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海河游日语导游词详版

发布时间:2020-03-02 02:55:36 来源:范文大全 收藏本文 下载本文 手机版

海河游览线

各位游客朋友,大家好!

现在我们游览的是美丽的海河。海河,中国七大江河之一。她像天津的一条大动脉,蜿蜒流经市中心区,奔向渤海。海河是子牙、大清、南运、北运、永定河5大水系的入海通道,是天津人的母亲河,也是天津的象征。她记载着天津建城600多年的历史,孕育了天津的现代文明。海河西起三岔河口、东至大沽口入海,全长72千米。海河两岸集以古文化街、鼓楼步行街为主的中国古建筑群,以原九国租界遗存的“小洋楼”为主的欧式古典建筑群和现代建筑群为一体,展现了中西文化的反差与融合,更是游览天津城市建筑风貌的最佳窗口。

我们将乘船从三岔口耳闸启程,顺流而下,至大光明桥,全程1个小时。一条海河观光带,半部中国近代史,随着游船的起动,您可在动火阑珊中感受海河夜景,了解天津历史背景,同时也可欣赏一桥一景,争奇斗艳,颇具津沽特色的桥文化景观,以及天津中西交融、古今并蓄的独特城市风貌。

我们现在的位置是“耳闸”。耳闸公园由呈船形的新闸与老耳闸共同组成。这艘仿明代石舫——天石舫,由汉白玉石材精雕细刻而成,比北京颐和园石舫的规模还要大,此石舫为纪念天津名称的由来“天子经由之渡口”而建。

您正前方是永乐桥。稳坐于永乐桥之上的天津之眼作为世界上唯一一座建在桥上的摩天轮是当之无愧的“世界第一”。摩天轮可容纳300多位游客同时观光,转一周约30分钟,最高处达120米,天气晴朗时可将方圆40千米以内的景致尽收眼底。

游船左岸的建筑是大悲院文化商贸区,大悲院是天津现存规模最大、历史最为悠久的佛门十方丛林寺院,曾供奉过唐僧玄奘法师的灵骨。

前方思源广场上矗立的建筑是天津近代工业与城市历史博物馆,它的造型仿佛两条正要腾飞的巨龙,象征着天津历史与工业发展并驾齐驱,密不可分。博物馆旁边矗立着引滦入津工程纪念碑,上面有邓小平亲笔题写的大字。

现在我们看到的是天津的发源地“三岔河口”,此处是南运河、北运河和海河三流交汇的地方。三岔河口地区是天津的发祥地和近代工商业发展的摇篮,曾是天津的政治、文化、教育和经济中心,具有丰富的历史积淀。她是天津最早的居民聚居点之一,曾是南北漕运的中转枢纽,也是天津最早的商品集散地。因而历史上有“先有三岔口,后有天津城”的说法。

我们前面这座桥名叫金钢桥,老桥始建于清光绪29年(1903年),为开启式钢架桥,是海河最著名、最重要的桥梁之一。新的金钢桥改建于1996年,为双层彩虹式的金钢桥。

我们左前方这座古典的建筑是望海楼教堂,1869年由法国天主教会建,法国传教士谢福音在此修建天津第一座天主教堂,曾多次被焚毁,又多次重建,著名的“火烧望海楼”事件就是发生于此,现在此处是天津重要的爱国主义教育基地。望海楼教堂是目前天津唯一保留下来的哥特式建筑,是依照巴黎圣母院的样式建造的,1989年被国务院列为国家重点文物保护单位。

现在我们游船穿行的是狮子林桥,初建于1954年,重建于1974年,因狮子林渡口而得名。2003年,对狮子林桥进行顶升,顶升桥梁当时在国内尚属首例,整体升高近两米。不到1个月时间里,就将桥顶升到位,创造中国桥梁史上一个奇迹。

船行右前方这片区域是国家5A级旅游景区,以“中国味、天津味、文化味、古老味”而闻名全国的天津古文化街。这里是天津最早的文化、宗教、商贸聚集地。还是天津民俗文化和海河文化的汇集地。这里建有世界三大妈祖庙之一的天后宫,杨柳青年画、泥人张彩塑店也在此落户,天津首家华夏鞋文化博物馆也落户在此,古文化街蕴藏着天津众多的文化积淀,由此称为“故里寻踪”,被列为津门十景之一。古文化街广场总面积近7000平方米,木地板铺装选用的是马来西亚进口的天然实木,是天津面积最大的木地板广场。

现在我们左手边看到的是李叔同故居,李叔同即著名的弘一法师,天津人,他自幼居住在这里,生活在一个封建大家庭,接受旧教育。李叔同幼年聪慧,五岁开始便在这里读经史子集,学习诗词文章。在他19岁时离津去上海,1911年留学日本归国后又在天津任教居住两年,前后在天津的居住生活了大约22年。这一时期,正是他治学与成长的年代,可以说,李叔同一生的辉煌建树,是在这里奠定的坚实基础,

李叔同是我国近代新文化运动的先驱,他通古博今,曾东渡扶桑,专攻音乐和绘画,创办我国第一个话剧社团“春柳社”,并主演了《茶花女》、《黑奴吁天录》等名剧。38岁他在杭州虎跑寺剃度为僧,并南下福建泉州,穷其一生潜心钻研佛经戒律,终成一代宗师。

接下来大家看到的是金汤桥,该桥建成于1906年,是全国唯一的平转式开启桥,桥名金汤是取“固若金汤”之意。是天津市现存最早建造的大型铁桥之一。铁桥建于光绪三十二年(1906年),比解放桥早建约20年,是海河桥梁中最年长者。1949年1月15日凌晨,解放军东西两路大军在金汤桥胜利会师。因此,金汤桥是象征天津解放的标志性建筑。

船行左前方这片建筑群是天津洋楼文化的一部分。海河两岸的九国租界,分别按各自国家的建筑风格,建起一片一片的国中之国。租界洋楼,是旧中国饱受凌辱的实证,但也给我们留下大批建筑艺术的精华。游船左岸是原来奥匈租界所在地。这里完整保留了三座历史建筑:白色建筑是原来的奥匈领事馆;红色建筑是冯国璋故居;旁边这座造型优美、参差错落的红顶小楼是“袁氏宅邸”,是一座欧洲古典式三层楼房,它是中世纪“罗马风格”的演变,融合了日耳曼民族的建筑手法,红色的陡坡屋顶正脊中间建扣钟状式采光亭,系仿意大利文艺复兴早期“圣玛利亚大教堂”穹顶建造,而外形又比意式建筑增加一道反向曲线,形成德国建筑的独特风貌,门廊方柱与圆柱相结合,在天津建筑中颇为难得。像这样的历史风貌建筑在海河两岸共有550多幢。

现在我们正前方是进步桥。它整体为白色,造型为流线型。从远处看,宛如一条飞鱼跃出水面,又像一列飞驰而过的高速动车。

接下来我们看到的这座桥名为北安桥,本桥借鉴法国巴黎亚历山大三世桥的特点,桥头雕像采用西洋古典表现形式,雕像内容则汲取中国传统题材:青龙、白虎、朱雀、玄武四灵,寓意东西南北四方平安,更寓意盛世太平,国家繁荣。桥墩雕像为压纹青铜正面装饰盘龙,桥栏柱基上为四尊舞姿各异的乐女雕像,手中各抱着四种不同的乐器,突出了中国古典韵味,是海河上中西合璧的一道风景线。

毗邻北安桥的是意式风情区。这是意大利在天津租界的中心区,始建于1902年,有西洋古典建筑140幢及花园、广场等,是亚洲地区唯一也是最大的保存良好的意大利风貌建筑群落。马可波罗广场和平女神雕塑13.6米,建于1923年,由意大利雕塑家朱塞佩·博尼设计。

船行左手边是海河中心广场公园,是本市最大的广场公园,园内栽种了70多种花木。 前面这座桥是大沽桥。它设计构思为“日月拱”,由两个不对称的拱圈构成,大拱圈拱高39米,面向东方,象征太阳;小拱圈拱高19米面向西方,象征月亮,预示天津美好的未来与日月同辉。两个拱圈大小不对称,桥下没有桥墩,因此于2006年获得国际桥梁大会颁布的世界桥梁设计建造最高奖——尤金·菲戈奖。

前面这组高耸入云的摩天大楼名为“津塔”,独特的造型成为海河边的新景观,天津的新地标,而旁边的“津门”,为中空式高层建筑,象征着天津向四海宾朋敞开大门,欢迎海内外来客。

前面这座世纪钟,它矗立于海河之畔,与解放桥相辉映,印证百年变迁,凸显时代精神。钟高40米,直径14.6米,基座面积74.4平方米,重170吨有余,通体金属,流光溢彩。钟摆上下,日月同辉。钟盘圆周,众星拱卫。中西交融,天人合一。古典与现代浑然一体,寓意时空延续,时不我待。

前面这座桥是解放桥,是为纪念天津解放而改名。因为周边租界围绕,原称“万国桥”。这座双叶立转开启式桥梁在全国来说是独一无二的,是中国开启式桥梁的经典之作。

如果说海河是一串美丽的项链,那么横跨海河的座座桥梁则是组成这串项链的颗颗明珠。

前面这座宏伟的建筑是天津站。天津是中国铁路运输的发祥地。1881年建成的9.7千米的唐胥铁路是中国最早建成的铁路,至今仍是京沈铁路线的一部分。1888年唐胥铁路扩建至天津,并在天津建成中国第一个综合性客站—天津站。

天津站对岸这片建筑群——津湾广场,天津第一座24小时不夜城,是融合现代化、欧式建筑于一体的开放、和谐、生态、智能的高端商务商业聚集区。

重新修建的赤峰桥总投资6.06亿元,是海河上投资规模最大的一座桥,是天津海河桥梁史上的伟大神奇杰作,被称为“海河之舟”、“天津之舟”。

您在岸边看到的这座铜像是张自忠像。张自忠是著名的爱国将领。1935年后曾任天津市市长。在任期间买下了一座房子,就是今天的成都道60号。

这边看到的一组雕塑被称为“邮路漫漫”,从骑马、骑骆驼到骑自行车,描绘了邮递事业的发展历程。中国最早的邮政机构,就是当年清政府批准成立的天津海关巴斯达(POST)局,“中国第一条邮路”也是在此诞生的。

现在我们前面是利顺德豪华精选大饭店。如果说“近代中国看天津”,那么,近代天津肯定要看“利顺德”。利顺德大饭店始建于1863年。近代史上的风云人物,如孙中山、宋庆龄、末代皇帝溥仪等都曾下榻于此。1996年利顺德饭店被国务院列为全国重点文物保护单位,也是全国酒店业唯一的国家级重点文物保护单位,同时是中国首家奢华型酒店。

前面这座欧陆风格的桥是大光明桥。桥中央两侧安装了4座主题雕像——“日、月、星、辰”,代表一天“昼、夜、暮、晨”4个时段,为的是突出桥梁的“光明”主题。

一条海河观光带,半部中国近代史,海河—天津的母亲河,她纳九川、穿津沽、泽惠津城,贯穿并见证着天津整个城市的发展与崛起。

我们的海河之行到这里就结束了,游船即将靠岸,希望这次旅行能加深您对天津的了解与喜爱,感谢您的配合与支持,期待下次我们再相会。

海河観光コース

皆さま、ようこそ天津へおいでくださいました。本日ご案内するのは美しい海河です。 海河は中国を流れる7本の大きな河川の一つです。まるで、天津の大動脈のように、都市の中心部を流れて、渤海へ流れ込んでいます。天津市域で5つの川が合流して海河となります。天津を育んだ母なる川であり、天津の象徴と言われています。海河は600年あまりの天津歴史を見守ってきて、天津の現代文明を生み出しました。子牙河と北運河の合流点から始まり、浜海新区の大沽口まで、海河本流の長さは72kmです。海河の両側には古文化街、鼓楼など中国の伝統的な建築が集中しているだけでなく、異国の雰囲気が溢れた九カ国の租界建築もたくさん残されています。中国と西洋文化の差異、また異なる文化間の融合を示しています。海河を遊覧するのは天津市の建築風格を知るための一番いい方法です。

観光船で三岔河口の耳闸から出発して、流れに沿って河を下り、大光明橋までで遊覧が終わります。全コースは1時間かかります。「一本の河、半分の中国近代史」と言われるように、夜景の中、遊覧船はゆらゆらと揺れる波にゆっくりと流されています。さまざまな橋と建築がライトアップされていて、透き通るようにきらきらと輝きます。観光客は海河の夜景を楽しむと同時に、海河の上に架けられているさまざまな橋を観光することができます。また、中国と西洋、古代と現代が融合した都市の風貌が見られます。

前方に見えるのは耳闸公園でございます。耳闸公園は船の形をしている新しい水門と以前の古い水門からなります。右手に見える白い岩石で作られた屋形船は明の時代のものをまねて作られたのです。北京の颐和園にある屋形船より大きいです。この船の名前は「天石舫」です。言い伝えによると、ここは天子がお渡りになった渡し場だそうですから、それを記念するために作られました。

みなさま、前方は永楽橋でございます。永楽橋にかかってある「天津アイ」は世界で橋にかけられている唯一の観覧車です。「天津アイ」は300人あまりの観光客が同時に収容できます。一周するのにおよそ30分かかります。観覧車の一番高いところは120メートルで、観覧車から、周辺40キロの景観が見られます。

みなさま、左手にあるのは大悲院文化商業区でございます。大悲禅院は天津において、現存の規模一番大きい、歴史一番長い仏教のお寺で、唐の玄奘三蔵法師の舎利を祀るところだったので、非常に名高いです。 前方の思源広場にある建築は天津近代工業と都市歴史博物館でございます。博物館の外観を見ると、空に向かって飛び上がろうとしている2匹の竜を思わせます。天津の歴史と工業発展はあたかも肩を並べて飛んでいることを2匹の竜に喩えられます。博物館のそばに、80年代に滦河の水を天津に取り入れるプロジェクトの成功を記念するために建てられた石碑があり、石碑には当時の主席邓小平の自筆の字句を書き記されています。

これからご案内するのは天津の発祥地「三岔河口」でございます。ここは南運河、北運河と海河の合流するところです。天津及び近代の商工業はここから発展してきました。ここはかつて天津の政治、文化、教育と経済の中心で、長い歴史を持っています。また、天津で一番早くできた集落の一つです。以前、ここを通じて、南方から北方へ食糧を輸送していました。天津最初の商品集散地でもあります。そこで、歴史上には「三岔河口があってから、天津が誕生したのだ」と言われています。

前方に見えるのは金鋼橋でございます。清の光緒帝の時(1903年)に作られました。もともとは鉄鋼開閉橋でした。海河の上の最も有名、最も重要な橋の一つです。1996年に双層のアーチ橋に改築されました。

左側に見える建物は望海楼教会でございます。1869年にフランスのカトリック教会によって建てられ、天津で最初に立てられた天主教会です。何回も焼失と再建を繰り返していました。有名な「火焼望海楼事件」はここで発生しました。(第2次アヘン戦争後、宣教師と一般民衆との間にはさまざまなトラブルが頻発するようになりました。1870年の春に教会付属の孤児院で幼児が次々と死亡した事件が出ました。その頃、天津では幼児の失踪事件が相次ぎました。6月、誘拐の容疑者が逮捕されて、「首謀者は教会信者で、教会も誘拐事件に関わっている」と供述したとの知らせに、怒った民衆が孤児院の前に集結し、この教会を焼き払う行動に出ました。)現在ここは天津の愛国主義教育基地となりました。この教会は天津に残されている唯一のゴシック式建築で、パリのノートルダム大聖堂をまねて作られました。1989年に、中国の国務院より全国重点保護文物単位と認定されました。

前方にあるのは獅子林橋でございます。1954年に建てられ、1974年に再建され、獅子林渡し場から名がつけられました。2003年に修繕した時、中国最初の試みとして、1ヶ月未満で橋の頂部を2メートル上げて、中国橋梁史においての奇跡を創造します。 前方に見えるのは国家AAAAA級景勝地である古文化街でございます。過去には文化、宗教と商業貿易が集中していたここで、天津の民俗文化と海河文化が感じられます。古代にここは海の女神(媽祖)を祀るところでしたから、世界三大媽祖廟の一つである「天后宮」がここに建てられました。また、天津の名産物である年画(年画というのは正月にかけるめでたい気分を表す絵)と泥人形がここで売られています。更に、中国の靴の文化を紹介する博物館もここにあります。古文化街は悠久な歴史と深い文化的蓄積を有しています。天津の民俗、文化を理解するための一番よいところです。古文化街は天津十景の一つでもあります。景名は「故里寻踪」です。古文化街広場の総面積は7000平方メール近いです。その広場はマレーシアから輸入した天然木で作られました。

左手にあるのは李叔同の旧居でございます。李叔同は天津人、弘一法師とも呼ばれ、封建的な大家庭に生まれ、幼少からここで旧式の教育を受けていました。幼い頃から聡明で、5歳から経史子集を読み始めて、詩詞文章を学び始めたそうです。19歳に天津を離れて上海に行って、1911年に日本から帰国した後、また天津で教員を2年間務めたため、天津で約22年間を過ごすことになります。この時期、まさに彼の勉強や精神各方面の成長した時期であるため、李叔同の一生の光り輝く功績を取ったのは、ここで頑丈な基礎を打ち立てたからだとも言えるでしょう。

李叔同は近代の新文化運動の先駆者で、古今のことを知り尽くして、日本にも渡って音楽と絵画を専攻して、我が国の最初の新劇の劇団「春柳社」を創設して、『椿姫』、『黑奴吁天录』などの名劇も主演しました。38歳に、杭州で髪を剃って出家して、そして福建泉州に南下して、一生お経の研究に専念して、有名な宗匠になります。

さて、前方にあるのは金汤橋でございます。この橋は1906年に建設され、全国の唯一の旋開橋で、天津市の現存する一番早い大型鉄橋の一つです。鉄橋は光緒の32年に(1906年建てられ、解放橋よりも約20年早くて、海河の橋梁の中で最も年上なものです。1949年1月15日の夜明け方、解放軍はここで順調に合流したため、金汤橋は天津解放を象徴するシンボル的な建物です。

左側に見える建築は天津にある洋風建築の一部です。海河の両側はもともと9カ国の租界でした。自分の国の建築風格によって、それぞれ違う風格の建築が建てました。租界の洋風建築は旧中国が凌辱された証拠です。しかし、私たちに建築芸術の精髄を残しました。左手に見えるその白い建物はオーストリアとハンガリーの領事館です。赤い建築は馮国璋の旧居です。あの赤い屋根の建物は初代中華民国大総統袁世凱の旧居です。三階建てのヨーロッパ古典式建物です。欧州中世のローマ風を受け継いで、ゲルマン民族の建築手法も取り入れて作られました。赤い急勾配の屋根にまるで伏せた鐘のような東屋があります。イタリアの聖マリア大聖堂の屋根を真似て作られました。また、イタリアと違うドイツ建築の手法を取り入れて、ドイツ建築の独特な風格を示しています。丸い柱と四角い柱が同時に利用するというデザインは天津の洋風建築の中であまり見られません。このような特色のある洋風建築は550棟ほど海河の両側に分布しています。

前方に見えるのは進歩橋でございます。白い流線形をしている橋は遠くから見ればあたかも飛び魚が川から飛び上がっているように見えます。また列車が非常に速く走っているように見えます。

前方に見えるの北安橋でございます。パリのセーヌ川に架かるアレクサンドル3世橋を手本として作られました。橋に飾ってある彫像は西洋の古典式風格を取り入れました。彫像の内容は中国の伝統的題材、天の四方をつかさどる四つの神、「青竜、白虎、朱雀、玄武」にしました。国の繁栄、太平の世を象徴しています。橋脚に飾られている彫像はブロンズの竜です。橋の上に楽器を奏でながら踊る女性の彫像は飾ってあります。生き生きとしています。中国の古典的趣が感じられます。この橋は中国と西洋を折衷した建物です。

音楽公園の隣はイタリア風景区でございます、1902年にイタリアは天津に租界が設けました。ここはイタリア租界の中心でした。西洋の古典建築140棟のほかに、庭園、広場もそろっています。その辺はアジア地域でもっとも広くてよく保存されたイタリア建築群です。その中のマルコ・ポーロ広場にある平和の女神像は13.6メートルあります。1923年にイタリアの著名な彫像家によってデザインされました。

左手に見えるのは海河中心広場公園でございます。天津市内の最も広い広場公園です。公園には観賞用の花と木が70種以上植えられています。

前方に見えるのは大沽橋でございます。大きさの違うアーチからなっています。わりと大きいアーチの高さは39メートルです。東を向いていて、太陽を象徴しています。小さいアーチの高さは19メートルです。西を向いていて、月を象徴しています。その橋は天津の輝かしい未来を象徴しています。二つのアーチは左右対称ではありません。また、橋には橋脚もありません。難易度の高いデザインなので、2006年に世界建築橋梁設計の最高賞を受賞したました。 前方に見える超高層ビルは「津塔」(天津のタワー)でございます。独特な造形を持っています。天津の新しいシンボルとされます。隣の空洞のある高層ビルは「津門」(天津の門)と呼ばれます。天津が世界各地の来客を歓迎することを象徴しています。

前方に見えるのは世紀の時計でございます。世紀の時計は解放橋と遠くから相呼応しています。天津の百年の歴史的変遷と新時代の精神を示しています。この時計は高さ40メートルで、直径14.6メートルです。時計の台の面積は74.4平方メートルで、重さは170トンあまりです。金属でできた時計はピカピカ光っています。「光陰は矢の如し、時は人を待たず」と言う意味を象徴しています。

みなさま、前方に見えるのは解放橋でございます。元々は多くの国の租界がここに設けられたので「万国橋」と名づけられました。その後、天津の解放を記念するために解放橋と命名されました。大きな船が通る時に「ハ」の字型に跳ね上がる「跳ね橋」です。中国の橋の歴史で最高水準の橋の一つとされています。

海河をきれいなネックレスと喩えられたら、海河にかかる橋はこのネックレスを作る真珠です。

前方は天津駅でございます。天津は中国の鉄道運輸の発祥地です。1881年にできた9.7キロの唐胥鉄道は中国が自力で建設した最初の鉄道です。今でも京瀋鉄道の一部です。1888年に、唐胥鉄道の敷設によって、「天津駅」ができました。中国で一番早くできた総合的な駅です。

天津駅の向こう側にある建築群は津湾広場でございます。天津の初めての24時間営業の不夜城で、ハイエンド商業施設が集中するシービーディーでもあります。

前方に見えるのは新しく修繕された赤峰橋でございます。海河の橋の中で投資額が最も多い橋です。天津の橋の歴史では最高水準の橋の一つと思われています。「海河の舟」または「天津の舟」と呼ばれています。

前方に見える銅の彫像は張自忠の像です。張自忠は有名な愛国将軍です。1935年に天津市長を務めました。張自忠の旧居は成都道60号にあります。

前方に見える彫像は中国郵政の発展史を反映する彫像でございます。昔は馬やラクダから始まり、そのうち自転車などと、生活の発展とともに郵便配達も進歩してきました。中国で一番最初の郵便局は清政府によって天津に設置されました。中国で一番最初の郵便線路も天津で誕生しました。 みなさま、前方に見えるのは天津スターウッドホテルでございます。このホテルは1863年に建てられました。天津の近代歴史には非常に重要な位置にありました。中国近代の風雲児、例えば孫文、清の最後の皇帝溥儀などここに泊まったことがあります。1996年、天津スターウッドホテルは国務院に全国重点文物保护単位に認定されました。中国のホテルの中で唯一の国家重点文物保護単位です。また、このホテルは中国で第一軒の豪華型ホテルです。

前方に見えるのは大光明橋でございます。ヨーロッパ大陸風の橋とされています。「光明」という主題を強調するために、橋の両側に四つの彫像が飾られています。それぞれは「日、月、星、辰」です。一日の「昼、夜、黄昏、朝」四つの時間帯を代表します。 「一本の河、半分の中国近代史」と言われるように、海河は、天津を育んだ母のような川として、天津の著しい発展と飛躍を見守ってきました。

みなさま、観光船はもうすぐ岸につきます。海河の観光はこの辺で終わります。今回の観光を通して、天津に対する理解を更に深めていただいたら幸いだと思っております。皆さまのご協力とご支持、誠にありがとうございました。再会をお楽しみにしております。

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