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7.正文样本

发布时间:2020-03-02 09:49:47 来源:范文大全 收藏本文 下载本文 手机版

湖北文理学院外国语学院日语专业本科毕业论文

日本文化の魯迅文学への影響

専 攻:日本語 学生番号:2010132109 氏 名:席修挙 指導教師:寧軍濤

要旨:魯迅は20世紀の中国で最も影響がある文学家の一人である。魯迅は偉い文学者であるばかりでなく、偉大な思想家、偉大な革命家である。日本、アメリカ、イギリスひいては韓国で魯迅の著作を出版した。日本は魯迅が学業を成就したところで、彼が医学を放棄して、文学を選んだところでもあった。日本は魯迅にとって、意義が重大で、彼の生命の転機になった。日本に留学する時の魯迅は日本といろいろ関わっている。

本論は亓章から構成されいる。第一章では、魯迅が来日の背景や日本にいる魯迅が医学をやめて文学を選ぶ原因を研究する。第二章では、魯迅は日本にいる時日本人との付き合いを考察する。本論は「魯迅と藤野先生」という視点から日本人が魯迅への影響を説明する。第三章では、日本の言葉は魯迅作品の影響ということを探究する。第四章では、日本作品は魯迅作品への影響ということを考察する。本論は夏目漱石の『吾輩は猫である』と魯迅の『狂人日記』の比較を通じて、日本作品は魯迅作品への影響を説明する。第亓章は結語だ。魯迅作品は現代の歴史で崇高な地位を占めていて、それは日本文化と厳密な関係があるという結論を出す。彼の作品と人柄は将来の世代に重要な参考価値がある。それも本文の意味である。

キーワード:魯迅作品、日本文化、留学、文学、影響

摘要:鲁迅是二十世纪中国最有影响的文学家之一,他是中国伟大的文学家,思想家,革命家。日本、美国、英国乃至韩国都曾出版过关于鲁迅的著作。而日本是鲁迅完成学业的地方,是鲁迅决定弃医从文的地方。日本对鲁迅来说意义重大,是他生命的一个转折点!他在日本留学时期受到日本文化的很大影响。

全文分为五章。第一章,考察鲁迅去日本的历史背景以及身在日本的鲁迅弃医从文的原因。第二章,考察鲁迅在日本时与日本人的交往。本文选择了“鲁迅与藤野先生”这个视角论述其对鲁迅的影响。第三章,考察日本语言对鲁迅创作的影响。第四章,考察日本作品对鲁迅作品的影响,本文选取了夏目漱石的《我是猫》和鲁迅的《狂人日记》作对比,说明鲁迅受日本作品的影响。第五章,结语。得出鲁迅作品在现代史上的崇高地位,与日本文化有着密切联系这一结论。其作品及人格对后世有着重要的参考价值,这也是本篇论文研究的意义所在。

关键词:鲁迅作品;日本文化;留学;文学;影响

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はじめに

魯迅は中国の小説家、思想家、改革家である。彼は1902年に日本へ留学し、1904年までずっと日本で生活していた。日本での七年間の留学生活が魯迅に与えた影響を見落としてはいけない。帰国した後、魯迅は「精神改造」を始めることにした。彼はペンを借りて、中国の伝統小説とは様式も内容も全然違う『狂人日記』を創作した。毛沢東は「私は魯迅の小説を読んで育ってきた」、「中国第一等の聖人だ。孔夫子は封建社会の聖人だが、魯迅は新中国の聖人だ」①と言っている。魯迅は中国の精神文明を救うために一生懸命に創作して、今まで中国の世代に影響を与えている。魯迅は日本に自分の思想を形成し、自分の人生の道を決めた。彼は中国の大文豪になるのは、日本文化にいろいろ係わっていることだと言える。今は、魯迅の胸像が日本の仙台市内のキャンパスに設置された。また2011年(平成23年)に東北大学史料館に「魯迅記念展示室」が設置され、9月28日にオープニングセレモニーが実施された。

1.留学の背景及び思想の変化

魯迅の日本留学は、ただわが道を行く個人的な選択だったのではなく、その背景には時代の流れがあった。それから、留学した魯迅は思想に何が変化したか。以下はこの問題を説明する。

1.1 日本への背景

当時、西洋列強と明治政府の圧力を受け、敗北を重ねた清朝が、自らの政治制度と社会制度の改革を図っていく中で、外国への留学生派遣が改革の一環として推進された。だから、1894年暴発した日中甲午戦争に敗れた中国は、明治維新に成功した日本をモデルとして、日本の政治と経済の近代化を学ぼうと思われる。こんな環境のもとで、1896年に、中国は初めて日本へ中国人留学生を13人派遣した。それから、留学生の人数が年々増えていった。魯迅が留学した1902年には400人余りになった。 1.2 日本における思想の変化

魯迅は1904年9月から1906年3月まで東北地方仙台で医学を学んだ。魯迅は医学専門学校で二年生になって、自分の夢を抱いている。彼は『吶喊・自序』にこのように述べた。

「私は夢に満ちていた。卒業して国に帰る程になったら、私の父のように誤 『毛沢東文集』第2卷第43頁。『毛沢東文集』:人民出版社・1999年出版する。

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って苦しんでいる病人を救おう、戦争の時には軍医を志願しよう、また国民の維新への信仰を促進しよう。」①しかし、「幻灯事件」の後、魯迅の考えが変わった。

「その頃はまさに日露戦争のさなかで、やはり自ずと戦争に関するスライドが多くなるが、私は教室の中でつねづね同級生の拍手喝采に同調しなければならなかった。あるとき、私は思いもよらず、スライド上に忽然と現れた別れて久しい多くの中国人と対面した。一人が真ん中で縛られ、多数が周りを取り巻き、一様に屈強な体格だが、精神はまるで麻痺したように見える。説明によれば、その縛られている者は、ロシアのために軍事スパイを働き、見せしめのため日本軍によって正に首を斬られんとするところで、そして取り囲んでいる者はこの見せしめの騒ぎを見物している人々とのことだ。」②

「この一学年が終わらない内に、私は東京へ出てしまった。というのもこの一件の後、私は医学がそんなに重要でないと思うようになったからだ。一般に愚弱な国民は、たとえ体が如何に健康でたくましくとも、まったく無意味な見せしめの材料と観客になるのみだ。病気で死ぬ者がどれだけいようと、必ずしも不幸とはいえないのだ。即ち、私たちが第一に行わなければならないのは、人々の精神を改革することだ、また精神を改革するのに有効なのは、当時は文芸を広めることと私は思っていた」③

そのときから、魯迅は医学だけで、中国を救うという考え方が違っていたことを深く悟った。彼は一番重要なことは人々の精神を高めて、人々の思想を変えることだと考えた。そうしないと、健康な体があっても、ほかの人に見下げられる。つかまえられて首を斬られる。あるいは無神経な観衆になっているだけである。結果は、中国の社会改革ができなくなり、中国が強い国にはなれない。それで、彼は毅然として医学を放棄して、文学への道を選ぶことに決めた。

2.藤野先生からの影響

『魯迅全集』という本を探してみると、「日本」に関する言葉は多くて、日本人の名前は何百箇所もある。その中で、日本人のことを素材とする作品は『藤野先生』である。どんな背景の下で、魯迅は藤野先生をしたが、どうして帰国の魯迅は藤野先生を記念したが、藤野先生からどんな影響を受けたが、この部分は以上の問題を探究する。

①『吶喊・自序』より、竹内好 訳、『吶喊・自序』:『魯迅』より、東京文学出版社、1944年出版する。 ②『吶喊・自序』より、竹内好 訳、『吶喊・自序』:『魯迅』より、東京文学出版社、1944年出版する。 ③『吶喊・自序』より、竹内好 訳、『吶喊・自序』:『魯迅』より、東京文学出版社、1944年出版する。

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2.1 藤野先生と出会う背景

七年間あまりの日本留学経験をもつ魯迅は、生涯忘れられない藤野先生との出会いがあった。日本留学を通じて、魯迅はどのように日本を受けとめていたのか、魯迅の日本認識はどのようなものだったのか、日本での異文化体験を通して、いかに中国国民の精神的病を直したいのか、魯迅が目指した国民の「精神の改造」とはどのようなことだったのか、魯迅の日本留学を通じて、魯迅の目の中の日本人を探ってみたいと思う。

魯迅のような中国留学生の中で、大部分が八旗(満州族)出身である。魯迅のように、長江流域の各地からやってきた漢民族の留学生にくらべて、身分にも処遇にも目に見える差があった。当時、日本人から冷やかれるとともに、満人との区別のために自分自国からの奴隷教育を受けているのだという思いを払拭することができなかった。異国において失望と孤独を感じた。だから、同国の留学生を避けるため、わざわざ中国人のいない仙台に行った。仙台では日本人に囲まれた環境にあって、時には日本人の立場から、自国、自民族を眺めることがあったのではないかと推測される。 2.2 魯迅から見る藤野先生

魯迅は仙台で仙台人民とクラスメートの世話になった。彼は真剣に勉強したので、試験はいい成績を取った。しかし、民族偏見に満ちた眼差しためにある日本人学生に嫉妬されたり、口実を設けて言い訳をつけられて、侮辱されたりした。これと同時に、藤野厳九郎先生は彼に関心を持ってくれて、心を込めて指導してくれた。藤野先生はよく魯迅の答案を直し、学習を助けた。魯迅は藤野先生の真面目な仕事ぶりと深い交誼に感動させられた。これは魯迅に対する励ましとなったようである。以下は魯迅が藤野厳九郎先生にはじめのイメージである。

「色の黒い、痩せた先生であつた。八字髭を生やし、眼鏡をかけ、大小とりどりの書物をひと抱えていた。その書物を講壇の上へ置くなり、ゆるい、抑揚のひどい口調で、学生に向つて自己紹介をはじめた」。この『藤野先生』の部分を読んでいるとき、いつも魯迅を親切に指導したあげた日本人先生のイメージを現れてきた。

2.3 藤野先生から精神上の影響

藤野先生は魯迅にとても情熱を持って、関心を持ち、いろいろ助けた。藤野先生の誠意に満ちた、友好的な態度は魯迅を深く感動させた。その後、魯迅は 『藤野先生』という文章の中で、こう書いた。

「だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦まぬ教訓と

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は、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は尐いかもしれぬが」①

以上の引用する文章ように、藤野先生の希望と親切さを理解していた魯迅は心から藤野先生に感謝していた。『藤野先生』は素晴らしい作品で、魯迅の代表品の一つだと思う。

「ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼のくろい、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、

②たちまちまた私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。」という段落から見ると、藤野先生は魯迅に精神と人柄と処世の面で多くのヒントをあげた。藤野先生は魯迅の啓蒙先生とも言える。彼は魯迅の人生で特殊な意義を持っている。彼も魯迅の前進する一つの動力になったのである。こういう動力と偉い人柄の影響だからこそ、魯迅は夢のためにこつこつと書くことになって、いろいろ名作を作り出した。

3.日本語は魯迅作品への影響

魯迅の文学は独特な言葉の風格を持っているとよく言われる。魯迅は長年日本での生活で、彼の言葉の表現は日本語の表現習慣深く影響されて、いつも「日本語化」の色彩を帯びている。魯迅は日本語を使う原因、魯迅自分の作品の中で使う日本語を述べる。

3.1 日本語を使う原因

私は高校生の時に、教科書の中の魯迅の文章に対して、「わかりにくい」という感じがいつもあった。難しいと思うのは、魯迅の文章に含む思想ばかりであく、言葉表現の日本化もその原因の一つである。いったい魯迅がどのように日本語を見ているか、日本語からどのような影響を受けたか、以下、説明する必要がある。

魯迅は日本に来たばかりに、一生懸命日本語を学んでいた。魯迅は「要说的精密,固有白话不够用,便只得采用外国的句法」③と言ったことがある。彼から見れば、自由に自分の民族言葉を熟すことが一番よかったが、ある特定の条 ①『藤野先生』より、竹内好 訳、『藤野先生』:『魯迅』より、東京文学出版社、1944年に出版する ②『藤野先生』より、竹内好 訳、『藤野先生』:『魯迅』より、東京文学出版社、1944年に出版する ⑶『魯迅・白話文』より、『魯迅・白話文』:『魯迅全集』より、光明日報出版社、2006年に出版する

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件のもとでは、外国の言葉は自分の民族の言葉よりもっと適当である。それに、魯迅は留学する時もう日本語で文章を書いた。彼はとっくに日本語を自由にこなすことができる。だから、魯迅は自分の文章にもっと精密に表現しようとするに、中国の言葉を使って足りないと思っている時、日本語のある言葉を使用しかなっかた。 3.2 作品の中の日本語

魯迅はいつも自分の文章に日本語を借用した。借用語は、例えば、「写真、万年筆、人力車、名所、素人」というものが魯迅の作品から抜き出すことができた。それらは魯迅の作品に現れているが、魯迅の作品からそのような日本語借用語の数は尐なくない。その借用語を使用したのは、例えば、魯迅は『且介亭杂文集 论毛笔之类』の中で「万年筆」を用いた。「青年里面,当然也不免有洋服上挂一支万年笔,做做装饰的人」(若者の中に、洋服で万年筆一本を掛けて飾っている人がいる。)という描きがある。ここの「洋服」、「万年笔」もそのまま日本語の言葉から取ったものではないだろうか。

そのような例は挙げきれないほど多い。日本語の言葉をそのまま文章に使うこともよくある。たとえば『鬚の話』という雑文で、以下の描写がある。

「我剪下自己的胡子的左尖端毕,想,陕西人费心劳力,备饭花钱,用汽车载,用船装,用骡车拉,用自动车装。」①(私は、自分の鬚の左の尖端をつみおわってから、思った。陝西の人々は大変な世話をやいてくれた。金をつかって御馳走の用意をしてくれた。汽車にのせ、船にのせ、馬車にのせ、自動車に載せてくれた。)

ここの「汽車」、「自動車」はいずれも日本語の表現で、中国語の中でこの表現はないだろう。

以上の例から見れば、魯迅文学の言葉表現は日本語の言葉表現にも大きく影響された。このような借用語を利用して自分の考えを十分に表現する。これは魯迅文学の独特な作風となった。だから、魯迅の文学は日本語とも切れない関係を持っていると言える。総じていえば、作品の取材にせよ、作風にせよ、魯迅の文学は日本言語から大きな影響を受けた。

4.日本作品からの影響

この部分は夏目漱石の『吾輩は猫である』と魯迅の『狂人日記』の比較を通じて、日本作品は魯迅作品への影響を説明する。

4.1 夏目漱石との文学関係

①『魯迅 鬚の話』より『魯迅 鬚の話』:『魯迅全集』より、光明日報出版社、2006年に出版する

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魯迅と夏目漱石は日中近年化の過程に偉い文豪である。中国にとって魯迅は日本にとって夏目漱石とは同じだと思う。何というと、この二人も文字に通じて深い考えがある。文学の面で夏目漱石と魯迅の関係が微妙だと思う。二人も自分自国に大きい影響があり、作品におけてお互いに深い関係がある。それは事実である。

4.2 夏目漱石と『吾輩は猫である』

夏目漱石の本名は夏目金之助、漱石は彼の別号である。夏目漱石は1905年、処女作『吾輩は猫である』という小説を発表した。この小説は夏目漱石作家として日本近代文学史の崇高な地位を定めた作品である。夏目漱石はこの小説の中で、冷ややかな嘲笑と辛辣な皮肉を通じて封建な古い物事を否定し、日本資本主義が持ってきた拝金思想について不満な態度を表した。この部分は夏目漱石の「吾輩は猫である」から創作の風格を分析する。彼の創作の風格は魯迅の風格よく似っている。それから、夏目漱石の作品は明治維新の歴史に重要な役に立つ。この点からみれば、魯迅の作品も中国の近代の歴史に極めて重要な役割を演じる。

夏名漱石は『吾輩は猫である』の中で、猫の生まれたを始めとして、猫を物語の变述者として、猫の感じや見聞を通じて、夏目漱石の自分の態度を描写した。彼は猫の口を借りてこのように言った。

「吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲とくると真逆かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差し支えはない。物には両面がある、両端がある。両端を叩いて黒白の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである」①

それに、夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で、大量の風刺を使われて、鮮明的な黒いユーモアを読者に伝わり、社会に批判して、独立な風格になる。

「ことによると社会はみんな気狂の寄り合かもしれない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のように崩れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多尐理窟がわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院というものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力 ①「吾輩は猫である」第七章第四段落より、長江文芸出版社、2010年に出版する ②「吾輩は猫である」第九章第七段落より、長江文芸出版社、2010年に出版する

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を濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は尐なくない。何だか分らなくなった」①

夏目漱石は「吾輩は猫である」の中で、人间の本质が描かれ、資本主義を深刻的に批判する。夏目先生がこの小説を創作している日本では、資本主義がますます向上しているところだが、資本階級はお金の前で頭を下げて、自分の良知を隠して、自分の使命を忘れた。だから、当時の背景に、夏目先生はこの金銭万能のような社会に強い憤怒がして、風刺のペンで現実の資本主義にチャレンジしようと思った。 4.3 魯迅と『狂人日記』

魯迅は中国国民の「精神改造」のために、医学専門を断念して、作品をつくり始まる。1918年5月に初めて魯迅というペンネームを使って『狂人日記』という処女作の短編小説を発表した。その後、1918年から1926年まで、相次いで小説集『吶喊』、『彷徨』、雑文集『坟』、散文詩集『野草』、散文集『朝花夕拾』などを出版した。その中で、早期に魯迅の代表品は1918創作された『狂人日記』である。竹内好は独立な思想を通じて魯迅を研究するために有名になった。彼はかつて『狂人日記』について、次のように評価を加えている。

「この小説が近代文学の道を開いたのは、それによって口語が自由になったのでも、作品世界が可能になったのでもなく、まして封建思想の破砕に意味があるのでもない。この稚拙な作品によって、ある根底的な態度が据えられたことに価値があるのだと私は考える。」②

そんな「ある根底的な態度」だからこそ、魯迅は文章を通じて、自分の心中の深く秘められた文学生涯の気持ちできる秘密を打ち明けようとしている。

以下、『狂人日記』から尐引用してみよう。

「真黒けのけで、昼かしらん夜かしらん。趙家の犬が哭き出しやがる。獅子に似た兇心、兎の怯懦きょうだ、狐狸こりの狡猾……」③

「四千年来、時々人を食う地方が今ようやくわかった。わたしも永年ながねんその中に交っていたのだ。アニキが家政のキリモリしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に交ぜて、わたしどもに食わせた事がないとも限らん。

わたしは知らぬままに何ほどか妹の肉を食わない事がないとも限らん。現在いよいよ乃公の番が来たんだ……

四千年間、人食いの歴史があるとは、初めわたしは知らなかったが、今わか

①竹内好『魯迅』第26段落より、東京文学出版社、1944年に出版する

②『狂人日記』第六章より、五上紅梅 訳 東京文学出版社、1966年に出版する ③『狂人日記』第十二章より、五上紅梅 訳 東京文学出版社、1966年に出版する

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った。真の人間は見出し難い。」①

以上の引用部分から見れば、主人公は狂人である。狂人というものは正常人ではないだろう。魯迅は狂人の口を借りて、中国のずっと存在している儒教を批判し、四千年の歴史は全部否定するべきだった。「仁」というものは儒教の中心思想で、いま儒教を信仰している人々は「食人」という思想を持っている。儒教を捨てて西洋の個人主義を主張しなければならないという結論を出した。ほかの物を借りて当時社会を批判し、この点から見れば夏目漱石よく似っている。

4.4 夏目漱石の作品からの影響

以上の述べたように、夏目漱石は猫の口借りて、魯迅は狂人の口かりて、当時の社会の現象を批判する。ふたりは似てる社会歴史文化背景があっている。あの時、日本は明治維新の時期である。魯迅にとって中国は亓四運動を経験した。この背景で人文批判型の作家として、ふたりは心から挫折を感じた。そして、ふたりも必ず人間の本質の奥底までを描いている。

魯迅と夏目漱石本人ふたりはまったく無関係の人じゃない。魯迅は漱石の作品は知っていたようだが、その西片町の家が漱石旧居と聞かされてどんな 感慨を抱いたのだろう。魯迅は漱石を愛読した。夏目漱石の作品を二つ自分で訳して、『現代日本小説集』という本の中に収録する。そしてその本の後記でこういう評価を書いた:

「夏目的著作以想象精著,文词精美见称。早年所做,登在俳谐杂志《子规》 上的《哥儿》《我是猫》诸篇,轻快洒脱,富于机智,是明治文坛上的新江湖艺术的主流,当世无与匹者。”」「无与匹者」という評価から魯迅が夏目漱石に賛美と尊敬ははっきり見える。夏目漱石の文学は人間、人間の心を得体の知れない奇妙なものと位置づけ人間の本質を探ろうとしていく。そして悩んでしまう。この点ではなんとなく魯迅と大変似ていると思う。だから、魯迅は夏目漱石から影響を受けたということを理解しやすい。

おわりに

本文は四つの部分を中心にして、日本文化は魯迅作品の影響を分析した。①魯迅は日本への背景と日本における思想の変化②藤野先生は魯迅への影響③日本語は魯迅作品への影響④夏目漱石の作品は魯迅への影響。主に、日本人と日本語と日本作品から魯迅は日本の影響を受けたということを述べた。七年間の日本生活は魯迅に対してとても重要であることはいうまでもない。日本にお

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ける魯迅は「精神改造」を悟ったり、事に真面目な態度を分かったり、作品における独立な風格を形成始まったりする。こういう日本文化に接した魯迅は自分の思想がペンで表した。だからこそ、私たちは今の素晴らしい魯迅作品を読書することができる。

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