽320米,是中国最宽的瀑布,位于九寨沟中部,可谓九寨沟的象征。诺日朗瀑布飞流直下,雾蔼烟岚处,霓虹随日生,书写着九寨沟之美的阳刚之气。而阴柔纤巧的树正瀑布宛如藏家少女的长发,铺展在树林间。

諾日朗滝は幅320メートルで、中国では最も幅の広い滝です。それは九寨溝の中間に位置し、九寨溝のシンボルともいえるでしょう。諾日朗滝の激しい水の流れが落ちるところには、虹が出て、九寨溝の美の強くたくましい気質をよくあらわしています。柔らかく繊細な樹正滝の流れが、まるでチベット族の少女の長い髪のように、木々の間に流れているのとは対照的です。

莽莽林海,随着季节变化,呈现出瑰丽多姿的色彩。

生い茂った樹海は、季節の変化に伴って、美しく多才な色彩をあらわします。

春天,群山丛林,红、黄、白各色杜鹃花点缀其间,野山花争相吐艳,在这万物复苏的季节,整个山野繁花似锦。

春には、赤、黄、白の色とりどりのツツジが山々の間に咲き乱れ、高山植物が美しさを競います。この万物がよみがえる季節は、山全体が花々に彩られ、錦のように美しくなります。

盛夏,这里变成了绿色的海洋,满山遍野,绿得那样青翠,那样年轻,显出旺盛的生命力。 夏になると、ここは緑の海へと変わり、至る所、鮮やかで若々しい緑が旺盛な生命力を

2 みなぎらせているかのようです。

秋风乍起,山野换上了最为富丽的盛装,深橙色的贡栌,浅黄色的椴叶,绛红色的枫叶,殷红色的野果,深浅相间,错落有致,层林尽染,万山红遍,象一幅幅独具匠心的巨幅油画。在暖色调的映衬下,湖水更加绚丽多彩。天光、云影、雪峰、彩林、湖水……,走进金秋时节的九寨沟,令你梦幻般沉醉。

秋風が吹くと、野山は最も華麗な服装に着替えます。深い橙色のハゼの木、浅黄色のむくげの葉、深紅のカエデの葉、黒みがかった赤の野生植物の果実など、色の濃淡はまちまちですが、山々と木々をすべて赤く染め、まるでオリジナリティーあふれる巨大な油絵のようです。それら温かな色合いが照り映えて、湖はさらにきらびやかに色彩を増します。日の光、雲の影、雪山、色鮮やかな木々、湖水・・・、秋の九寨溝に足を踏み入れたなら、きっと夢のような世界を楽しむことができることでしょう。

冬天,漫天大雪把九寨沟装扮成银色的世界。冰瀑、冰幔晶莹洁白,茫茫群山,似玉树琼花,银装素裹。这时的九寨沟显得那么圣洁、高雅,走进它,好似走进了圣洁的“童话世界”。

冬、空を埋め尽くすような大雪が九寨溝を銀世界へと衣替えさせます。氷の滝、氷のカーテンがきらきらと白く光り、木々が生い茂った山々は、ユーカリの花のような銀色の装いに包まれます。この時の九寨溝は、神聖かつ高尚な雰囲気さえあり、まるで清らかな“童話の世界”に足を踏み入れたかのような感覚を与えます。

无论你在哪里,身在何方,你若搭乘飞机来到中国成都,仅45分钟,你就可以从成都双流国际机场飞抵九寨黄龙机场,乘坐大巴士沿高等级生态公路前往九寨沟,在很短的时间里,你就实现了“童话世界”——九寨沟之旅的梦想。目前,开通九寨沟直航的城市有:北京、上海、杭州、西安、重庆、成都,另开通了北京、上海、广州经停成都至九黄机场;广州经停重庆至九黄机场的航班,具体航班信息请查阅www.daodoc.com。你也可以在成都乘坐豪华大巴士,沿着四百公里长的藏族、羌族风情长廊前往九寨沟,途中可以去卧龙自然保护区与大熊猫零距离亲密接近,也可以到古老的桃坪羌寨、四姑娘山、松潘古城、黄龙寺、牟尼沟景区详实领略中国川西北高原的神秘风情。

あなたがどこに住んでいるかにかかわらず、もし飛行機で中国の成都に来たなら、成都の双流空港からわずか45分で、九賽黄龍空港へと行くことができ、そこからバスで九寨溝に向かえば、あっという間に「童話の世界」、そう九寨溝への旅という夢を実現させることができるのです。現在、九寨溝への直行便が開通している都市には、北京、上海、杭州、西安、重慶、成都があります。他に北京、上海、広州から成都を経由して九賽黄龍空港へ行く便、そして広州から重慶を経由して九賽黄龍空港へと行く便もあります。フライトの詳細な情報は、www.daodoc.comをご覧ください。また成都から大型バスに乗って、約400キロにわたって続く、チベット族や羌族の風情あふれる村々に沿って九寨溝へ行くこともできます。途中で、臥竜自然保護区のパンダと間近で接したり、古い桃坪羌族の集落や四姑娘山、松藩古城、黄龍寺、牟尼溝などの観光地へ立ち寄って、中国の川西北高原の神秘的な風情を味わうのもよいでしょう。

目前,九寨沟景区拥有五星级宾馆2家,四星级、三星级宾馆数十家。客房床位数超过25000张。可以满足您不同层次的需求,酒店齐全完善的设施及热情周到的服务,定会洗去你一路的风尘,令你满意。入夜,你不妨观看一场独具特色的藏羌民族歌舞表演。那山歌,那舞蹈,原始古朴,风情浓郁,使你走近了这真诚、豪放而可爱的民族。

現在、九寨溝観光地には5つ星ホテルが二つ、そして、四つ星、三つ星級ホテルは数十軒あり、客室のベッド数は、25000床を越えているので、お客様の多様なニーズに応えることができます。ホテルの十分に揃った設備と行きとどいたサービスは、必ずや旅の疲れを癒やし、

3 満足いただけるものとなるでしょう。夜には、独自の特色をもったチベット族の歌と舞踊をお楽しみいただけます。その歌と舞には昔ながらの風情があり、この誠実で豪放、かつ愛すべきチベット民族の世界へと誘うことでしょう。

在你入住的酒店,在小镇的大街小巷,有上百辆来来往往的“的士”24小时为你服务,仅用几分钟时间就可以将你送达风景区入口处。

ホテルや、町の通りのあちこちに100台近くのタクシーが行き来して、24時間体制でサービスを提供しているので、わずか数分で九寨溝の入口まで行くことができます。

在九寨沟风景区游览,你可以乘坐绿色环保观光车到达每一个景点,也可以徒步沿50公里栈道游览各个景点,当你信步在林中的栈道,或驻步小憩,这样零距离的接触九寨沟的山山水水,你可能会有别样的感受。

九寨溝を観光する場合、天然ガスで走るエコ観光バスに乗って各名所に行くこともできますし、歩いて50キロの桟道に沿ってそれぞれの名所を見て回ることもできます。そんなふうに気の向くままに林の中の桟道を歩いたり、一休みしたりするとき、間近に九寨溝の山や水と接することができ、特別な感覚を味わうことができるでしょう。

九寨沟风景区已实行了先进的数字化管理,设立了景区监控、VIP服务系统,景区通讯完全实现无缝隙覆盖。每一个风景点,都设置了一次性绿色环保厕所。在景区旅游过程中,你会感受到非常安全和方便。

九寨溝風景区はすでに先進的なデジタル管理を実施し、設置してあるセキュリティー、およびVIPサービスシステムも風景区内をくまなく網羅しています。また各名所に、仮設エコトイレが設けられているので、安全かつ快適に旅行していただけることでしょう。

在风景区内,你可以去大型的诺日朗餐厅午餐。

風景区内では、諾日朗の大型レストランで昼食を取ることができます。

当你穿上藏族、羌族服装,非常神气地在景点照像留影时,可别忘了挑选几件称心如意的旅游纪念品,把美丽难忘的“九寨沟”带回家。

ぜひチベット族や羌族の民族衣装を着て記念写真を撮り、お気に入りの旅行の記念品を選んで、美しく忘れがたい「九寨溝」をお持ち帰りください。

九寨沟春夏秋冬,如诗如画,不,应该是一个诗画并存的人间仙境、童话世界。你可能去过许多地方,游览过很多著名的风景区,如果你来到中国的九寨沟,这里迷人的风光将令你留连忘返,这里浓郁的民俗风情定会让你一生难忘。

九寨溝の春夏秋冬は、詩や絵のよう、いや、詩と絵を併せ持つ、別天地、童話の世界と言った方がよいかもしれません。これまできっとたくさんの場所に赴き、多くの有名な景勝地を旅行されたことと思います。それでも、もし中国の九寨溝に来られたなら、この人を魅了する風景が帰ることを忘れさせ、この興味深い民族の風情が忘れがたい思い出を作ることになるでしょう。

远方的朋友,请你到九寨沟藏家喝上一碗浓浓的青稞酒

遠方からの皆さま、ぜひ、九寨溝のチベット族の集落へきて裸麦の濃厚なお酒をご賞味ください。

远方的朋友,请你到九寨沟藏家跳上一夜欢乐的锅庄舞

遠方からの皆さま、ぜひ、九寨溝へ来て、チベット族の踊りを一夜お楽しみください。 中国九寨沟真情期盼你的到来!

中国の九寨溝は皆さまのお越しを心からお待ちしています!!

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第15篇:少林寺日语导游词

きっと一同は全部《少林の寺》この部映画フィルムを見落とす?片中の少林弟子が優美である武芸と少林寺院古風で質朴の風味は必ず貴方に深い印象を残した。この部映画フィルムから1の砲は壊れて紅で、少林の寺名声の大きさは盛り上がって)、海内外遊覧客はひっきりなしに続いて、近年に私たちの河南がもって武媒とに来て、大力の発展は観光して、それぞれの2年はまだ1回の“少林国際武芸線分”を営んで、その上、海外多人数の武芸団体以前の目を引いて参加することに来て、まだ地区経済の発展を動かした。

少林の寺は登封市北西)が13キロメートルのカ所を約束することの高い山西ふもとに位置して、西暦495年に、北魏孝文帝はインド坊主を落ち着かせるため陀を歩き回って仏教を伝えてそれでこの寺を造って、それは室山に不足する密林を位置して中から、だから名声を得る “少林の寺”。32年のちの(527年)は、別の1人のインド高僧は到少林の寺を摩擦に達して、彼は大乗仏教を信奉して、衆生をあまねく済度しようと主張して)、彼は少林の寺の広集信者にいて、頭は禅宗を伝えて、禅宗は伝以後で全国は、少林の寺は禅宗の祖の庭と呼ばれる。隋の末の唐初は、少林の寺は13の棍の僧のため唐王李一世民有功を救助して、朝廷が崇を押すことを受け取って、少林武芸はこれ名は天下をあげて、寺は快)を同様に成育して、“天下優勝者は止める”の名で有名で、これは林の寺有名の原因にそのとおり不足して、もし2個で従来概括すれば、“禅”(ぜん)と“武”(ぶ)。

禅宗は仏教が1個の重要な派に当たることで、彼はある融合)した中国本土の宗教と儒家が考えてそれで形成は、中国文化の影響することは大きい。“禅”はすぐ平常の心で、気持ちは物を添えなくて、一切の邪念を払う、執着しない)意味。1個の談がとてもこの道理を説明可能で、趙州禅師は、一生、天下を泳ぐことへ行って、禅の法を伝えて、彼自身は話して:“もし子供の子が私に勝ることができれば、私の便は彼は弟子入りすることとして、もし老人が私に及ばなければ、私はすでに彼を説教する。”1日、ワンセット坊主以前は礼拝に来て、趙州は1人そのうちに質問する “あなたはこちらに到達して来たことがあるか?”“はい”。来たことがある趙州は話して:“茶が行くことを喰う。”また次点に質問して、言い返して:“私はまだ来たことがなかった.”趙州也は話して:“茶が行くことを喰う。”院主はすぐ知られていなくて、師匠に質問して、過ぎた過ぎたものに来なかったことに来て、あなたは何のために彼らに茶が行くことを喰うか?趙州禅師は依然として話して:“茶が行くことを喰う!”これは換言すれば、禅は日常生活中にいて、禅はそうでなく学んで来ていて、悟り出して、水が柴を切ることを選んで、食事することは茶を飲んで、禅器があるでないのはなく。日常生活中の平常の心は、淡泊さが静かである心情は、やっと人生の真諦で、このときのすべての人は全部同様です。よくて、先刻、私たちが話すものは禅の意味で、あんなにする禅宗の修行方法は何です?正しくて、静座して心を修理することで、すぐ面の壁は静座して来て邪念を払って、禅宗の初めの祖逹が9年面の壁を経ることを摩擦すると言い伝えて、彼に至るまでの影はよくある向こうの同じ場所石壁を印刷する。しかし1の個人は座ったものは長くて自然でとても疲労可能に、精神は不振で、そこですぐ1セットの体操を創造したことを摩擦することに達して、徒弟たちが身

体、当時の少林寺地カ所深山原始林、野獣出没を鍛錬することを教えて、だからまた少しの実戦の招術来が体を防ぐことを盛り込んで、1000の百年の発展かつ、融進を経過して中国のそれぞれの大武の技ドア派の精華は、行成に就く唯一無二の名天下を震わす少林武芸。私たちの今日の到少林の寺は、ちょっと“禅”を悟ることで、2は欣が“武”を報奨することで、遊覧のちにいると考えて一同は仏教禅宗を理解可能だばかりでなく、同様に個に来ることができて3は招かせて2式です.よくて、少林の寺の概況はすぐ一同のためにこちらに到達(とうたつ)すると説明して、少林の寺に関して(かんして)常()に入院する情況(じょうきょう)の扱い会はのちに到達して(とうたつして)、少林の寺の観光案内人はすぐに一同のために詳細(しょうさい)な解説(かいせつ)を作る。よくて、遊覧客たちは、少林の寺はすぐまもなく到達して、気持ちは一同は自分の物品(ぶっぴん)を携える(たずさえる)ことをうまくやり遂げて(とげて)、下車(げしゃ)を準備する(じゅんび)。

第16篇:荆州博物馆日语导游词

荊州博物館について^^^

1958年に建てられて約四十年が経って、地方総合的な博物館になりました。敷地面積が4.8万キロメートルだが、約12万余りの文物を収集しています。民族文化を広めるために荊州博物館が何度も欧米各国に文物を運送して展覧会を開いました。それは社会的に良い響きを齎しました。国内に開いた主な展覧会は以下のように簡単に解説しましょう。荊州博物館は、その豊富な展示品で国内外の観光客を引きつけ、毎年、観光客は延べ60万人に達しています。

まずは『古代漆器上等品展覧会』です。中国に漆器の製作と使用は7000年前の新石器時代から始めたものです。とりわけ、春秋戦国時代の楚国は漆器商業が繁盛していました。収集された楚国と秦朝と漢代との竹簡が全国に首位に立って、それに、この漆器の出土数量が全国で一番多いだけでなく、種類の複雑さ、手工芸の巧みさ、価値の高さなどが疑いなく中国の歴史上に画期的な意義があります。例えば、皆さんの見る通りに、この虎座鳥架鼓(こざちょうかこ)は楚国の重要な楽器種類としてちゃんと保存されてきました。頭を上げ、足を曲げて背を向ける二頭の虎を台座(だいざ)として、虎の背中に一羽ずつ鳳(おおとり)が歌っているように立って彼らの真ん中に一面の鼓が紐で締められて鳳の冠(かんむり)から垂れています。この漆器は本物そっくりで、楽器でも芸術品でも、その歴史文化価値も計り知れないものです。因みに、この意気軒昂(いきけんこう)の鳳と小柄で縮こまる虎との組み合わせからして、楚国人の落ち着いた生活に憧れる願望と強暴の事物にめげない精神というのも分かっています。

次には、『楚漢絹織物(きぬおりもの)展覧会』です。東周時代、楚国の刺繍(ししゅう)技術が長らく発展していたので、織物の種類が段々増え、主に絹、紗、錦、羅などを生産していました。それに、特殊な織り込む方法を採用して労働時間も短縮しました。飾り模様が主に鳳、竜と花草などで鮮やかな色彩で独特なスタイルが表現できます。これらの念入りな図案が当時に最高水準に達した絹織り技術を反映した御陰で、荊州の馬山一号墓は「古代中国のシルク宝庫」と呼ばれています。

最後は『鳳凰山(ほうおうざん)168番の漢代墓の展覧会』です。この漢代墓は1975年に掘り出されて、500余りの文物が展示されています。その中に注目されているのは出土した2000年も前の西漢【前漢(ぜんかん)】男性の木乃伊です。彼の棺桶が内棺と外棺からなるので、当時に彼が地位のある人だというのも容易に分かっています。確かに彼は生前が大夫で各種の病気で約60歳に死んでしまいました。墓室が三つの部分に分けられて彼の生前の居室に模倣して作られたものです。棺が全部最高級の楠木(クスノキ)で作られて一塊でも千キログラム程重いくらいです。皆さんの見る通りに、この木乃伊は体重が52.5キログラムで身長が1678センチです。彼の側にその小さい箱に置いてあるのは脳髄で大きくて四角い箱に置いてあるのは内臓です。2000年も経ったにも関わらず、木乃伊がちゃんと保存されてきました。肌の弾性力もあり、四肢の関節も自由に動けます。棺を開けた時に、木乃伊が十数種の漢方薬で作られた真紅色の液体にどっぷり浸かっていました。それが腐らない原因が一体何だかという疑問があるだろう。研究結果に基づいて、主な原因が三つあります。一つは墓穴(ぼけつ)が地下十メートルにあり、一つは棺が麻布(あさぬの)と生漆(きうるし)に密封(みっぷう)されて酸素を遮断しました。最後は漢方薬で作られた液体の殺菌防腐作用です。この木乃伊を発見した後、2000年前に、我が国の人民が医療と防腐などの方面で、相当高かった水準に到達したというのも了解しました。しかも、医学理論に新たな資料を加えて、古代医薬についての不足も補います。

他に、意匠を凝らした開発項目として、1992年に「楚樂宮」(そがくきゅう)が建てられてきました。それは楚国の音楽と踊りを世間の前に展示し、2000年前に楚国の見事な宮廷芸術を再現しています。

第17篇:西安景点导游词 日语

お出迎え

皆様、ようこそ西安にお出でになりました。長い旅、本当にお疲れ様でした。私はガイド兹通訳朱栄と申します。これから、皆様の西安のご滞在中、お世話をさせていただきますので、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

論語に「朊あり、遠方より来る、また楽しからずや」とありますが、今私の気持ちは全くその通りでございます。私は弊社を代表致しまして、皆様のご来訪を心より歓迎致します。何か要望や不行き届きな点などございましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。

皆様の西安の旅がこの上なく、楽しいものとなりますよう一生懸命努めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

皆さん、西安はなんと言いましても悠久の歴史を持っている中国最古の都でございます。紀元前11世紀の西周から、秦、漢、隋、唐など約十三の王朝がこの一帯2000年にわたり都をおきました。特に唐の時代の長安は、様々な国からたくさんの人々がこの長安に集まり、当時としては最大の「100万都市」として栄えました。有名なシルクロードの出発点はこの西安でございます。 これから、***を見学していきましょう。

大雁塔と大唐芙蓉園

皆さん、西安の名所旧跡の中では一番にあげられるのは大雁塔です。大雁塔は日本の皆さんにもなじみの西遊記に書かれた玄奘三蔵と関係があります。唐時代の高僧玄奘は、さかのぼること629年に生まれ、27歳の時、長安から西域への旅に出ました。そして、16年に経った657年に仏舎利や仏像、そして多くの経典を携えて長安に戻りました。玄奘は、その後大慈恩寺の住職となり、仏教に力をつくしました。唐の太宗と高宗はこの功績をたたえ、そのことは当時の書道家楮遂良の手によって石碑に刻まれ、今もそれが大慈恩寺の中の大雁塔に保存されています。この寺は、唐の高宗李冶が、母親文徳皇后の冥福を祈って648年に建てたものといわれ、西安の南郊外にあります。当時、この寺は現在の7倍以上の広さをほこり、今では大雁塔だけになりました。大雁塔は当初、五重の正方形のものでしたが、その後、レンガで7重にし、775年には、さらに十層のものに改築されました。今皆さんご覧になっている高さ63mの大雁塔は七層ですが、これは後の戦争で上の三層が崩れ落ち、残った下の部分を修復したものです。

ところで、皆さんは大雁塔が建てられた由来をご存じでしょうか。

玄奘がインドから多くの経典を持ち帰ったことは先に申しあげましたが、玄奘はそれを翻訳し、それを保存するために、当時の太宗皇帝に進言して654年建てられたのが大雁塔です。初めは慈恩寺塔と呼ばれ、それを大雁塔と呼ぶようになったひとつの説を紹介しますと、『慈恩寺三蔵法師伝券三』によりますと、「摩掲陀国に、ある寺があり、ある時、雁が群れをなして、空を飛んでいたところ、突然そのうちの一羽が境内に落ちて死んでしまった。これを見て驚いた僧侶たちはその雁を菩薩とみなし、その雁をとむらうために塔を建てた」ということです。

こうして、慈恩寺塔は雁塔と呼ばれるようになりましたが、その後、薦福寺にも「雁塔」が建てられたため、慈恩寺のものは「大雁塔」、薦福寺のほうは規模が小さかったから、「小雁塔」と呼ぶようになりました。なお、現存する大慈恩寺の中の建物は大雁塔を覗いて明の時代のものですが、お寺の大雂宝殿には、釈迦如来の三身仏と十八羅漢、法堂には阿弥陀仏の像が祭られています。法堂の東側の壁には玄奘の拓本がかけてあり、これを見ますと玄奘法師が、一所懸命仏教に身をささげた様子が伺い知ることができます。また、塔身の南側には、唐の太宗皇帝李世民の勅令による、「大唐三蔵聖教序記」の石碑が嵌め込まれ、いずれも唐代の大書道家楮遂良の手による傑作として知られています。さらに、塔の入り口のところに刻まれている唐代の建築図案は、中国古代建築を研究するうえで、重要な資料を提供するものといわれ、大雁塔の北に位置する、最近新しく建てられた玄奘三蔵院には三蔵法師の頭の骨や自筆の経典が納められています。

このように、「大雁塔」は現在、最もよく保存されている唐代の建物ですが、古都背西安のシンボルとしていつまでも人々の心に残り続けることでしょう。

大唐芙蓉院は西安の曲江新区に位置しており、敷地面積は約66万平方㍍、その中、水域面積は300平方㍍を占めます。中国の西北地域で最大の文化公園です。

華清池

皆さん、前方の右側をご覧ください。山が見てきましたね。その山はどんな形に見えますか?そうですね、遠くから見ると青い馬のように見えます。ですから、驪山を名づけられています。驪山の麓にある華清池は私たちの目的です。

皆さん、いよいよ華清池に到着します。この温泉と風景の美しさで有名な華清池は3000年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽を作られました。毎年、寒さを避けるため皇帝はここを訪れました。唐の玄宗皇帝と楊貴妃によりロマンスが有名ですが。絶世美人楊貴妃が美し肌を洗った様子は白居易の「長恨歌」にも歌われています。なお、お湯遺跡博物館は楊貴妃を使った海棠湯をはじめ蓮花湯、太子湯、尚食湯、星辰湯などの温泉の遺跡が発見できます。ちなみに、湯殿の奥にある五間庁は西安事件の時将介石が泊まったところです。ここもあわせてご案内致します。

はい、華清池に着きました。ここでの見学は2時間となっております。今ちょうど9時ですから、11時に必ずバスに戻ってきてください。ここは観光実は多いですから、できるだけ一緒に行動するようお願いいたします。万が一道に迷ったら、ご自分でバスにお戻りください。だから、バスナンバーとバスの色をよく覚えておいてください。では、貴重品をお持ちになって、バスを御降りください。 はい、皆さん、お手洗いへ行きたい方はどうぞ、そちらへ。

はい、じゃ、華清池の観光ルートは飛霜殿、九龍池、お湯遺跡博物館、それから階段を登って西安事件の舞台である五間庁です。皆さん、参りましょう。

ここは玄宗皇帝と楊貴妃の寝室―飛霜殿です。冬になるた玄宗皇帝は楊貴妃をつれて華清池へ寒さを避けに来ます。この飛霜殿に源泉に引き込んであっため冬でも暖かく屋根には霜も付かないということから「飛霜殿」と呼ばれます。ここぁら驪山の美しい風景が眺められるし、それに、雪が降ると周りは全部白くなり、飛霜殿の前の九龍池には温泉が湧いて、湯気が立ち上がりますので、とてもきれいです。もちろんこれは今立て直されたものです。白居易の『長恨歌』の中に楊貴妃の風呂上りを「春寒くして、浴を賜う(たまう)華清池、温泉の水溜(みずため)らかにして凝脂(ぎょうし)を洗う。死児たすけ起こせば嬌(きょう)として力無し」と書いてあります。 じゃ、皆さん、御湯遺跡博物館へ参りましょう。そこには楊貴妃が入った浴槽があります。蓮花湯は先に申しあげましたが、楊貴妃の浴槽は海棠の花の形をしているので、海棠湯というのです。ちょっと見た目は今の浴槽ほど豪華ではないですが、その時は大理石でつくっていますから、豪華なはずですよ。

次の見学するところへ移動しましょう。ここは五間庁といって、西安事変の時蒋介石はここに泊まりこんでいました、1936年12月、ここにいた二人の将軍に檄(げき)を飛ばすため西安にきました。12日朝5時突然の銃声で目を覚ました蒋介石は着の身着のまま逃走しましたが、山腹(さんぷく)の岩陰に隠れているところを張学良の護衛兵に捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉されました。ここの五間庁にその時の銃弾にうたれた跡が残っています。

皆さん、これで華清池の見学が終わりました。ちょっと10分間休憩しましょう。写真を撮りたい方は撮ってください。10分後車の方へ戻ってください。

兵馬俑

秦の始皇帝陵は西安の東36kmのところにあります。その壮大の墳墓は2200年ほど前に作られ、中国史上初めての皇帝のお墓で、世界でも最大級のものです。秦の始皇帝は紀元前259年に生まれました。13歳の若さで王位につき、紀元前221年に中国統一という大事業を成し遂げましたが、中央集権政治を实施し、文字や貨幣、度量衡を統一したほか、北方の騎馬民族対策に長城を築くことはあまりに有名です。一方専制君主として人民に苛酷な負担を強いることになり、ついに始皇帝の死後、大規模な農民蜂起もあって、秦王朝を滅亡しました。

ところで、始皇帝陵は始皇帝は即位する当時に作り始めました。そのため、動員図70万人述べ、实に、38年間わたる巨大な土木工事でした。それについて、有名な司馬遷も「史記」の中に建設規模と豪華さに触れています、それによると、「三たび水脈達する深くほり、銅版を下に敷い柩を納めるようにし、また、この陵の中宮殿、望楼を作り、百官の席を設け、奇器、奇物でいっぱいにした。百の川、大海を作り、機械の仕掛けて絶えず、水銀が流れるようにした。上の方は太陽、天体の形を作り、下は山、川、地の形を整えた」と記されています。この陵墓の壮大は最新技術を使った、今の調査結果でもそう確かめられています。

もう一つ、今日の目的である「兵馬俑博物館」はこの陵から1.5km離れたところにあります。「兵馬俑」は、1974年に用水工事をしていた農民たちが偶然発見したもので、「兵馬俑」とは、兵士や馬の形をした土偶のことですが、始皇帝陵の死後、陵に埋められ、いわば始皇帝の近衛兵というべきものです。

今のところ、兵馬俑は現在三つ発掘されていて、その総面積は20000㎡にものぼろスケールの大きいものです。陶俑と陶馬は8000代、木造の戦車は100両ほど、青銅製の兵器は40000件も見つかっています。さらい感心させられたことは、实物大の兵士が一体ずつ表情や髪型が違い、どれ一つとも同じものはありません。このことから、秦の軍隊が様々な民族から編成された混成部隊だったことがわかります。このように、兵馬俑は、兵士の指先や靴底まで繊細に作られていて、馬の鬣や尾までもリアルに再現さてれているのを目の当たりすると、当時に千人以上だったといわれる職人のこだわりが感じられます。こうして、秦の始皇帝陵全体としては、この兵馬俑坑のほかにいろいろなものが発見され、最近の発掘では兵馬だけでなく、宮殿の实物大のレプリカや文官や芸人などの俑も発掘されており、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るための軍隊と思われていたこの遺跡は、实は、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうをするねらいがあったとも推測さらています。

兵馬俑一号館

1979年10月にオープンした一号館は始皇帝兵馬俑館最初の建物です。東西230m、南北62mの長方形をしていて、発見された三つの俑坑の中では規模の最も大きいものです。1000あまりの兵隊の俑、戦闘馬車とそれを牽引する馬の俑32体が出土しました。一号館の兵馬俑は歩兵を中心とした主力部隊ですが、先頭は武士俑が並び、ついて歩兵と戦車の隊列が続き、その左右両側と後ろにはそれぞれ1列ずつ武士俑が配置されています。

皆さん、これらの兵馬俑はよくご覧になっていただくとわかりますが、兵士たちは、その容貌だけでなく、朋装もくらいによって、それぞれ違います。最も目立ったのは将軍俑で、将軍は先端を巻いている高い冠をかぶり、これをとめるためリボンが顎の下で丁寧に結ばれ、胸まで格好よくたらしています。また、戦闘朋も二枚着ており、鎧も独特な形をしていて両肩と胸のところでリボンで結ばれています。現在、ここでの発掘はまだ継続中で、埴輪の数は推定で6000体ぐらいあるだろうと推測されています。

兵馬俑二号館

昔、戦争では陣立ては勝負を決める重要な要素でした。軍事家たちが多くの陣立ての形を考えました。しかし、その内容がずっと最高の軍事秘密で現在その記録がほとんど残っていません。

1976年、最初に発見されました兵馬俑坑の周りを発掘したところ、その北側から大量の俑が新たに発見されました。これは現在の二号館で展示されている兵馬俑です。

二号館の面積は約6000㎡、陣立ては陶俑と陶馬は合わせて1300体余りあり、ほかに戦車、歩兵、騎兵など編成された「W」の形をした曲陣で、それと騎兵集団で構成されていますが、御者が手綱を引き、片方の手に弓を持っています。戦車集団のほうは、4頭立ての馬車一台に御者が1人が付き、両脇の兵士二人は武器を手にして、戦車に登る姿勢を示しています。

先頭部隊は弓弩兵器を携えた射手で、右側に戦車、中央には歩兵と戦車が交互に左側には騎兵が配置されており、最後の方は騎兵と歩兵をいった陣容の混合部隊です。この陣立ての形は攻めることも守りことも自由にでき、秩序が保ちやすく、攻められやすい弱点がありません。

兵馬俑三号館

三つの兵馬俑館中で唯一発掘が完成したのが三号館です。三号館の面積は376㎡の凹字型となっており、規模として一番小さいほうですが、地下の大軍を統帥する指揮部です。ここからは馬車一台、馬、武士の俑、それに青銅製兵器が出土されています。

大清真寺

現在西安には6万人の回民族イスラム教の教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教徒の宗教活動の場所である寺院―モスクがたくさんあります。清真大寺は鐘楼の西側の鼓楼のすぐそばにある化覚巷にあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺の中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の742年の建立ですが、明代の1384年に大修理を行われました。

寺院は楼、台、亭、堂の四つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方㍍、建築面積はやく四千平方㍍、ほぼ完全な建築群で構成されています。壮観なドームや尖塔、モザイクなどを特徴とするアラブ式のイスラム寺院とは異なり、清真大寺の造りいぇ装飾は伝統的な中国式です。その特徴は塗装された梁や柱の彫刻を持つ中国特有の楼に色濃く見られます。

前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛縁な木牌坊があります。第二院には石碑が一ヶ所あり、石碑には明代、清代この寺を修復したことが記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。ここは礼拝の時、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日5回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にシャワを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方㍍、1回千人以上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用して、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んでいます。この寺は全て中国のイスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼、台、亭、堂四書類を形成しています。また、寺の建物は全部対称しています。

人々の生活習慣と風俗などが民族によって異なることはいうまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。

ムスリムは豚肉もお酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。

結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読む、メッカに生涯を誓います。女性は他の民族と結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣があります。

葬式の時も読経します。棺は使わず、28mの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。

回民族の朋装は漢民族と変わりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶる習慣があります。

碑林博物館

碑林博物館は、西安の南城壁のすぐそばにある孔子廟遺跡の場所に建てられていて、その敷地面積は3万平方㍍、「西安碑林」と「石刻芸術」と二つの部分からなっています。

皆さん、ご存じのように中国の正門は一般に南に向いていますが、碑林博物館はの正門だけは東に向いているのはなぜでしょう。それは孔子廟には必ず西と東の門があり、これを「礼門義路」と言って、いわば「礼儀の門」という意味があります。

さて、まず、正門に入りますと城壁と向かい合って「孔廟」の大きいな文字が見えてきます。それから、目の前に鳥居型の門が見えますが、これは「牌楼」ともいい。功労があった人の徳をたたえるために建てられたものです。更に、もう一つの門をくぐると中央に小さい道があり、その両側に馬をつなぐ「杭」があります。これは明、清時代からのものと言われ、これらの杭は、昔、この地方の大金持ちや官僚の邸宅の門にあったもので、訪れた実の馬をつなぎとめるものでした。なお、石柱の頭部には、邪悪を鎮め、縁起の良い動物や人物のデザインがほどこされております。 もうちょっど足を進めますと、東西の方向に亭が見えてきます。東の亭には、大きいな種が置かれていますが、この鐘は711年、唐時代の景雲2年に造られたもので、「景雲鐘」と呼ばれています。この「景雲鐘」は銅で鋳造され、重さ6トンもあり、表明に凸凹の乳首のようなものがついていますがこれは鐘の韻律を調整するもので、種に音色はまるで鳳凰の鳴き声のようとも言われています。

西安碑林、総数が2千基にのぼる「碑林」は文字通り石碑は林のように立ちならんでいるところからこのように名づけられました。碑林は歴史的にも芸術的にも価値が高く、中国最大の「石の書庫」とも言われています。ここで展示されているのは漢時代から唐、明、清時代にかけてのものまで、ここで注目されますのは、特唐代の有名な書道家が書いた書道作品です。

皆さん、目の前に「碑林」の文字が見えてきましたね。これは中国の民族英雂、林則徐が書いたものです。ここに碑林の最大の石碑であります「石台孝経」が展示されていますが、「孝経」とは、孔子の弟子曾参が編集した親孝行について書かれた本ですが、この石碑には「孝経」の内容だけでなく、唐の玄宗李隆基が書いた解説、序なども刻まれています。なお、石碑は高さ約6m、頭部、碑文、台座の三つの部分からなり、台座は三層で、その上の石碑は四つの石からなっています。頭部には生き生きとした蔓草や縁起の良い動物の線刻が刻まれていますので、ご注目ください。

第一陳列室 ここに展示されているのは「開成石経」です。114の石碑の両面に儒学の経典13経に全文が刻まれています。「開成石経」は唐の文宗の開成2年に立てられましたが、その石碑も戦争や自然災害によって大きいな被害を受け、40余りの石碑のうち、壊れた部分に文字を今度は前より小さい石碑に刻まみこみ、1588年には「開成石経」の傍に置くようになりました。いずれにしましても、これらは我が国でただ一つの完全に保存されている石刻経典といえます。

第二陳列室

この陳列室には、唐代の有名な書道家がかいた石碑で、後世の書法の手本となったものばかりが展示されております。初唐の欧陽詢が書いた「皇帝誕碑」、その息子の欧陽通の「道因法師碑」、顔真卿の書「多宝塔碑」と「顔氏家廟碑」、それから、晩唐の柳公権の作品「玄秘塔碑」などがあります。「大唐三蔵聖教序碑」は長安の弘福寺の和尚懐仁が王義之の書を集めて作ったといわれる「千金帖」です。また、ここには、大書道家の大作のほかに、古代ローマからキリスト教が伝来したことを伝える「大秦景教流行中国碑」はよく知られています。碑文は、中国とシリア両国の文字で書いてあり、唐王朝と外国との交流を研究するうえでも、貴重な資料となるものです。

第三陳列室

ここで篆書、隷書、楷書、行書、草書の書体で刻まれた石碑が展示され、中国文字の変遷を理解するには格好の場となっております。碑林の石碑の中で、最も古いものは「漢曹全碑」です。これは後漢の曹全が隷書で書いたものです。また、「千金文」は昔から児童の啓蒙書となってきました。

石刻芸術陳列室

1963年に建てられた石刻陳列室は、陝西省各地に散在していた前漢時代から唐代までの墓石と宗教的な石刻作品70点余りと集められ、陳列室には石棺、仏像、石刻の動物などの貴重なものが展示され、中には、丸彫り、浮彫、線彫りなどの石刻があります。なお、「牛耕図」は後漢時代の画像石の代表なものです。そして、唐の太宗李世民の愛馬を浮彫した「昭陵六駿」は唐代石刻芸術の代表的な作品として評価が高いです。

陝西歴史博物館

陝西省歴史博物館は古都西安にふさわしく、唐代の様式を取り入れた堂々たる建物の国立博物館です。西安の南に位置しており、敷地面積7万㎡です。所蔵する文化財は11万3千あまり、陝西省から出土した周、秦、漢、唐時代からの文化遺産です。展示されているのは、その中から選ばれたきわめて稀なものばかりで、約3,000点余りです。すべてのものが一品ぞろいです。展示室の面積は1100平方㍍、建物は代表的な唐代の宮殿様式で、『中央は殿堂、四隅は高楼』という伝統的な構造になっております。

展示品 館内に入って、まず目につくのは、大きな石に獅子ですが、これは則天武后の母親の墓 順陵の獅子に模造品です。

第一展示室は、約115万年前の旧石器時代、藍田猿人から始まっています。ここに展示されているのは、旧石器時代や新石器時代の代表的な文物で、先史時代の人々の生活ぶりを現しています。

現在、確認されている最も古い王朝は殷です。殷代には占いため亀甲と獣骨に刻まれ文字があります。これを甲骨文字といい、漢字の最も古い形になっています。周の時代、特に青銅器の製造と使用が盛んで、青銅器が精巧なものになっていた時代なので、「青銅器時代」をされています。青銅器は銅と錫と合金で、色が青黒いため「青銅器」と呼ばれるようになれました。博物館に展示されている青銅器は、祭礼の楽器、生産、生活用具、实戦兵器などがあります。デザインの美しさ、銘文内容の重要さなど、世界美術史上も貴重なものです。

この展示室では秦の足跡を展示しています。展示品の中には都咸陽の宮殿遺跡か発掘した瓦、煉瓦、土管などが並んでいます。始皇帝の事業の一つ、通貨の統一をあげることができるが、当時の貨幣関係の資料も展示されています。 漢代の都、長安城は、中国の歴史における初めての国際的大都会で、当時、ローマ帝国より2倍ぐらい広かったと言われます。当時の冶金、製鉄技術では、既に石炭による送風式溶鉱炉を使用していました。農機具だけでなく、兵器や日用品なども大量に鋳造、生産していたのです。紙の発明はかなり古く、西安覇橋の漢墓などからも、植物繊維で造った紙が発見されていますが、さらに良質の紙が造られたのは105年の蔡倫の発明からです。ここに展示されている、1965年咸陽市の東約25キロの陽家湾で発見された彩絵陶俑群で、計2500個以上が出土しました。 絢爛たる文化の華咲く唐代で、注目していただきたいのは壁画です。陵墓から運ぶ出された唐代の巨大な彩色壁画の展示が来館者を圧倒します。例えば則天武后の孫娘永泰公主の墓から出土した「侍女図」という壁画の女性を見ると胸元を緩やかに広げ、いわゆる詰襟の中国副の硬さがありません、足元を纏足ではなく大きな沓を履いています。いかにも自由闊達と見える、これらの女性たちが馬に乗るも横座りでなく、跨って大路を駆け抜け、闊歩したとも伝えられています。 隋 唐展示室では金銀の器具、唐三彩、磁器、瑠璃器具など当時の繁栄を偲ばせるものがずらりと並んでいます。唐三彩は西安、洛陽一帯に分布していますが、出土数が大変少なく、大変珍しいものです。陳列室されている馬、駱駝、宮女、宦官、各種生活用品など、題材の豊富です。葬式の行列に使う冥器などでも、工芸水準は大変高いものです。

黄帝陵

黄帝陵は中華民族の始祖黄帝軒轅氏のお墓です。陝西省の延安市黄陵県の橋山の上に位置しております。「天下第一陵」と言われています。橋山、海抜980メートルです。ここは歴代帝王と有名人たちが祭るところです。

黄帝は原始時代の優秀な部落首領です。土の徳を尊ぶ(とうとぶ)、土の色は金色ので、黄帝を呼ばれるようになりました。黄帝は天下を統一して、天下共主と言われいています。後人は自分を「炎黄子孫」また「華夏子女」と呼びます。黄帝は伝説的な人物ですが、後世に「人文始祖」と称えております。

ここは軒轅広場です。黄帝陵を祭りの出発点です。軒轅広場は5000枚秦嶺天然河の玉石で敷き詰めてきて、中華民族の5000年の悠久の歴史を代表しています。目の前の池は「印池」と呼ばれて、伝説によりますと黄帝が筆を洗いところです。 今、私たちが通ったこの橋は「軒轅橋」を呼ばれて、印池を横断して、全長66メートル、幅が8.5メートルで、全部花崗岩(かこうがん)で造りして、中国近代全石材第一橋と知られています。北端に95段階の石段があります。九五の尊の崇高(すこう)な地位を代表しています。

軒轅橋を突っ切ると軒轅廟です。軒轅廟は唐の代宗に建てられ、敷地面積約6666平方㍍、入りますと、左にコノテガシワがあって、高さ約19メートル、世界コノテガシワの父と言われて、遡ること、4700年もあります。

人文初祖大殿は正殿で、全廟の本館です。中には黄帝の浮彫全身の彫像があります。神棚の周囲は四つの縁起のよい動物の図案が刻まれています。左は蒼龍、右は白虎、上は朱雀、下は玄武です。

黄帝陵区は約4平方㍍、四隅は山と水、樹木が茂っています。頂上に登って、まず、石碑が見えてきて、「文武百官ここに馬をおお降りください。」が刻まれています。黄帝陵は山頂の真ん中に位置しており、南に向いて、高さ4メートル、周長約50メートルです。陵の前に「漢武仙台」が刻まれていた石碑があります。これは漢武帝が造たものです。

崋山

陝西省の華陰県にあって、西岳とも言われています。中国五岳の一つで、崋山主峰海抜2160メートルで、北は黄河を俯瞰し、南は秦嶺に連なります。崋山は「天下第一険」と言われ、雂大さと険しさで古くから中国五山の一つとして広く知られています。

東峰は崋山の奇峰の一つで、峰頂に美しい景色や「日の出」を見ることができる朝陽台があるので朝陽峰とも言われています。北峰は「雲台峰」をも呼ばれて、海抜1500メートルで、四方は断崖絶壁で、ただ1本しか山道が南側の連峰に通じていません。映画「智取崋山」はここから取材したものです、それは筆のように屹立して、千刃の断崖をなし、頂上から俯瞰すると秦川がぼうぼうと流れ、その間に渭水と洛水が龍のように曲がります。頂上には劈山救母石があり、聞くところによると中国有名な神話「宝蓮燈」の中の沈香が山を切り開いて、母親を救った物語はここで発生したと言い伝えられています。南峰はすなわち「落雁峰」崋山の主峰で海抜2083メートルもあります。崋山の最も険しい峰で、峰には深緑の松とコノケガシワ、林がうっそうとしています。東に雲を突いて架設した長空桟道があります。中峰は玉女峰をも呼ばれ、東、南、西峰に通じる要路です。

崋山は険しさが特色で「険」という文字があちこちにあります。山に至るところに断崖絶壁があり、山道は険しく景色も美しいのです。山道に沿って、玉泉院から蒼龍嶺まで多くの景勝地を見ることができます。

崋山の麓から青珂坪までの道中は風景が静寂で、谷間が鮮やかな緑色に染められて、鳥がさえずり、花が香り、泉が流れて、人々の心をゆったりとさせます。青珂坪の東からこそは本当の登山になります。ここに「回心石」の文字が刻まれた大きな石があります。これから先が崋山の危険なところです。この文字を見て体力の無いもの、肝っ玉の小さいものは引き返します。回心石を過ぎると崋山の咽喉、「千尺棟」に着きます。ここは険しい崖の小道両で、370段に石段があり、両側にあるロープを掴んで一歩ずつ登らなければなりません。「千尺棟」の幅はとても狭く、下を見ると深い井戸です。更に進むと、もっと険しい「百尺峡」に突き当たり、その後、仙人橋を通り、一段と険しい「老君梨溝」に至ります。ここは海抜1500メートル、史方は断崖絶壁で、570段の石段があり、その突き当たりは「狐孫愁」というところで、文字通り、猿でさえ困惑していて、断崖絶壁がどんなに険しいが想像できます。「狐孫愁」を過ぎると崋山の北峰に到着します。

見送り

皆さん、いよいよ西安を離れる時間が迫ってきました。もう一度身の回りをチックしてください。今から、空港へ向かいますので。

この3日間行き届かない点が多くて、ご迷惑をかけたかと思います、3日間の観光はあっという間に過ぎました。本当にお名残惜しいです。

私は皆様のお供をさせていただき、大変楽しく、いろいろと勉強させていただきした。こうして無事に快適な旅行ができましたのも、皆様のご協力のおかげです。この次、お出でになる時もぜひ私どもの旅行社をご利用ください。それまでに、私ももっと日本語を勉強しておきますので、また、ご案内させていただければ有りがたいと思います。

皆様、ここでお別れです。どうぞお元気で、さようなら。

第18篇:西安钟鼓楼日语导游词

鐘楼の案内

鐘楼は西安のシンボルの一つで、東西南北の四つの大通りの交差点にあり、西安の中心です。

鐘楼が建てられたのは西暦1384年で、明の時代でした。最初は西大街の迎祥観にありましたが、当時そこは西安の中心地だったからです。西暦1582年西安城が拡大されたため、鐘楼の位置は中心でなくなり、すこし西側のほうになってしまいました。それで、もとの鐘楼を壊して、拡大された西安城の中心地、つまり、現在の所に鐘楼を造りなおしたのです。

西安の鐘楼は中国の数多くの鐘楼の中で、形が一番大きく、一番よく保存されているものです。明の時代の西安は首都でもないのに、なぜ鐘楼の規模が一番大きいなのかということついては、いつも人々に不思議に思われていますが、それにまつわる面白い話があります。

明の時代の西安では、何回か大地震がおこりました。それは西安城の下を流れている川の中に蛟竜(こうりょう)がいるから、よく地震がおこるのだという噂がありました。西安府の知事はそれを聞いたら、大変信じていたので、蛟竜を鎮めるために、鎖で蛟竜を縛り、それを川の底まで沈め、その上に大きな鐘楼を造ろうと命令しました。それで、大きな鐘楼ができたのだそうです。不思議なことに、鐘楼ができてから、西安では大きな地震がおこったことはありません。

それはでたらめな伝説だと思われるかもしれませんが、できたわけがぜんぜんないとは言えないと思います。明の初代の皇帝朱元璋は貧しい家の出身で、いろいろな苦労をなめて、やっと皇帝になったのです。ですから、皇帝になってから、真竜天子に権力を奪われはしないかと深く恐れていました。それで、「竜気」を押しつぶそうとして各地に鐘楼を次々と建てさせました。特に西安は皇帝のよく出るところですから、もっとも大きな鐘楼を造らせたそうです。

鐘楼と鼓楼は古代に中国都市の特別の建築です。鐘と鼓は中国ではもともと打楽器で、約3000年ぐらいの歴史があります。最初は礼器と楽器として使われていましたが、春秋時代から(紀元前8世紀)から、軍事指揮に使われるようになりました。中国の古代の都市はみな軍事的お城という特色を持っていました。周囲は城壁で囲まれ、外堀や跳ね橋が造られ、それらを一体に組み合わせたのは中心地にある鐘楼です。鐘楼は指揮中枢部なのです。普通は晨鐘暮鼓として時間を知らせるのですが、緊急の時には、警報をしらせ、都市の防衛を指揮していました。このような防御システムは明の時代になって最盛期になり、明の時代の西安は西北地区の軍事中心でした。

鐘楼は敷地面積は11260平方メートル、建築面積は1378平方メートル、高さは36メートルです。土台は正方形で、高さは8.6メートル、レンガ造りです。その上は木造造りで、釘は一本使われておりません。外からみれば3階に見えますが、実際は二階建ての建物です。

鐘楼の二階の西側の壁に「鐘楼記」という石碑が嵌められています。鐘楼全体が移されたことについて記されています。

元の鐘楼にかかっていた鐘は唐代の景雲年に作られた景雲鐘ですが、不思議なことに、今の鐘楼に移されたら、音が出なくなってしました。仕方がなく、もう一つ作りました。いまの鐘は重さ5トン、周りに八卦図案が刻んであり、明の成化年(1465-1487)に作られたのです。

建国後、鐘楼は三度修復され、昔の面影がそのまま残されています。鐘楼の上にのぼると、西安市の全景を一望できます。

鼓楼

鐘楼の西側約1キロあたりのところに鼓楼があります。明の洪武13年(1380年)に造り始め、鐘楼より4年早く着工したのです。清の康煕38年(1699年)、乾隆5年(1740年)二回ぐらい修復しました。鼓楼の上に大きな鼓が置いてありますので、鼓楼と名づけられたのです。いまの鼓は1996年に作られたのです。

昔は朝、鐘楼の鐘をつき、暮れるとき、鼓楼の鼓を叩いて、人々に時間を知らせていましたので、晨鐘暮鼓と呼ばれていました。この鼓楼は敷地面1999平方メートル、建築面積は1804平方メートル、高さ33メートル、南北向きに通路のような門があり、鐘楼と同じように、土台はレンガ造りで、それより上は木造作りです。鼓楼の楼閣の南側に「文武盛地」という大きな扁額があり、それは清の乾隆の親筆です。

今の鐘楼と鼓楼の間に広場ができて、いつも観光客と市民でにぎわっています。

鐘楼と鼓楼の案内はこれで終わらせていただきます。お疲れ様でした。

城壁

西安の城壁は中国に現存する古代の城壁の中では唯一の完全なもので、唐代の城壁を明代に造りなおしたものです。

明の太祖巣朱元璋が「高く城壁を造り、多く食糧を貯め、帝王を称するのを延ばす」という提言に基づき、全国に城壁を造らせました。今の西安の城壁はその時代に改修されたもので、明の洪武三年から洪武十一年(1370年――1378年)まで行われましたが、初唐の規模のおよそ9分の1に縮小されました。

明代に造られた城壁は、高さ12メートル、上の幅は12メートルから14メートル、土台の幅は15メートルから18メートル、周囲は13.9キロです。最初の城壁は層に分けて黄土を突き固められたのです。一番下の部分は土、石灰ともち米汁でつき固められ、非常に丈夫にできたのです。後にレンガで城壁の内外とてっぺんを敷き詰めたのです。

城壁には120メートルごとに敵台が一つ造られ、城壁の外に突き出ていて、高さは城壁のてっぺんといっしょです。これは城壁を攻める敵を防ぐために造られたのです。敵台の間の距離はちょうど弓矢の有効射程の範囲内なので、横から攻めた敵を殺すことができます。城壁には敵台が98あり、いずれも兵士を駐在させる敵楼が造られていました。

城壁の城門は城内に入る唯一の道なので、もっとも工夫に工夫を考えて造られたものでした。西安の城壁は東西南北に四つの城門があり、それぞれ正楼、箭楼、闸楼(こうろう物見やぐら)の三重の城門あります。闸楼は一番外側にあり、跳ね橋の上げ下ろしのコントロールを管理するところです。闸楼には窓がたくさんあり、外に向けて射撃するために造られたのです。闸楼の三面が城壁とつながり、羊馬城と呼ばれ、半月形の立体空間となっています。敵が闸楼城門に入ったとしても甕の中に入ったように、周りから攻撃されるので、甕城とよばれたのです。

二番目の城門には箭楼があり、城門を守るもう一つの防御工事です。闸楼と同じように箭楼の三面が後ろの城壁とつながり、正楼との間がもう一つの甕城となっています。箭楼の上には窓がぎっしりあり、射撃するために造られたのです。箭楼は第一城門と第三城門の間にあるので、敵が第一甕城にはいっても第二甕城に入っても、そこから攻撃することができます。

正楼は城門の第三番目の城門であり、正門でもあります。正楼と箭楼の間は甕城となり、兵士を駐屯させるところでした。甕城には城壁を上がる馬専用の坂道があり、城壁には馬専用の坂道が全部で11あります。

城壁の四つの角には物見やぐらが一つあり、城壁の外側に突き出ています。その役割は敵台と同じです。城壁を一周すると、きっと不思議に思われることがあると思います。ほかの角がみな直角形なのに、ただ西南の角だけが半径12メートルの円形となっています。それはなぜでしょうか。1983年の修復でその謎が解明されました。明の城壁は隋唐の城壁をもとにして造りなおされたものですが、西南の角だけが唐の皇城の円形のままにしておいたのです。

城壁の外側に姫垣が築かれ、それに切れ込みあり、全部で5984あります。、矢を射ったり、見張ったりするために造られたのです。内側の姫垣には切れ込みがなく、行ったり来たりする兵士が落ちないように造られたのです。

城壁の上に40――60メートルごとにレンガで造られた水槽があり、排水に用いられています。それは城壁の長期保護には大いに役立ちました。

城壁の外側には壕があり、城門には跳ね橋があります。跳ね橋をあげると、城内にはいることができなくなります。城門は東門が長楽門、西門が安定門、南門が永寧門、北門が安遠門と呼ばれています。

西安の城壁はかつて規模の大きい軍事防御システムでした。また中国に現存しているお城の中でもっとも完全な形をしているお城でもあります。明の時代の歴史、軍事および建築の研究には非常に貴重な実物資料を提供してくれました。

1983年に城壁の修復工事をしました。そのおかげで、いまの城壁はみなつながるようになりました。城壁と外堀の間は環城公園となっています。夜になりますと、城壁がライトアップされて、とてもきれいです。それは西安でしか見られない独特の夜景です。楽しみにしてください。

第19篇:上海的日语导游词

上海市は、6341km2の面积に约1400万人の人々が住む中国最大の国际都市。日本を含む外国列强の租界地として発展してきた。租界地としての古さと、近年の経済発展による新しさが、浑然一体となって成立している特异な都市だ。

上海の歴史は700年と浅い。第2次世界大戦前は、欧米列强と日本の秘密情报员が暗跃し、占领地をめぐる駆け引きが缲り広げられ、アジアで最も魅力的かつ危険な魔都として名をはせた。1949年の中华人民共和国建国以降は、中国経済复兴の牵引车となり、1980年代以降は改革开放政策のなかで急激にその地位を高めた。

バンド

中山东路の黄浦江沿いはバンド(外滩)と呼ばれる上海一の観光地。ここは戦前、欧米の共同租界地だった所で、欧风の高层建筑物が通りに沿って并んでいる。19:00からはライトアップされ幻想的な雰囲気になる。朝は太极拳をする市民、昼は観光客、夜はデートの若者でにぎわう。

住所: 上海市中山东二路153号、219-239号

交通アクセス: 地下鉄2号线「河南中路站」下车。南京东路を黄浦江に向かって徒歩约10分

営业时间: 24时间

所要时间: 1时间

▲ バンドでは川沿いを散策しよう

豫园

1577年に明代の名匠・张南阳が造った江南を代表する名园。园内には回廊や龙壁に仕切られた庭园や楼阁がたくさんあり、见る位置や角度でいろんな景色を楽しめるように工夫されている。周辺には古い民家がたくさん残っていて、昔ながらの雰囲気を今に伝えている。住所: 上海市安仁街132号

交通アクセス: 市バス902路「豫园站」下车すぐ。地下鉄1号线「黄陂南路站」下车。河南南路方面に向かって徒歩约15分

电话: (021)63283251

営业时间: 8:30~17:00、冬期は8:30~16:45

所要时间: 1时间

定休日: なし

クレジットカード: 不可

予算: 30元

▲ 庭园は建物の赤、庭石の白、植木の绿で构成されている

玉仏寺

1882年创建の禅宗寺院。敷地中央に位置する大雄宝殿には金色に辉く三尊仏が安置されていて、地元の人々の信仰を集めている。寺名の由来となっている玉仏は般若丈室2阶の玉仏楼にある。境内には本格

的な精进料理店もある。

住所: 上海市安远路170号

交通アクセス: 市バス

13、19路「安远路站」下车

电话: (021)62663668

営业时间: 8:00~17:00(入场は16:30まで)

所要时间: 30分

定休日: なし

クレジットカード: 不可

予算: 10元(玉仏楼は别途5元が必要)

▲ 三尊仏は辉くばかりに美しい

东方明珠塔

アジア最大のテレビ塔。263mと350mの所に展望室があり、上海市内を一望できる。一帯は浦东新区と呼ばれ、上海で一番ホットなエリア。最新流行のレストランやショップがたくさんあり、高层ビルの外资系ホテルも多い。

住所: 上海市豊和路504弄2号

交通アクセス: 地下鉄2号线「陆家嘴站」下车すぐ。「黄浦観光隧道」(片道30元)もある

电话: (021)58791888

営业时间: 8:30~21:30

所要时间: 30分

定休日: なし

クレジットカード: 不可

予算: 50元(下の展望室)、100元(上の展望室、上海歴史博物馆の入场料も含む)

▲ 东方明珠塔の周囲には高层ビルが密集している

龙华寺

242年に呉の孙権によって创建された古刹。院内の仏殿は「五进殿堂式」といい、南から弥勒殿、天皇殿、大雄宝殿、三圣殿、方丈室が南北に并んでいる。大雄宝殿の东西にある钟楼の大铜钟は高さ2m、重さ65トンもある。龙华塔は南侧に少し倾いて建っている。

住所: 上海市竜华路2853号

交通アクセス: 地下鉄3号线(明珠线)「龙漕路站」下车。龙水北路を徒歩约5分

电话: (021)64576327

営业时间: 7:00~17:00(入场は16:30まで)

所要时间: 30分

定休日: なし

クレジットカード: 不可

予算: 5元

▲ どの拝殿でも热心にお祈りしている

鲁迅公园

戦前日本人がたくさん住んでいた虹口エリアにある公园。园内には文豪・鲁迅の墓である「鲁迅墓」があり、鲁迅の铜像が建っている。园内东部には「鲁迅纪念馆」があり、鲁迅の上海滞在时代の遗品が展示されている。近くには鲁迅が死去するまで住んだ「鲁迅故居」もある。住所: 上海市四川北路2288号

交通アクセス: 地下鉄3号线(明珠线)「虹口足球场站」下车すぐ电话: (021)65400009

営业时间: 6:00~18:30(入场は17:00まで)

所要时间: 1时间

定休日: なし

クレジットカード: 不可

予算: 2元

▲ 园内の専用スペースで麻雀を楽しむ老人たち

上海博物馆

1996年にオープンした総合博物馆。総床面积は3万8000m2もあり、中国でも最大级の规模を夸る。中国古代青铜器馆、中国古代雕塑馆、

中国歴代陶磁馆、中国歴代絵画馆、中国歴代书法馆、中国古代玉器馆、中国明清家具馆、中国少数民族工芸馆などがある。

住所: 上海市人民大道201号

交通アクセス: 地下鉄

1、2号线「人民広场站」下车。西蔵北路を南へ约5分歩いた右侧

电话: (021)63723500

営业时间: 月~金9:00~17:

は闭馆30分前まで)

所要时间: 2时间

定休日: なし

クレジットカード: 不可

予算: 20元(学生は5元)

、土~20:、日~17:(入场000000

第20篇:故宫の日语导游词

故宫の日语导游词

今日はこれから故宫へご案内しますが、少し时间がございますので、故宫のあらましをご说明したいと思います。

故宫とはその字が表すとおり古い宫殿という意味で、中国の明、清両王朝の皇居として建造されたものです。当时は紫禁城と言っていましたが、1925年に故宫博物院と改められ、一般に公开されるようになりました。

紫禁城の造営を命じたのは、明の第三代皇帝朱てい、つまり永楽皇帝です。今から600年前の1406年に造営が始まり、约15年间かかり、1420年に落成しました。その后、何回も立て直されたり、増筑されたりして、いまの规模になりましたが、ここで明、清両代に渡って24人の皇帝が全中国を支配していたのです。

紫禁城は昔の北京城、つまり北京の町の中央线上にその中心が来るように建てられていて、その建筑规模は世界に并ぶものがありません。しかも、中国において、最も完全に保存されている最大の古代建筑群です。紫禁城は长方形で、南北960メートル、东西750メートル、敷地面积は72万平方メートル、建筑面积は15万平方メートルにも及んでいます。こんな広大な敷地の中を详しくご覧になるのでしたら一周间ぐらい必要だそうです。そこで今日は特徴あるところだけに触れ、実际に见学なさるときにまたその场でご案内したいと思います。

まず、故宫を见学されるとどなたでもすぐ気付かれることは、一种独特な色彩であることでしょう。宫殿全体を取りまいているのはベンガラ色の壁です。この色は単に美しいためばかりでなく、古来中国では尊さと豊かさを表すものとして、用いられてきました。また、夥しい建筑群の屋根は黄、绿、黒、紫などの瑠璃瓦が使われています。黄色は中国の五行学说の中で中央の方角を代表しているので、皇帝の色とされてきました。ですから、皇帝の住まい及び政务を司る所の建物には全て黄色の瑠璃瓦を用いたわけです。皇子たちの住まいには黄色に准ずる色として绿色の瑠璃瓦を用いていますし、文渊阁と名づけられている书物を入れておく仓库は、黒色の瑠璃瓦になっています。なぜ黒を使ったかと申しますと、黒は水を代表する色であったので、书库を火灾から守るためだそうです。さて、故宫の中へ一歩足を踏み入れられますと、どなたもどのぐらいの部屋があるのだろうかと思いになることでしょう。実は、この広大な敷地の中には9000间以上あるといわれています。最もこの「间」というのは柱と柱の间を表す言い方ですので、実际にはずっと少なくなるわけですが、それにしても夥しい数に违いありません。数え上げるのに相当な时间と根気がいるのです。

次にこれらの建物がどのように使用されてきたかについて、ざっとご说明したいと思います。故宫は主に前朝と内廷に分かれており、前朝は皇帝が厳かな式典を行い、権力を示す场所です。「太和殿」、「中和殿」、「保和殿」という三大宫殿を中心として、「文华殿」、「武英殿」が両侧に立っています。内廷のほうは「乾清宫」、「交泰殿」、「坤宁宫」及び「御花园」を中心に、両侧には东西六宫などの宫殿が立ち并んでいます。「乾清宫」は皇帝が住んでいた所ですが、ここも日常の政务が执り行われたり、大臣、部下や外国からの使节と会见する场所として使われていました。「交泰殿」は皇后の诞生祝いの仪式を挙げる所ですが、ここには皇帝の権威を表す25个の玉玺、つまり印鉴が纳められていました。「坤宁宫」は皇后の住まいとして使われた所です。「御花园」はもちろん皇帝、皇后、妃、皇子たちの憩いの场所

导游词日语
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