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武侯祠日语导游词

发布时间:2020-03-02 06:48:56 来源:范文大全 收藏本文 下载本文 手机版

武侯祠

武侯祠へ途中案内

皆さん、おはようございます。今日はいい天気ですね。皆さんもお元気でしょうか。まず今日のスケジュールについて、ちょっと説明させていただきます。午前は武侯祠を見学します。そして市内のレストランで食事をします。午後杜甫草堂へ行きます。ここから武侯祠(ぶこうし)まで約15分ぐらいかかります。じゃ皆さん窓の外をご覧ください。この川は「錦江(きんこう)」と呼ばれています。錦はにしきという文字です。三国時代の時蜀の国は錦織(にしきおり)がとても盛んでした。現地の人がその人で錦織を洗った後、その錦織の色が鮮やかになりましたので、その川は「錦江」と呼ばれていました。そのため成都のひとつの別名は錦城あるいは錦官城と呼ばれるようになりました。

はい、皆さん目の前のその橋は「万里橋(ばんりきょう)」と呼ばれています。これについて中国には昔からある物語があります。皆さんご存知ですか。「千里の道は一歩から」ということわざですよ。その時紀元223年頃、三国時代時、蜀(しょく)の国と呉(ご)の国の関係は戦争のせいで悪くなっていました。二つの国はもし同盟(どうめい)を建てないと強い魏(ぎ)の国と抵抗できないため。蜀の国の丞相(じょうしょう)諸葛孔明(しょかつこうめい)は費炜(ひい)という幕僚(ばくりょう)を呉の国に派遣しました。費炜が出発する前に諸葛孔明は費炜の手を握ぎりながら「千里の道は一歩から」と言いました。費炜は一生懸命努力しましたので、二つの国は仲良くなりました。

今、この時間を利用させていただいて、武侯祠についてちょっと説明したいと思います。

武侯祠は成都の单にあり、三国時代(さんごくじだい)の劉備玄徳(りゅうびげんとく)と諸葛孔明を祭っている所で全国歴史が一番古い三国文化の博物館です。紀元223年4月に劉備玄徳が白帝城(はくていじょう)で亡くなり諸葛孔明は彼の遺物(いぶつ)をここに埋葬(まいそう)して以来。すでに1780年余りの歴史を持っています。

はい、皆さん、そろそろ武侯祠に着きます、貴重品をお持ちください。足元に気を付けてください。では、降りましょう

武侯祠

ここは黒い壁があります。これは中国の礼儀(れいぎ)では重要な人物がここに祭られていると言う意味です。はい、ここは武侯祠の正門です。皆さん、上の額(がく)をご覧ください。「漢昭烈廟(かんしょうれつびょう)」が四つの文字が書いています。「漢」は劉備玄徳が打ち立てた蜀漢政権(しょっかんせいけん)という意味で。「昭烈」とは劉備なくなった後の贈り名(おくりな)です。「廟」は偉い人がなくなった後祭られた所です。「ここは武侯祠で諸葛孔明を記念して建てたものです。それなのになぜここには“漢昭烈廟”と書かれているのだろうか……」そうです!これは成都武侯祠の特色の一つです。つまり、この武侯祠は漢昭烈廟と合併(がっぺい)されているのです。武侯祠と漢昭烈廟は元元別に建てられ、別々に存在していました。蜀漢の皇帝である劉備玄徳を祭った漢昭烈廟に足を運ぶ人は少なくて。これに対して、彼の部下にあたる諸葛孔明を祭る武侯祠に参拝(さんぱい)する人は多かったのです。臣下(しんか)が君主(くんしゅ)を上回る(うわまわる)ことなかろうという理由で、2つを1つに合併したのですが。でも、人々は皇帝の劉備玄徳を上回る諸葛孔明の才能と人格を偲んで、2つを1つ合併された後にここを武侯祠と呼んでいるです。

はい、皆さん、私について入りましょう。これは武侯祠の地図です。今、私は見学の手順を説明したいと思います。まず「三絶碑(さんぜつひ)」などの石碑を見学してから、二門を経て、文官廊(ぶんかんろう)と武将廊(ぶしょうろう)を通り、劉備玄徳殿へ行きます。後ろの諸葛孔明の記念堂「武侯祠」に行き、三義廟(さんぎびょう)の後、劉備玄徳のお墓を見学します。ここは1時間半ぐらいかかると思います。

はい、皆さん、こちらへどうぞ。これは「三絶碑」です。これは唐の時代の物で非常に有名です。この碑(いしぶみ)の高さは2.9メトールで、厚さは約20センチです。唐の時代の時、宰相(さいしょう)(今の総理大臣にあたる)裴度(はいど)という人が文章が書いて、全文には諸葛孔明を褒める言葉ばかりです。そして、当時孔明のような有能な人が見つからないという現実を嘆いています。また、この石碑は唐の有名な書道家(しょどうか)柳公卓(りゅうこうたく)と彫刻(ちょうこく)の達人(たつじん)魯建(ろけん)の作

2 品で。文章、書道、彫刻はいずれもすばらしい物で、「三絶碑」と言われるようになったのです。

はい、向こうに「明碑(みんひ)」と呼ばれています。名前の通りに明の時代の石碑です。上には武侯祠の規模や文物などの内容が書かれています。武侯祠の歴史を研究する貴重な資料になっています。下の動物は何ですか。皆さん、あててみてください。一つの説では、もともとこの辺ではよく水害が起こり、亀は水害の元凶(げんきょう)だと考えられて、処罰(しょばつ)するため、この重い石碑を背負わせて、また世間の人々にこれから悪いことをしないよう警告しているのです。もう一つの説では、これは亀じゃなく。竜の息子「ビーシ」と言うものです。権力、長寿(ちょうじゅ)の象徴と認められて、古代の宮殿(きゅうでん)にはよく見られます。

はい、ここは二門です。上の額をご覧ください。「明良千古(みんりょうせんこ)」という四つの文字が書いてあります。「明」は古い文字で、目辺になっています。劉備玄徳は目が鋭いという意味です。「良」はすばらしいという意味で、蜀の国の幕僚たちは忠誠で、偉い専業をしていたということです。「千古」は彼たちの功徳が永遠に続いていくという意味です。

これは「出師の表(すいしのひょう)」です。この文章を書道する人は单の单宋の有名な武将岳飛(がくひ)です。「前出師の表」は孔明が227年に始めて魏(ぎ)の国に出兵する時、皇帝の劉禅(りゅうぜん)に差し上げた上奏文(じょうそうぶん)です。国を盛んにするための教訓や人材の推薦。また、白帝城で受けた劉備の望みを実現すること、必ず漢王朝を再興(さいこう)するという決心が書かれています。「後出師の表」は孔明のもう一枚の上奏文です。後世(こうせ)に大きな影響を与え「国のために力を尽くして、死んでもやめない」と言う言葉はここから出たのです。单宋の有名な武将の岳飛は涙をこぼしながら、これを書いたのです。昔から出師の表を読んで涙をこぼさない人はいないと言われています。この書を全体から見ると前半は気持ちが落ち着いて書いたような感じがしますが。だんだん書くスピードが早くなり、前半の楷書(かいしょ)から草書(そうしょ)に変わって、岳飛の気持ちが高ぶっていく様子が現れています。

はい、今劉備玄徳殿へ参りましょう。目の前に一つの大きな鼎(かなえ)

3 があります。三本の足があるは入れ物のことを「鼎」と言います。昔この鼎では「紙銭(しせん)」を焼きました。「紙銭」というのは死んだ人が天国で使う紙で作ったお金のことです。あの四本の足がある物は香炉(こうろう)です。清の時代の皇帝が娘がお嫁に行く時彼女にありたプレゼントで六匹の龍の模様が描かれています。劉備玄徳の前に置かれたのはここが皇帝の場所だと言うことを強調し、また皇帝の位と権力も表現しています。

皆さん、上の四つの文字をご覧になってください。「業紹高光(ぎょうしょうこうこう)」と四つの文字が書いていますね。一つめの「業」は手柄(てがら)という意味です。つまり劉備玄徳は蜀の国を作ったということですね。次はの「紹」というのは越しえるあるいは当たるという意味ですよね。高い「高」は前漢時代の最初の皇帝劉邦(りゅうほう)を意味します。光りというのは後漢時代の劉秀(りゅうしゅう)という皇帝の名前です。この額の意味は劉備玄徳が蜀の国を建てた功績はそのふたりの皇帝を越えるに値するという意味ですね。ようするに劉備玄徳を褒める言葉ですね。

もうちょっと前に行きましょう。

この金泊張り(きんぱくはり)の塑像(そぞう)は劉備玄徳の像です。正々堂々(せいせいどうどう)の顔をしているでしょう。伝説によると劉備玄徳は耳が大きく肩までのびています。中国のうらないしの話によると耳が大きい人は幸せがある人です。もう一つは、劉備玄徳の手も非常に長いです。膝まで、伸びたそうです。皆さん、手を膝までのばせますか。

劉備玄徳を記念する所は四川省にありますが、実は劉備玄徳は四川省出身ではないですよね。彼は河北省の涿洲(たっしゅ)という所に生まれました。もともと草鞋(わらじ)を編みながら、あちこちを流浪した人で友達と付き合うのは熱心な人ですから、たくさんの友達がいました。中国には昔から一つの言い方があります。友達をもらえば、天下をもらえるという言葉ですね。それじゃ、皆さん<三国志>はご存知ですよね。今から約1800年前中国の後漢の時代、黄巾の乱が起きました。劉備玄徳と関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)が桃ばたけの誓いを通じて義理(ぎり)の兄弟になりました。彼らは黄巾(こうきん)の乱をしずめる戦いに参加しました。初めは優秀な幕僚がいなかったので、戦争でよく失敗しました、紀元207年劉備玄徳は諸葛孔明の家に三回ほ

4 ど訪ねて中国を統一する気持ちを諸葛孔明に真剣にうったえました。諸葛孔明はそれを感謝するため劉備玄徳の丞相になりました。そのあと、諸葛孔明の協力のおかげで、劉備玄徳の勢力はだんだん強くなりました。やっと紀元221年蜀の国が建てられました。その二年後、関羽の仇(かたき)を討っために呉の国に討伐(とうばつ)に行きました。しかし、失敗でした。それで、白帝城で病気になって残念ながらなくなったんです。

劉備玄徳が蜀の国の皇帝として国を建てたのは、もちろん、第一は人材を大切にしたからですね。有能な人を求めたわけなんです。軍事のことは関羽、張飛にまかせ、政治は諸葛孔明にまかせていたっと言われています。人材はもちろん重要なことですね。現在の会社にたとえるならば皇帝は社長のようなですね。もし皆さんが社長ならば何か一番大事だと思いますか。大事なのは優秀な人材を部下にしして彼らの力を十分に発揮させることでしょう。その点においては劉備玄徳はとても優秀な社長だったわけですね。また、草鞋を編んでいた彼が人材を得て国の皇帝になって部下をうまく使いこなすことができたのは彼の人徳(じんとく)がすばらしかったからでしょう。現在の社長さんにも必ず求められるこどですよね。いくら優秀な部下がいたとしても上手に使いこなせなければ、その会社はよい会社とは言えませんよね。やはり人徳がよい

優秀な部下がうまくかみあってこそ、よい会社ができるわけでしょう。劉備玄徳のもとではそれがうまく行われていました。

はい、皆さん、この看板をご覧ください。これは「隆中対(りゅうちゅうたい)」です。「隆中」は地名です。「対」はふたりの話という意味です。紀元207年の冬ごろ劉備玄徳は三回ほど諸葛孔明の家へ訪れたことがあります。諸葛孔明は「天下三分(てんかさんぷん)の計」を提案(ていあん)しました。まず中国の西单部今の四川省と雲单省(うなんしょう)と貴州省(きしゅうしょう)を占領して呉の国と同盟をたてて強い魏の国に抵抗(ていこう)すること、そして、チャンスを見て、中国全土を統一しましょう。劉備玄徳は諸葛孔明をもらってから、ほんとに「水魚(ずいぎょ)のまじわり」のような感じがして、まったく諸葛孔明の言うとおりに頑張りました。そのふたりの会話をまとめて出来た文章は「隆中対」です。これは三国時代の大切な文章です。

はい、皆さん、こちらへどうぞ、これは関羽殿です。上の額をご覧くださ

5 い。「義薄雲天(ぎはくうんてん)」と書いてあります。中国には「君と君の付き合いは水の如し」という諺(ことわざ)があります。関羽はたいへん義理が大事にする人です。義理は関羽にとって命より大事なことです。雲や天などは関羽の義理と比べたらまだまだ薄いと言う意味です。

これが関羽の像です。その帽子は劉備と同じものです。元の時代、関羽の

皆が学ぶべき手本として大事にして。その時から、関羽が「関皇帝」或いは「関帝」と呼ばれるようになりました。至る所に関羽を記念する廟があり、皆関羽廟と呼ばれています。関羽は劉備と同じような帽子をかぶっていますが、中国の歴史上、皇帝を除き、一般の武将でこの帽子をかぶっているのはただ関羽だけ。文人の中では中国の聖人といわれている孔子だけです。関羽の身分がとても高いです。三国時代、関羽は五虎大将(ごこうだいしょう)の一番目と言われました。虎のように勇猛な武将が蜀の国には五人がいて、みな武術が得意です。中でも関羽が一番強かったということです。

隣には関羽の息子二人、関興(かんこう)と関平(かんぺい)の像があります。関興は何度も孔明について魏の国に出征したことがあります。最後、病気で死んでしまいました。関平は関羽と伴に呉の国に捕らえられなくなったんです。ここには関羽の部下周倉(しゅそう)の像もあり。お話の中の人物ですが、いつも黒い顔つきをしている勇猛な武将で、関羽と一緒に斬られたそうです。

はい、皆さん、こちらへどうぞ。この両側には文官廊と武将廊です。劉備玄徳の幕僚たちの像がそれぞれ14体がある。皆非常に忠実な人物でした。劉備玄徳より近いほどその身分が高いわけだ。そういう話があります。

庞統(ほうとう)、蜀の国の軍師の一人です。彼は孔明と共に「一対の鳳凰(ほうおう)」と例えられています。二人の才能はほぼ同じだと言われています。その時、二人の内一人でも得ることができれば、天下を手にすることができるいわれていましたが、ただ惜しいことに36歳の若さて死んでしまったそうです。庞統がその時もし死んでいなければ、中国の歴史は今と変われっていたかもしれません。

簡雍(かんゆう),文官で、弁舌(べんぜつ)に得意な人です。劉備玄徳と話し合うときにもよく冗談を言い、劉備は大変気に入り、自分の妹を彼に紹

6 介しました。彼はゴマするのがうまかったということです。

呂凱(ろかい)、少数民族を管理する上では役に立った人物です。その時背が低い人は頭がいいという言い方があったように、雲单省出身の呂凱は背がずいぶん低いですが、頭が非常に明晰(めいせき)でした。戦うより心を攻めるのが第一と言う孔明の政策を忠実に守ったので、就職後は再び反乱がありませんでした。

費炜、紀元223年、呉の国と同盟を結ぶためにかれは孔明に派遣され、出発する前、見送りに来る諸葛孔明の手を握りながら「千里の道は一歩から」と言いました。この言葉はそのまま諺になって、人々によく使われています。

傅彤(ふとう)、武将の一人です。なぜ文官廊に置いたのですか。簡卖な原因で向こうには置き場がないですから、その人は劉備玄徳の身周りを守る一人として非常に<三国志>にうまく描きました。彼は劉備玄徳の警衛係一人だったそうです。公元222年、劉備玄徳は呉の国へ出兵して敗戦されて逃げ戻った時、彼は一番後に劉備玄徳を守った、最後まで一人ばかりで戦う。

董允(とういん)、諸葛孔明のお手伝いさんの一人です。いつも素朴な生活を暮らしていたそうです。

邓芝(とうし)、外交官の一人です。

陳震(ちんしん)、蜀の国の古い幕僚の一人です。最初から死まで劉備玄徳と伴ったそうです。

蒋琬(しょうわん)諸葛孔明の跡継ぎの一人です。その時、内政(ないせい)はこの人任せたそうです。

董和(とうわ)、董允の息子、非常に素朴な人、貪慾も何もない人。

秦宓(しんび)、弁舌が強いです。

楊洪(ようこう)、内政を管理する役人です。

馬良(ばりょう)、文章を書くのが得意です。

程畿(ていき)、

皆背が低いです。なぜならば原因は二つがある。一つは单方の人はもともと背が低くて生まれつきです。もう一つは年代により作り方も違います。

張单、冯习,傅佥,向宠,廖化(前出師の表に出て信頼できる人)

黄忠(こうちゅう)、この老人の像は黄忠です。この武将は高齢でしたが

7 非常に強く、62歳でもまだ一キロのご飯を食べることができ、五虎大将の一人に数えられました。劉備玄徳は「亀の甲より年の功」と褒めました。

姜維(きょうい)、チャン族、孔明の後継者と言われ、九回ほど、魏の国に出兵したことがありますが、結局すべて失敗し自殺しました。

王平(おうへい)、非常に穏やかな人です。「泣いて馬稷を切る」と言う物語の中で出ている人物の一人です。武術が強くなったそうです。非常に忠実な人だった。特に街亭(がいてい)と言う所を取る時何回も馬稷(ばしょく)に勧めたんですが、馬稷はわがままで失敗して、諸葛孔明に首されちゃった。しかし、勉強不足で亡くなった時は漢字10個ぐらいしか書けないそうです。例えば、こんにちは、すみません……自分の名前だけ書けろ。

馬超(ばちょう)は五虎大将の四番目です。曹操は彼を大変恐れていたそうです。生きている間、蜀の国の北の境をずっと守っていました。曹操は馬超のお父さんが殺しました。「馬超不死、我无葬身之地」——曹操。

張翼(ちょうよく)、この像はちょっと目つきが鋭いですね。きつい顔をしないと武将とは言えないでしょう。古い武将の張翼は姜維とともに魏の国に征伐した時矢に当たって死んでしまったそうです。

趙雲(ちょううん)、とても勇猛な武将で五虎大将の三番目です。長坂坡と言う所で一人だけでも曹操506人の強い武士を首した。伝説によりますと、ある日彼は非常にうれしくてお酒を飲みすぎて酔っ払いになって病気にかかったそうです。

はい、今張飛殿に着きます。上の額をご覧ください。「誠貫金石(せいかんきんせき)」と書かれています。張飛は義理に厚い人物だったし、国をとても愛していたから、その意志は金でも石でも貫く(つらぬく)という意味です。これは張飛の像です。くるい顔つきですね。眠をカツと見開いた様子はとても怖いですね。張飛は劉備の義理の弟で、五虎大将の二番目です。長坂坡と言う所で一人数十万の曹操軍前に立ち寒かった物語を中国で知らない人はいないでしょう。関羽の仇(あだ)を討ちのため呉の国へ出兵した後、寝ている間に自分の部下に斬られてしまいました。それで、寝巻き(ねまき)を掛けたままの像なのです。伝説によりますと、張飛は寝ている時も眼を開じないそうです。張飛が結婚したかどうか、三国志には記載されていませんが、隣には義理の息

8 子と孫の像が置いてあります。孫と息子の年齢の差があまり大きくなくみえますが、それは死んだ時の年齢に合わせて作ったからです。

はい、皆さんこちらへ、どうぞ、後ろは諸葛孔明を記念する「武侯祠」です。劉備玄徳殿は他の建物より一段高く作ってあります。何故かと言うと、劉備は蜀の皇帝なので、それだけ身分も高いというわけです。

はい、上の額をご覧ください。「武侯祠」と書かれていますが、この文字は郭沫若(かくまつじゃく)によって書かれたものです。「武侯」は孔明の贈り名です。

屋根の上には弥勒菩薩(みろくぼさつ)の像が置いありますが、これには二つの説があります。一つはただの飾り、もう一つは孔明を迎えために極楽世界(ごくらくせかい)からやってきたのだと言う説です。ほかにも色々な像がありますが、それに少数民族が孔明を偲ぶ(しのぶ)ために作ったものです。孔明が生きている時、沢山の農具(のうき)を発明し、後世に優れた技術を残しました。この上には好望という龍の息子の彫刻がありますね。この建物がいつでも無事なことを祈っているためです。

はい、上の額をご覧ください。「名垂宇宙(めいすいうちゅう)」と四つの文字が書かれています。諸葛孔明の名前は宇宙のようにいつまでも伝えられる。また、諸葛孔明より頭がいい人がいないと言う強調的な言い方です。

両側には有名な対聯の一つがあります。敵の心を攻めれば、敵は自ら(おのずから)消えていく。大昔から兵隊さんが戦争が嫌いです、勢いをうまく分析しなければ国が作出した政策は誤まりが出てしまいます。その後、蜀の国を治める人は深く考えなさいと言う意味です。

羽毛の団扇(うちわ)を持って、穏やかな顔つきをしている像が孔明の像です、左側に剣(つるぎ)を持っている侍(さむらい)は軍師の権力の印です、右側に本を持っているお手伝いさんは政治の印(しるし)です。

諸葛孔明は紀元181年、山東省に生まれで27歳まで湖单省の北にある襄陽(しょうよう)の隆中(りゅうちゅう)で晴耕雤読(せいこううどく)の生活を送っていました。「三顧の礼(さんこのれい)」のお蔭で劉備玄徳の政治集団に参加して、劉備玄徳の一番重要な幕僚になった、諸葛孔明がないと蜀の国が建てられないそういう話があります。

9 孔明の像の左側には太鼓(たいこ)が一つ掛けてあります。実は、これはもともと少数民族が使う炊事用品の一つでしたが。諸葛孔明が昼間はこれを利用してご飯を炊き、夜、戦いになるとこれを叩いて警報を発すと考え出しました。そのため、人々はこれを「諸葛太鼓」と呼んでいます。この鍋は銅で作られ、大体二十人分のご飯を炊くことができるそうです。

はい、皆さん、こちらへ、どうぞここには杜甫が昔武侯祠を尋ねた時に書い詩があります。

蜀相(しょくしょう)

丞相の祠堂(しどう)何れ(いずれ)の所にか尋ねん 錦官城外 柏森森(きんかんじょうがいはくしんしんたり) 階に映ずる碧草(へきそう)は自ずから春色(しゅんしょく) 葉を隔てる(へだてる)黄鹂(こうり)は空しく(むなしく)好音 三顧頻煩(さんこひんぱん)なり天下の計

両朝開済(りょうちょうかんさい)する老臣(ろうしん)の心 出師(すいし)未だ(いまだ)かたざるに身先ず死す(みまずしす) 長く英雄をして涙を襟(きん)に満た使む(みたしむ)

上を見ると「淡薄明志(たんはくめいし)、寧静至遠(ねいせいちえん)」と八つの文字が見えます。これは孔明の子供を戒める本から、出た言葉です。素朴な生活をすれば、志は明るい、静かにすれば、その考えは遠いと言う意味です。これは中国の道教の思想で、欲望を抑えれば、志(こころざし)が高くても実現できるということです。特に身分が高い人にとって最も大切なことです。

ここは三義廟です。ここに祭られているのは劉備玄徳とその義兄弟の関羽、張飛です。「桃園(とうえん)の誓い」という物語を記念するため、造られました。

三義廟側には喜神坊(きしんぼう)と書かれた大きな石があります。これは現地の風習の一つです。毎年旧暦の一日から十五日まで、武侯祠を遊覧する習慣があります。喜びの神を迎えるためですか、喜の神というのは、劉備玄徳、

10 関羽、張飛のことです。もしこの三人が自分の家を訪ねてくれば、その一年は無事に楽しく過ごすことできます。ですから、人々はここにきて、三義廟にお参りをし、三人の人形、玩具やなどを買って帰り、守りの神様として大切にします。

ここは劉備のお墓です。「千秋凛然(せんしゅうりんぜん)」とは劉備玄徳は威風堂々(いふうどうどう)としており、いつまでも人々に偲ばれるという意味です。「漢昭烈陵」とは、ここが蜀の皇帝のお墓だと言う意味で「昭烈」は劉備玄徳の贈り名で、「陵」はお墓の意味です。

この墓は高さ12メートル、周辺は180メートルです。紀元223年4月に劉備玄徳は夷陵(いりょう)の戦いに敗戦され、白帝城で病死しました。しかし、劉備玄徳の死体が確かにこの墓の中に埋葬しているか、実は現在でもまだはっきりしていません。ここは蜀の都(みやこ)ですから、皇帝の劉備玄徳が死ねば当然ここに埋葬されるべきで、歴史の本にもこのことを載っているという説があります。もう一つの説がありますが、白帝城はここより随分離れていますから、飛行機もバスもない時代、馬車(ばしゃ)だけで都の成都まで運んでくるのは難しくて不可能だと主張しているということです。

しかも、この千年間、一度も盗掘(とうくつ)されたことがないと言われていますが、これについては一つの物語があります。唐の時代、二人の泥棒がある真っ暗な夜に穴を掘って中に入りました。しかし、不思議なことに、どこからか声が聞こえてきます。近づいて見ると劉備玄徳と諸葛孔明が碁を差しています。しかも関羽と張飛の二人が側に立って、じっとこちらを見ています。二人は仰天(ぎょうてん)し、慌てて逃げようと思ったとき「待ちなさい、わざわざ来たのだから、一杯飲んで行きなさい」と声を掛けられました。二人は慌てて差し出されたお酒を受け取ると、一気に飲んでしまって、大慌てて逃げ出していきました。その瞬間、大きな雷が鳴りました。その後帰った二人はそのまま病気にかかり、死んでしまいました。劉備玄徳のお墓を発掘(はっくつ)してはいけないと言う話がこの当たりに広まったということです。

実は本当の理由は二つがあります。一つはもし発掘すると、中の出土品(しゅつどひん)は保存が難しくて壊されてしまうかもしれません。もう一つは大変大きなお墓ですから。子孫のためにも残しておこうという理由です。それで、

11 今でも1800年前の様子が変わらず、先ほどと同じように鼎が一つ置いてあり、これもやはり、身分と権力の印です。

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